第8話 離別

 熱いシャワーが心地よかった。

 たちばな早苗さなえはこれまでのけがれを浄化するように、両手で隅々まで念入りに体を洗った。すべての疲労と屈辱を洗い流し、再び呼吸を整えるように。自分への労いも込めて、当面のあいだ働くつもりはない。金はじゅうぶんある。引っ越しをしてもいい。


 上京してから貯めた金と、高野から振り込まれた六千万の慰謝料を合わせれば、早苗の預金は5億近くに達していた。そのすべてが、十代の頃から体を売って稼いだ金だった。


――この復讐は、いつか終わりを迎えるんだろうか。


 シャワーを止め、バスタオルで体を拭くと、早苗は全裸のまま洗面台の前に立った。鏡に映る自分の姿を見る。

 高野にベルトで殴られた肩には赤紫色のミミズ腫れがくっきりと残り、首筋にも同じ色の内出血があった。それはまるで、高野の最後の呪詛が、二匹の禍々しい毒蛇となって纏わりついているかのようだった。


 商売道具に傷をつけられたことは許せないが、二度と高野に会う必要はないと思うと、清々する気持ちのほうが強かった。


「残るはあんただけね」


 早苗は自分の下腹部にそっと手を当てた。そこには高野の遺伝子を持った子がいる。考えただけでもおぞましい。明日にでも産婦人科の予約を入れるつもりだった。


 ドライヤーで髪を乾かし、丁寧にブラッシングする。艶やかに輝く黒髪は雪のように白い肌と強烈なコントラストを描き、まるで神秘的なオブジェのような色香を放った。その姿は、つい一昨日まで、来る日も来る日も体を酷使していた女とは思えないほど美しかった。


 しかし、鏡越しに自分を見つめながら、早苗はわずかに顔を曇らせた。


 早苗ほどの美貌があれば、三十歳という年齢は少しのハンデにもならないはずだ。それでも現実は厳しかった。若くて美しい女たちが、下からわらわらと蛆虫のように湧いてきて、彼女の居場所を侵食し始めていた。


 家庭に恵まれた箱入り娘が、何のためらいもなく売春に手を染める。金のために男に抱かれ、全身ハイブランドで固めた姿をSNSに投稿して笑う。そんな時代が当たり前になった世界で、早苗はみおに似た女を見つけてしまった。


 胸が痛んだ。

 もしもあの日、澪に出会わなければ――。

 考えるだけ無駄な、遠い昔の話だ。


――あれから、わたしはすっかり変わってしまった。


 VIP専用の高級風俗店に採用されるのは容易だった。自分以上の美貌とスタイルを持つ女が、そうそういるわけがない。男を懐柔する術だって散々教わってきた。だが、早苗は図に乗りすぎた。金に執着し、客を選り好みするうちに、店から「面倒な女」というレッテルを貼られ、特殊な客ばかりをあてがわれるようになっていった。


 高野雅道も、そんな特殊な客のひとりだった。唯一の利点は、他の客より一際金持ちで、利害関係が一致していたこと。それだけのために、早苗は半年間、虫唾が走るような高野の凌辱に耐えたのだ。


 結局あたしも、あの女と同じことをしてる。

 親子そろって馬鹿みたい。

 金のために人生を棒に振って、金なんかのために――。


 早苗は鏡の中の自分を憎々しげに睨みつけた。

 その瞬間、突如として強烈なフラッシュバックが起きた。視界が波紋のように揺れ出し、現実感が失われる。立っているのがやっとだった。目眩が頂点に達し、やがてすべてが闇に覆われた……。




✢✢✢✢✢




 気づくと、早苗は25年前の冬の日、神戸の小さなアパートにいた。

 ストーブの赤い灯が部屋を暖めている。六歳の早苗は炬燵こたつに入り、テレビを見ながら母の帰りを待っていた。


 玄関のドアが開く音がした。


「おかえり!」


 早苗は飛び出し、帰宅したばかりの母に抱きついた。

 

「ただいま、早苗。寒くなかった?」


「うん。早苗ね、ひとりでストーブつけてまってたんだよ」


「ほんとだ。ちゃんとつけれたのね。早苗はお利口さんだね」


 母の笑顔が、幸せをさらに輝かせる。テーブルにはホワイトシチュー、クリスマスチキン、苺のショートケーキ。どれも母が作ったものだ。お金はなかったけれど、心は豊かだった。


「早苗、メリークリスマス」


 母が手渡してくれたのは、赤い毛糸で編まれたマフラー。クリスマスツリーや雪だるまが散りばめられた愛らしいデザインだった。


「お母さんが作ったの?」


「そうよ。早苗に似合うと思って、一生懸命編んだの」


 嬉しくてたまらなかった。早苗はマフラーを首に巻いて鏡の前に立ち、何度も「ありがとう」を繰り返した。


 すべてが完璧だった。

 二人で暮らす小さな部屋は、愛で満たされていた。ストーブの赤い灯りが、窓越しに降る雪を照らし、世界を優しく包み込むように。


 なにもいらない。

 お母さんがいてくれれば、それだけでいい。


 幼い早苗の胸は、安心と幸福でいっぱいだった。どこにも不安はなかった。ただ、母の笑顔と温もりだけが、すべてを照らしていた。



 だから神様、どうかお願いします。

 時間を止めてください。

 この瞬間が、永遠に続くように。

 これ以上、望むものなんて何もないから。



 早苗は母の膝に寄り添い、ぬくもりの中で夢を見ていた。愛されているという実感が、六歳の心を満たしていた。


 だが、その記憶は急激に暗転した。


 突如として、部屋の壁が崩れ落ちるような轟音が響いた。早苗は飛び起きたが、目の前に広がる光景はもはや現実のものではなかった。家具や食器が次々と宙に舞い、窓の外には暗黒の嵐が渦巻いていた。


「お母さん!」


 叫んでも返事はなかった。母の姿はどこにも見当たらない。代わりに迫りくるのは、底の見えない深淵だった。


「お母さん、どこにいるの!?」


 足元が崩れ、早苗は奈落へと引きずり込まれる。叫び声は虚空に吸い込まれ、誰にも届かない。愛と安心に満ちていたはずの部屋は、いまや地獄の入り口と化していた。


 次に目を開けたとき、早苗は養護施設の門の前に立っていた。首には母がくれたマフラーが巻かれているが、その温もりはどこか遠いものに感じられた。


 背後には大人たち、目の前には母。冷たい風が吹き抜ける中、母はぎこちなく笑いながら早苗の髪に触れた。


「早苗、ここで少しの間、お世話になるのよ」


「いや!」


 早苗は母の手を払い、全力で抱きついた。


「お母さんと一緒にいる!」


 その声は幼い叫びであると同時に、愛を求める魂の叫びだった。だが、無情にも母は早苗を引き離した。施設長の竹脇が早苗を抱え上げ、門の向こうへと連れて行く。


「お母さん、行かないで!」


 泣き叫ぶ声が凍てつく空気に響き渡る。

 早苗の鋭い直感は告げていた。

 もう二度と母に会えないことを。

 この瞬間、彼女の世界は完全に崩壊した。


 早苗の本当の地獄は、この日から始まった。


 

 つづく

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VOICEー死者の願いー 銀時 @ginjimin

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