橘早苗

第7話 懴悔

 気づくと早苗は、自分の遺体を見下ろしていた。

 鬱蒼うっそうと木々が生い茂る薄暗い山奥に、ゴミのように打ち捨てられた亡骸。美しかった肌はおぞましい色に変色し、その上を大量の蠅と蛆がうごめいている。もし臭いを感じられるのなら、とても耐えられるものではなかっただろう。


 刃物で刺されたときの焼けつくような痛みも、殺される恐怖も、今はもうない。肉体という呪縛を解かれた早苗に残されたのは、底知れぬ後悔だけだった。


――わたしはいったい、なんのために生きてきたんだろう。


 多くの人を傷つけてきた。どんなに人を傷つけても、自分が背負ってきた痛みに比べればましだとさえ思っていた。無意識の怒りに翻弄され、自ら孤独を選び続けた。その結果がこれだ。強いと思っていた心は、誰よりも弱かった。そして、無力な自分への絶望。肉体を失った今、ようやくそのことを理解できた。


 本当は愛されたかった。

 わたしはただ、愛を求めていただけだ。

 なぜこんな簡単なことがわからなかったのだろう。

 早苗の頬を、涙がつたう。


 ごめんなさい――。


 その懺悔さんげは、人生で向き合ってきたすべての人々に向けられた心からの謝罪だった。


 そして、早苗は願った。ミクを助けてほしい、と。わたしの人生で、誰よりも愛を与えてくれたミクを。


――お願い、助けて。


 その念が放射されると同時に、早苗のからだは金色の光に包まれた。




✢✢✢✢✢




 ――七年前――


 都内の高級ホテル。

 スイートルームの一室で、高野たかの雅道まさみちたちばな早苗さなえは正面から睨み合っていた。


「堕胎費用も含めた慰謝料、五千万で結構ですから、払ってください」


 早苗の声は冷たく低かった。高野は目の前の女をじっと見据える。化粧や服装はいつも通り完璧だが、瞼が落ちたように目付きが悪く、ガムを噛んでいて絶えず顎が動いている。不遜な輩のようなその仕草が、醜悪さに拍車をかけていた。


 かつては清楚で従順だった女の本性がこれか――。

 鼻先で笑いながら、内心でそう嘲る。


「俺の子だという証拠はあるのか?」


「そんなの、DNA鑑定すれば一発でしょ」


 冷静さを装いながら、早苗は煮えくり返る腸を押さえ込む。


「先生、最近エッセイ本を出したそうですね。奥様との仲睦まじい私生活を書かれたとか。どうせなら、わたしのことも書いてくれればよかったのに」


 その一言で、高野の表情が一変した。


「現役医大教授、愛人を囲い、妊娠させた挙句に堕胎要求……週刊誌に載れば面白い話題になるでしょうね。先生の美談は、一瞬で世間に叩き潰される」


 高野は額に青筋を浮かべながら、ゆっくりと腰のベルトを外した。


「お前、自分が何を言っているのか、分かってるのか?」


――お前こそ、自分の立場わかってんのかよ。


 早苗は喉元まで出かかった言葉を飲み込む。この半年、高野の愛人として従い、身も心も限界まで消耗してきた。白くなめらかな自慢の肌も、このサディストのおかげで今や痣だらけだ。


 高野はベルトを手に、歩み寄る。


「土下座して謝れ。今なら許してやる」


 次の瞬間、ベルトの先端が空を切り裂き、早苗の肩を打ち据えた。激痛に膝を折り、悲鳴をあげた早苗の首にベルトが巻き付けられる。


「調子に乗るなよ、ゴミが!」


 高野は早苗を押さえ込み、憎々しい笑みを浮かべながら力を込めた。


――こいつ、本気で殺る気かよ……。


「苦しいか? 惨めな年増の売春婦として終わる気分はどうだ?」


 喉を絞め上げられ、意識が遠のく中、早苗は震える手で上着のポケットを探り、スマホを掴んだ。そして、渾身の力を込めて高野のこめかみを殴りつける。


「うっ……!」


 高野が吹っ飛ぶと、早苗はゼエゼエと激しく息をつきながらスマフォの画面を確認した。録音機能は作動している。


「先生、殺人未遂ですよ、これ」


 立ち上がりながら挑発的に笑いかけた。

 高野はこめかみを押さえたまま、苦痛と屈辱が混ざり合った表情で早苗を睨みつけている。


「覚悟しとけ。お前の店の元締めに話をつけさせる」


 震える声で吐き捨てるように言った。早苗は鼻で笑いながら、ポケットからマルボロを取り出した。


「脅しのつもり? 悪いけど、こっちはそんなのに屈するほど甘い人生送ってないのよ」


 煙草に火をつけ、深く吸い込む。妊娠中であることを一瞬思い出したが、どうせ堕ろすと決めていた。それより今は、この滑稽な男を追い詰めることのほうが重要だった。


 煙をゆっくり吐き出しながら、スマホの画面を高野に向ける。再生ボタンを押すと、先ほどの罵倒や暴力の音声がスピーカーから流れ出した。


「このデータ、もうクラウドにアップしてあるの。それだけじゃない。信頼できる連れにもデータを送信済み。もし私に何かあったら、即座に週刊誌に送られることになってる」


 高野の顔がみるみる青ざめる。


「……いくら欲しいんだ」


「五千万で手を打つつもりだったけど、さっきのベルトの一撃、けっこう効いたからね。首まで絞めやがって、喉も痛くて仕方ない。そのぶん追加で六千万、明日までに振り込んで」


「六千万!?」


「そう。あんたの家族や地位、それにセレブぶった奥様のプライド、全部守れる安い買い物だと思うけど」


 早苗は高野を嘲笑しながら煙草を床に落とし、ストッキング越しの足で火をもみ消した。


「明日の正午までよ。それまでに振り込みがなかったら、あんたは破滅。おしまいね」


 高野はその場に膝をつき、うなだれたまま、震える声で言った。


「……わかった。金は用意する。だが条件がある。金を渡したら、すべてのデータを必ず消せ」


 早苗は冷笑を浮かべながら高野を見下ろした。


「その条件、考えておくわ。それじゃ、おやすみなさい、先生」


 早苗は乱れた髪を整え、扉を開けるとスイートルームを後にした。背中には、すでに高野を見限った冷ややかさが漂っていた。

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