花嫁を選ぶ神話の神はいつも気まぐれ

南瀬匡躬

花嫁を選ぶ神話の神はいつも気まぐれ

-はじめに


 十七世紀のフランス演劇に見られる「ル・シッド論争」は今となっては形骸化と言われる理論の「三一致の法則」が守られていない作品ということで、当時のアカデミーや演劇界に大論争を巻き起こしたという。一般聴衆は一つの美学のように形容する言葉として、「ル・シッドのように美しい」と作品を軸にして称えまくったという。流行と威厳がいかに意味のない物ということを、世間に知らしめた作品とも言える。




 『ル・シッド(Le Cid)』。このコルネイユ(Pierre Corneille 1606-1684)による作品は、もともと悲喜劇トラジコメディーという喜劇、悲劇の双方を作品に取り入れた新ジャンルと言われる部分が特徴だ。敵である恋人の父親への仇討ち(すなわち悲劇)と、その恋人当人との恋愛成就(当時の喜劇は笑いではなくて、ハッピーエンドゆえの喜劇)を含んだ折衷主題せっちゅうしゅだいで構成されている画期的な作品と言われる。後にイギリスでは感傷喜劇、フランスでは催涙喜劇として大ブレイクするジャンルだ。


 この作品が社会的に知られてゆくことで、その作品制作方法に関する世の中の大論争が起こったという。ちなみにこの法則はしばしば劇作品の様式区分の手法に用いられることで知られている。まあ、当時の演劇ファンというのは、今で言うディープな沼の住人とでも言う人たちなので、世の中を巻き込んで大炎上したのであろう。




 そのアカデミーによる様式区分は、先ほどの三つの条件に一致したものを「古典芸術」として分類し、それにはみ出した、一致していないものは「まがいもの三流文芸のバロック」という歪んだ曲解がこの時代のフランス演劇界の主流となった。


 これら三つの要素の一致が成立した作品こそが誉れ高き古典作品で、これらを守らないのがダメなバロック作品だと考えられていた。古典は素晴らしいと賞賛する常識人の自己満足と今日では思われている出来事だ。この理論に則ると、その三つの要素とは「時間を移動してはならない。場所を移動してはならない。筋の複合や伏線の存在があってはならない(ひとつの事件を終わらせてから、次の事件を話題にする)」といったものだ。




 これに当てはめるとするなら、戯曲では無いけど、ジャンル区分けではSF分野にあたるこの作品は正真正銘の落第作品ということになる。サイコキネシスや神威で場所移動したり、推理考察の伏線上で、異次元空間の時間流れ、あちらこちらの時間を戻すフラッシュバック場面などはもってのほかである。


 だが理論通りにはいっていないこの小説は、いまや決してバロック様式の作品では無い。二十一世紀に名もなき作者が書いている現代小説である。繰り返すがジャンルで言うなら、未来を信じる優しさを持った人たちに贈る「SF作品」である。ちなみに気休めかも知れないが、あの著名な劇作家シェークスピアの作品も、そのほとんどはこれらの一致は守られていないという。あしからず。




 一方で、小説や物語には『入れ子構造』と呼ばれる技法がある。これはチョーサーやシェークスピアの作品にも見られる技法であるため、かなり古くから使われてきた文学技法と言えるようだ。これを一般には「劇中劇」や「作中作」と呼ぶことが多い。「演じる中で演じる」。今では文学の人よりも演劇の人の方がよく使う言葉だ。それがこの手法とこの作品の類似部分である。




 そんな「三一致の法則」から外れ、しかも「劇中劇」も含んだ、でも演劇の舞台では無い現実世界で演じることを強いられたのが、二十歳を過ぎること数年、この物語の主人公の女性である。やさくれたお嬢様のなれの果て、佐世保桜させぼさくら。そのおかしな「時空の劇中劇」に、演劇理論の中を翻弄して、凌駕して、爆発して、燃焼しきって、やがて彼女が本当の愛に目覚め、自分の人生をどう再興できるのか、を読者諸君は篤とご覧いただきたい。そして彼女を取り巻く人間模様と神々の大らかなる恵み。それも忘れずに味わって欲しい。それでは、はじまり、はじまり。




