第6話 杉沢夫人の話
杉沢夫婦の家は、都内の一等地に建つ堂々たる豪邸だった。門を抜けると、広々とした庭園が目に入る。左右に整然と植えられた庭木の間には手入れの行き届いた調度品が点在し、そこから小道が奥へと続いていた。
丸山と麻美は杉沢夫人に案内され、庭を進む途中で麻美が不意に立ち止まった。
「おじさん、見て。猫の銅像がある」
指さす先には、まるで幼児が粘土細工で作ったかのような不恰好な猫の彫像が置かれていた。耳と尻尾がなければ、猫とすら判別できない歪な形だ。
「それは茶太郎をモデルに、著名な彫刻家の先生に依頼して作っていただいたものです」
杉沢夫人の説明を聞きながら、丸山は視界の端で笑いを堪えている麻美に目をやる。
「なんとも先鋭的な作品ですね」
「おじさん、真顔でそれ言うの卑怯だって」麻美が小声で囁くが、丸山は眉間を寄せて黙らせた。
「ところで、夫人」丸山は声を落とし、真剣な表情で問う。「茶太郎が人間の言葉を理解しているというのは、どういうことなんでしょうか? 詳しくお聞かせいただけますか」
杉沢夫人は悲しげに目を伏せ、静かに話し始めた。
「今から二十年ほど前のことです。当時、私たちは事業を始めたばかりで、生活も厳しい状況でした。その上、私が妊娠できない体であると診断され……主人と二人で深く落胆しました。それでも、子供がいなくても共に事業を成功させようと誓い合い、仕事に邁進しました」
夫人は庭の遠くを見つめる。どこか懐かしむような表情だ。
「そんなある日、保護猫の譲渡会で茶太郎と出会いました。彼は殺処分が予定されていた猫でしたが、ぎりぎりのところで私たちが引き取ったのです。それから私たちは、茶太郎を我が子のように可愛がりました」
夫人はバッグから一枚の写真を取り出し、丸山に手渡した。そこには若い頃の杉沢夫妻が写っている。夫人の腕の中には、つややかな毛並みの三毛猫——茶太郎——が抱かれていた。
「茶太郎の知能が普通の猫と比べて非常に高いことに気づいたのは、飼い始めて間もなくでした。例えば、私たちが赤ちゃん言葉で話しかけるとそっぽを向くのに、夫と日常会話をしているときは、まるで理解しているかのように相槌を打つように鳴くんです」
夫人の声に力がこもる。
「ある日、試しに『もし私の言葉がわかるなら、三回鳴いてみて』と言いました。でも、茶太郎は鳴かなかった。その代わり……英字新聞をどこからか咥えてきたんです。そして前脚を使って器用に新聞を開き、爪で見出しから三つのアルファベットを切り抜きました。その紙片を順に並べたら——」
夫人は小さく息を吐き、続けた。
「そこには『YES』と書かれていました。その直後、彼は三回鳴きました」
麻美が驚きの声を上げた。
「猫がそんなことできるんですか?」
「私も信じられませんでした。でも、確かに見たんです。茶太郎は私たちの言葉を完全に理解している……」
夫人は一呼吸置き、声のトーンを落とした。
「それだけではありません。茶太郎は私たちが迎え入れてから十年以上が経った今も、まったく老いないのです。毛艶も動きも、迎えた当初のまま。それが普通ではないと気づいたとき、私たちは少しずつ茶太郎に対する恐怖心を抱き始めました」
丸山は顎に手を当て、深く考え込むような表情を見せた。
「なるほど。老いない猫、ですか。確かに尋常ではありませんね」
夫人は眉を寄せ、声を震わせながら続けた。
「そして、三年前のことです。それまで穏やかだった茶太郎が、突然変わり始めました。最初は些細な違和感でした。私たちが誰かを家に招くと、彼は部屋の隅でじっとその人を睨むようになったんです。まるで何かを見透かしているような目で。それだけなら、まだよかったのですが……」
夫人は一度言葉を切り、深く息をついた。
「最初に被害が出たのは、あるビジネスパートナーでした。応接間で商談中、その方が書類にサインしようとした瞬間、茶太郎がテーブルの下から飛び出してきて、手を引っ掻いたんです。突然のことで、私たちも何が起きたのかわかりませんでした。ですが、その方は怪我だけでは済まなかった。数日後、不渡りを出し、破産に追い込まれたんです」
丸山は腕を組み、黙って話を聞いている。麻美もいつになく真剣な表情だ。
「最初は偶然だと思いました。でも、同じようなことが立て続けに起こったんです。他の方が引っ掻かれて車の事故に遭ったり、重病を患ったり……。そして、その全員が茶太郎に引っ掻かれた直後に不幸に見舞われました」
夫人の声は次第に小さくなり、こめかみを押さえながら、震える声で続けた。
「それだけではありません。茶太郎は自分の気に入らない相手が家に来るたび、牙を剥き、威嚇するようになりました。それがエスカレートして、訪問者だけでなく、主人にも襲いかかるようになったのです」
「それが、ご主人の怪我に繋がったのですね?」
「はい。主人は彼をなだめようと近づいたとき、突然襲われました。茶太郎は彼を見上げ、まるで殺意を持ったかのような目で睨みつけたんです。そして飛びかかり、爪と牙で顔や腕を切り裂きました。その瞬間の主人の悲鳴が、今でも耳に焼き付いています……」
夫人は震える声で続けた。
「私はあまりの恐怖に悲鳴を上げることもできませんでした。ただ震えながらその場に立ち尽くすしかなくて……。主人は血だらけで倒れ、意識も朦朧としていました。その間、茶太郎は荒い呼吸をしながら、じっと主人を見下ろしていました。まるで自分の行動に満足しているように……。でも次の瞬間、茶太郎は家中を駆け回り、窓枠に飛び乗ると、そのまま窓ガラスを突き破って外に出ていったんです」
麻美が驚いて目を見開く。「窓を突き破ったんですか?」
「ええ……。その時の音は忘れられません。ガラスが砕け散る音と、茶太郎の鋭い鳴き声が同時に響きました。そして、庭の奥に向かって全速力で走り去っていく姿が一瞬だけ見えたんです。それ以来、茶太郎は戻ってきていません」
夫人は拳を握りしめ、震える声で言葉を続けた。
「すぐにご近所にも尋ねましたが、誰も見ていないと言います。それからというもの、私は毎晩茶太郎がまた戻ってきて家族を襲うのではないかと怯えながら過ごしています……。主人が生死を彷徨う中、あの目、あの爪……あの恐ろしい姿が忘れられないんです」
夫人の肩にそっと手を置き、麻美が優しく言った。
「大丈夫ですよ。茶太郎はきっと私たちが見つけます」
夫人は涙を拭い、震える声でつぶやいた。「どうか……どうか、茶太郎を……」
丸山が静かに頷き、夫人に向き直った。
「私たちにお任せください。必ず見つけ出します。そしてこの問題を解決します」
つづく
VOICEー死者の願いー 銀時 @ginjimin
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