-序幕


「演じることが女優の魂」


 ファストフードのハンバーガーをかじりながら、同僚舞台俳優の研究生である関門朝風せきとあさかぜを前にご大層な目標を掲げる同じ研究生の女性、佐世保桜させぼさくら。彼女は二十二歳。大学を留年すること二回。もう既に卒業は諦めたようだ。


 ゴールデンウィークを無駄に過ごす二人は、バイトにあぶれ、互いに同類哀れんでいた。




「そんなたいそうな台詞、ハンバーガーかじって言うような台詞じゃないな」


 朝風は薄目を開けて、あきれ顔である。


「これでも高校の演劇大会では、県大会で表彰された経験があるのよ」


「その話、一億回ぐらい聴いた」


 あくまで彼は彼女の言ったことは戯言というスタンスである。


「あんたと知り合ってまだそんなに日数経ってないから」


 端から見ればどうでも良い自慢話とほら吹き話だ。


「いや、それぐらい、飽き飽きした話ってこと」


 そう言うと彼女のフライドポテトの紙容器を自分の方にたぐり寄せ、鷲掴みにしてあるったけ口に放り込んだ。


「ああっ! 貴重な私の栄養源、なんてことしてくれるんだ。今月もピンチなんだぞ!」


 涙目に訴える桜。貧乏と舞台役者、よくあるおきまりの身の上で今日も暇な時間を過ごしている。




 彼女の前にバンと封筒を置く朝風。


 ポテトの喪失感のダメージに溺れる桜。納得のいっていない彼女は、ぐずりながら、


「何これ?」と封筒を手に取る。


 中身を開けるとピン札で三十万円。寸分違わぬ綺麗な状態ではり付いたようにまとまったお札が出てきた。ぺろりと指を舐めてから一万円札、三十枚を数えおわる。


『フライドポテトの代金にしては多すぎだろう』と思った矢先、


「やばっ」とその金を放り出す桜。


「なんだよ」と朝風。


 我が身を抱きしめる仕草で、


「私、そう言う女じゃないから、他当たって」と身構える桜。


「どういう意味だ?」


「私の体が目的なんでしょう」


 朝風は飲みかけのコーラをブッと勢いよく吹き出した。




 ワイルドに手首で口元を拭うと、


「ふざけるな! お前相手に愛のお手当、三十万円も払う馬鹿な男がどこにいるんだよ。そもそもオレはそんな目的で金を使う男ではない」と彼女の言葉を一蹴する。割と正義感と常識は持ち合わせているようだ。




「じゃあ何? このお金」


 怪訝な顔のまま封筒を見つめる桜。


「オレの彼女のフリをしてくれたら、その金ギャラとして渡す」


「彼女のフリ? 私が? それで三十万円?」


「経費は別に払う。期間は一ヶ月、演じる役は社長令嬢。二人の出会いは一年前の夏の避暑地のテニスコート。在学の大学は広尾女子大。実家は横浜山手。ボロは出さないように、それ以外のプロフィールは勝手に出すな、そしてプロフィールの勝手な付け加えも禁止。上品な笑顔で常に無口にいろ」


「演技の依頼ってこと?」


 桜はヘップバーン演じるイライザ、そう『マイ・フェアレディ』のヒロインと自分を重ねていた。


「そう」


「いつから?」


「たった今から」


 そう言うと朝風は桜の手を引いて、ファストフードの店を出た。




「どこに行くのよ?」


 交渉成立と思った朝風は、彼女の手を引いて歩く。


「その小汚いセンスのかけらもない衣服を着替えないといけない。そこそこ品の良さそうな、質素で高級そうな服を買いに行く」


 不服そうな顔で朝風を見る桜。


「なぜ?」


「演じる衣装が必要だからだ」


「まだ私、やるって言ってないけど」


 彼女のその言葉に、あざとく笑うと朝風は、


「ふーん」と意味ありげに目線を彼女の背中にしょったデイバッグに移した。


 バッグの横ポケットに挟まった公共料金の払込書の束を引き抜くと、


「部屋、維持して、生活できるの?」と不敵な笑みを浮かべながら彼は言った。


 あわてて払込書を取り返すと、


「分かったわよ、引き受けるわ」と言って元あった場所にその紙の束を戻す桜。痛いところ、弱みにつけ込まれた感は否めない。


「それでどうすれば良いのよ、ヒギンズ教授!」と加えた。


 ヒギンズは先ほどのヘップバーンの映画で「黙っていろ。相づちと笑顔だけでいい」と注文を付けた敵役の言語学者だ。


「ウチの両親相手に、彼女のフリをして、お見合いは困る、という雰囲気を作ってくれ。そうすれば見合いはお流れ、お前は三十万円を正規の報酬として受け取れるというわけだ」


「はいはい」


 桜は「にわか仕込みの猿芝居でそんなに上手く事が運ぶのか?」と言いかけたが、ここは依頼主のメンツを立てることにした。




-第一幕 劇中劇


 レースのついたストローハットに、白を基調としたフリルのワンピース。


「ピアノの発表会でしか、こんな服着たことない」という彼女は、「大人になって、こんな服着るのは舞台の上だけだと思った」と言ってレース地のスカートの裾を手で翻す真似をした。


「今、舞台の上だと思ってよ。お前の演技はもう始まっているんだ」


 彼自身もスーツに着替え臨戦態勢という精悍な顔をして時を待っているようだった。




 無理に着替えさせられた姿のまま、彼女は新宿にある高層ホテルのロビーにいた。 


 ロビーの椅子に座っていると、スーツを着た上品そうな老紳士と高級そうな京友禅の着物姿のその妻と見られる夫婦が、朝風を見つけて近づいて来た。


 ちょうど視界に入ったあたりで桜は会釈をした。あちらも軽いお辞儀で返す。


「朝風、その人がお前の恋人か?」


「そう」


「また前みたいに友人に頼んでフリをしているのではないだろうな? お見合いが嫌で」


 朝風は無言で首を横に振る。


 その紳士は、上から下まで眺めるように桜を見て、


「あなたは朝風といつから?」と質問してきた。


「一年前くらいです」


「どこで?」


「避暑地のテニスコートで」


 桜は言われていたままの設定をオウム返しのように答えていた。




 その台詞の後で、老夫婦は意味ありげに口元が緩む。まるで何もかもお見通しという自信に満ちた表情のように桜は感じた。




「もういいだろう。食事をしたかったんだよな?」と朝風。アドリブの苦手な女優を下手に泳がせてボロを出したくないのだ。


「ああ、しかし気になるもんだからな」と笑顔の紳士の横で、鋭く観察している和服の女性がもっと手厳しいというのをその所作から桜は想像していた。


 レストランに入り、給仕人が椅子をひいて着席。すると支配人らしき男性が衣服の乱れのないなりのまま、横に現れた。


「これは関門さま。本日もご贔屓に、ご来店誠にありがとうございます。コースのお料理ということでお間違いないでしょうか?」


「うん。よろしく頼みます」


 支配人は愛想良く頷くとその場を後にした。


 支配人が去った後で、今まで無言だった和服の女性が口を開く。


「趣味はテニスですか?」


 さて困ったのは桜、予定にない質問事項が早くも出てきた。


「かあさん。まだ自己紹介もしていないのに、いきなり失礼だろう」と遮る朝風。


「あらそうだったかしらね。そちらから紹介してくれないと私たちは分からないのよね」


 夫人は挑発的な態度で二人に臨んで生きた。




 桜は耳元で囁くような小声で「ちょっと、どうすんのよ。予定にないこと話さないといけないわよ」と彼の足を軽く蹴る。


「分かっているよ」と困り顔の朝風。設定に無理があるだけでなく準備不足は否めない。


 準備の時とはうって変わって、煮え切らない朝風の態度に業を煮やした桜。予定にないことを訊かれて自己流で乗り切ることを決意。


「私、佐世保桜と言います。お初にお目にかかります。広尾女子大に通っている二年生です」


「まあ、広尾女子大なの? それは由緒ある学校、名門ね」と言いながら、


「私は朝風の母親の美枝子といいます。今日はお招きありがとうございます」と言った。


『おまねきって言った? 聞いてない』


 また設定にない場面だ。桜は無言に頷く。


「何を専攻なさっているの?」


「英文学を少々」


「まあ、どんな作家がすきなの?」


「ディケンズやクリスティ、ドイル、勿論古典のチョーサーやシェークスピアなんかも翻訳物では読みます」と返す。我ながら上手く乗り切ったという感じの桜だ。


「あら本当に知っているのね。文学を嗜んでいるのは本当みたいね」


 彼女はどうやら借り物の彼女であることを暴こうとしている様に見える。まるでバロック文学を蔑むような目をした大昔の演劇ファンのようだ。そして端から朝風のことなど信用していない感じだ。


「ご自宅は?」


「横浜山手です」


「へえ、どんなところですか?」


「坂の上で大変ですが、横浜港を見下ろせる公園や古い洋館が点在しているので、風光明媚な良い場所ですよ」と薄笑み浮かべ口元に手をやる。まるで貴族の令嬢のような仕草で。




 朝風の母親は小声で、


「今回は結構しぶとい娘ね。いつまで演じきれるかしらねえ?」と独りごちる。


 そして桜の顔をまじまじと見ながら、


「高校は地元なの?」と訊ねた。


「はい、丘の上女子大付属の高校でした。自宅のすぐ近くの」と即答する。


『あの馬鹿、設定にないことを……』と心配になる朝風。


「へえ、本当にお嬢様なのね。さぞかし有名なお宅なのかしら?」


 端で聞いていたら、嫌みにしか聞こえないのがこう言った質問である。


「どうでしょう? でも山手で佐世保の家と言えば一軒しかないので、すぐに分かると思います。祖父の代から紡績問屋として有名なので」


「シルクの繊維業界ね。横浜らしいお仕事ね」と美枝子。




 横で聞いていた朝風は、ここで「ん?」と気付く。


 設定にしてはポンポン、スラスラと出てくる。


『こいつ、本当のことを言っているのか? だとしたら、こんなにやさくれてはいるが、実は本当のお嬢か?』




「まあ、調べれば分かることだから」と朝風の母親、美枝子は落ち着いた様子で納得していた。


 そこに隣で黙っていた父親が割って入る。


「なあ、それなら今度の横浜の元町で開かれる『紳士録しんしろく』登録記念パーティーに朝風と一緒に出席していただいてはどうかな?」


「まあ、そうね。では朝風の妻と言うことで、先取りして妻のフリをしていただきましょう」と母親もその話に前向きだ。


 ちなみに『紳士録』とは、俗に言う大物人物、すなわち官僚、大企業役員、国政の政治家、文化人であり、同時に著名人でもある人たち、それらの中でも存命活躍している人々の情報を掲載した名簿のような本である。まさしく面倒くさい一家の面倒くさい人間を相手にすることになった桜だった。




 その時、桜は、『ん? ちょっと待って? 私、彼女のフリをしてここにいるのに、その役の上でさらに妻のフリして演じるの? ややこしいんだけど。いかれた劇中劇よ』と焦りを初めて感じた。そんな言葉があるのかは分からないが、いわば『劇中劇中劇』である。シェークスピアも真っ青、冷や汗が額を伝う。




 慌てた様子に気付いた母親が


「なにかまずいことでもあるのかしら?」と扇子で顔を扇ぎながら優雅に振る舞う。




「いや、オレ出ないから!」


 すかさず止めに入る朝風。防御態勢へと状況転換だ。当たり前である。これ以上ややこしいことに巻き込まれるのは彼自身も困る。


『親父の『紳士録』登録パーティーをなんで横浜でやるんだよ。聞いてないって』


 すると母親は、


「勿論、無償で、とは言わないから。奥さんのフリしてくれたら百万円のお小遣いを差しあげるから、二人で海外のリゾートにでも行ってらっしゃいナ」と平然と封筒をテーブルに開いた。桜の脳裏には電卓ではじき出された一三〇万円の数字がよぎる、がそれ以上のやっかい事という嫌悪感が最終的には勝った。


 桜はしかめっ面で朝風の顔を見て、


『血は争えないっ!』と母親の行動にあきれ顔である。ジト目で朝風に下目遣いに、もの言いたげにする桜。その視線をそらし、明らかにばつの悪い朝風。


「じゃあ、決まりだな。彼女の紹介もしてもらったし、パーティー参加の約束も出来た。私たちは引き上げよう。二人で残りの料理は食べていってくれ」


「それでは桜さん、また後日」と母親も扇子を扇ぎながら嬉しそうにしていた。


『いつまでお芝居を続けられるのかしらね』と含み笑いで席を立つ。


 朝風の両親は壁際に控えていた支配人を呼んで、一緒に立ち上がり、オーダーの伝票を回してもらう。それを受け取ると、会計の方へと歩いて行ってしまった。




 店に残された二人は豪華なフランス料理と開けられた高級そうなロゼのワインを目の前にしている。だがぜんぜん食事に手を付けてなかった。


「どうすんのよ」と桜。明らかに睨んでいる。ダレたポーズで背もたれにもたれる。下目遣いに朝風を睨んでいる。


「何が?」


 朝風は知らんぷりでワインを一口含む。冷や汗がこめかみを伝う。誤魔化しは下手なようだ。


「うん。ブルゴーニュ産だな」と適当なことを言って誤魔化す。


「馬鹿、これはノルマンディー産よ」と返す桜。


「飲んでもいないのに、よく分かるな」という朝風に、


「ラベルに書いてあるでしょう!」と呆れる桜。瓶のラベルに綴られた『Normandie』の文字を指した。




「お前、フランス語読めんの?」


「地名くらいはわかるわよ」と気にもしていない風だ。そして「それより何? このややこしい状況。恋人のフリを演じながら、その前提の上で妻の役目も演じるのよ」


「想定外だ」


「それで済んだら一一〇番は要らないわよ」と憤慨する桜。そして「これならこんな高級食材より、ハンバーガーとポテトフライ食べていた方が気楽で良かったわよ!」と当てつけた。


 目が泳いでいる朝風としかめっ面の桜。


「こうなったら、成り行きに任せるしかないわね」と腕組みでローストビーフを睨み付ける桜。徐に五枚いっぺんにフォークに刺すと大口を開けて口の中に押し込んだ。味わうもなにもあったもんでは無い。だが意外にもやる気はあるようで、肝が据わっている彼女だった。






-第二幕 「劇中劇中劇」は嘘から出たまこと?


 横浜の元町通りは多くの代表的なブランド品のお店が建ち並ぶファッションストリートだ。春には恒例の「チャーミングセール」が行われる集客力の多い横浜屈指の商店街である。高級ブランドから地元に愛されるブランドまで、数多くの服飾雑貨の店が軒を連ねていた。そのメインの通りの先、マリンタワーの横にあるパーティー会場の高級ホテル。今日はそこに地元や取引先を集めた関門家のお祝いパーティーが開かれることになった。


 会場の入り口のクローク横には、出席名簿記帳テーブルが置かれ、颯爽たる財界著名人、面々の名前が連なっている。


 一足早く会場入りした桜と朝風は、朝風の両親に付き添われて、各テーブルを回ることになった。


 エンジ色のパーティードレスに身を包み、パールのイヤリングを借りた桜、品の良い上流階級のマダムを演じている。


 問題が起きたのは『山下町貴賓クラブ』と書かれた席である。


「まあまあ、貴賓クラブの皆さん。本日は拙宅の主人のためにありがとうございます」


 和服の気合いが一段と入った朝風の母は、一人一人に挨拶をし桜を紹介始めた。


「朝風の妻、桜でございます」と何人かに挨拶したところで、次の挨拶の準備に顔を上げると、


「さくら……ちゃん?」と聞き覚えのある声が彼女の耳に入る。


 そこには桜を指さし、ぽかんと口を開けている桜の叔母、佐世保水穂させぼみずほが鶴亀柄の留め袖で固まっている。


「おばさん!」


「あなた、広尾の女子大は? いつ結婚したの? お父さんから聞いていないわよ」


 桜からすれば、さらにややこしい事態がまた重なった。緊急のサイレン音が脳裏でけたたましく鳴っている。言い逃れの出来ない状況だ。


 横の朝風は「広尾女子大って、本当だったのか。ってことは先日のあれって、作ったプロフィールでなく本当のプロフィールなのか? 山手に住んでるってのも、偶然当たっていたのかよ。じゃあ、とんでもないお嬢様なの? 桜って」と少々こちらはこちらで思考回路が混線している模様だ。


 そしてバッタもののお嬢さんだと思っていた朝風の母親も、その横で少々怯み始めた。


 横で朝風は、「おい、桜。一体お前何者だ!」と肘で彼女を突く。


「あはは。あはは。おほほ……」


 桜はパーティードレス姿で、会場を離れ、困った顔のまま外の廊下に出て行った。コリドー風の廊下に出ると階段とは逆の方向に歩き始める。




 水穂の連絡を受けた桜の父親、佐世保暁させぼあかつきは十分もせずに飛んでくる。のっしのっしと螺旋階段を登ってくる紋付き袴。この短時間でここに来たのは元町と自宅の山手は目と鼻の先だからだ。しかし父親が会場の部屋に着いたときには、桜の姿はなく、佐世保の家の内輪の者、お付きの者が探し回る中、それ以後桜の姿は皆の前に現れることはなかった。






-第三幕  オウィディウスとメタモルフォーゼ


「あぶなかったね、もう少しで実家に首根っこ捕まれて戻されるところだった」と月桂冠を被った男がベンチにもたれながら笑っている。ローマ人特有の白いトゥニカというシンプルなチュニック風の服にトガという一枚布を体に巻きつけ紐ベルトを結んだ格好だ。


「ん?」


 現状が把握できていない桜は不思議な顔。会場の外の廊下に出たはずなのに、彼のテレポーテーションによって、廊下から亜空間にひとっ飛び。


「君は恋人になったり、妻のフリをしたりと随分と変身願望の強い女だね。そんな君の態度が僕を呼んだのさ」


 亜空間の紫色の背景が桜を包む。


「誰あんた?」


「ローマの詩人、オウィディウスさ。以後よろしく」


 彼はさも古い友人であるかのように、握手の手を差し出した。


「あんたなんか知らないわよ。しかも詩人なんて呼び出した覚えもないし。今の私に何の役にもたたないわ」


 そう言いながらも仕方なく、納得のいかない顔で桜は軽い握手を交わす。少々馴れ馴れしいと感じて目を細めてうさんくさそうにしている桜。


「そんな事言わないで、僕は意外とパクス・ロマーナ時代の叙事詩の作者としては有名人なんだぜ。僕の編纂作中詩を使って、変身譚を歌えば、その人はたちまち魔法のように姿を変えることが出来る。ナルキソスも、ゼフィロスも、イカロスも、みんな僕が物語の主人公にしてあげたのさ。勿論君だって主人公になれる」


 延々と話す彼の横で、再びジト目の桜。うさんくさいモノを見るような目でオウィディウスを見ている。


「新手の詐欺師か? 丁重にお断りだわ」と桜。


「何と心外な……。じゃあ、僕の実力を君に見せてやる!」


 小生意気な小娘を前に、ムキになって意気込むオウィディウス。




 彼は傍らに抱える竪琴をボロンと人差し指と親指でつまむと優しい調べを奏でた。彼の横にはいくつかの弦楽器が並んでいる。この時代の詩人は楽器の名手でもある。




 一瞬にして桜は念動の力、サイコキネシスによって横浜の会場に再び戻ることになる。だがひとつ違っているのはテレパシーを使ってオウィディウスと桜、二人が会話することが出来るようになっていた。


「いいかい。僕はEPS、即ち超感覚的知覚や精神感応を使って君と話をすることが出来る。君がピンチになったら、心の中で僕を呼ぶが良い。そうすれば僕は詩と音を操って、君を変身させることや魔法を使って助けることが出来る。こんな劇中劇を重ねた異常設定での演技、僕の力でも無ければ、君は全ての職責を全うすることは出来ないよ」


「なにこの脳内無線機は?」


「テレパシーさ」


「ほう、一応神威力はお持ちのようね」


「僕を侮るなよ」


「本当に助けられるの?」と桜。


「勿論僕の奏でる竪琴やキタラに合わせて、僕が詩を奏すると君に魔法がかかるのさ。幼少期に君がローマとギリシアで会ったアポロに君を守るように頼まれている」


 またも訳の分からない架空設定? と考えたが、スルーすることにした。好きに言わせておけば良いというのが彼女流なのだ。


 そしてややこしい事が苦手な彼女は、「はいはい、お好きにどうぞ」と面倒そうな顔でテレパシーを使って言葉を返すと頷いた。


『あら本当に思念会話できてるわ』


 すると懐かしいような、初めてのような不思議な音楽を、手に持った楽器キタラを使って、彼は歌い始めた。『アポロ賛歌』と呼ばれる儀式曲だった。ちなみにキタラはギターの語源になった竪琴のような楽器である。




「誰と話しているの?」


 横にいる朝風が不思議そうに、桜を見る。フラッシュバック場面から戻った彼女と違って、彼は時系列のままで、ずっとそこにいたのでオウィディウスのことなど知るはずも無い。


「なんでもないわ」


 桜はそう言って知らんぷりした。


 彼女は目線を変えると、入口、受付で記帳している自分の父親を見つけた。


『まずい』と顔を背けて俯いた。


『オウィディウス! パパをこの会場に入れないで!』とテレパシーを送る桜。


 すると天から声がして、『OK。追い払うよ』と言いながら、あの『アポロン賛歌』が再び聞こえてきた。


 受付を終えた老紳士、佐世保暁は、不出来な末娘の乱痴気騒ぎを収束させるために、パーティー会場に入ろうとして、桜のおば、水穂の出迎えを受ける。歳いってからの末娘、孫のような存在だ。父親も困り果てているのが分かる。


「お義兄さま」


 水穂が暁の姿を確認して、二人が目線を合わせたその時だった。


「会長!」


 大声で細身の男性が血相を変えて老紳士のもとに走ってきた。


「なんだ、大声など上げて」


 怪訝な顔つきで、秘書のようなその男性に話す老紳士。


「取り乱して済みません。実は急激な円安で、輸出入管理に支障が来し始めており、弊社商品が相場以下の安値で叩かれています。取引先のドル決済で大赤字が見込まれまして、仲介の第三国の別通貨を使って間接取引で差額を埋めようと皆がシクハクしております。会長の人脈でないと決済が大赤字になります。戻っていただけますか?」と息も荒く話す。


「なに?」


 袴の老紳士は腕時計を確認してから、


「済まない、水穂。会社の一大事だ。戻らねばならない。あの馬鹿娘には、今度よく言い聞かせるので、今日は一旦戻らせてくれ」と帽子を取って秘書の男性に渡すと、杖を上手に使いながら、質の良い絨毯の上を早足で来た道を戻るように秘書の後について行った。




 その一部始終を柱の陰から見ていた桜は、胸をなで下ろし、安堵した。


 すると再びオウィディウスの声が天から囁く。


「どう? 僕の実力、分かってくれた?」


 自信ありげに、しかも満足そうな声。その顔に「ええ」とだけ渋々頷く桜。不本意ではあるが、信じざるを得ない。


『あんた、いくら御伽話の中でも為替相場をいじるって、良くないわよ』と桜はさも常識人のように呟いた。為替のかの字すら知らない分際の桜である。






-第四幕 「ジューンブライド」はユノの花嫁


「朝風君」と右手を挙げて声をかけてきたのは、身だしなみの整った男性。


「ああ北斗おじさん」


 桜の横で星夜は、


「朝風の叔父の北斗星夜ほくとせいやです。結婚式場の経営をしています。以後よろしく」と笑う。


 品良く笑みを浮かべながら、「まあ、妻になる予定の桜です」と笑みを返す桜。




 さて『一難去ってまた一難』である。


 その北斗星夜、なにか企てがあるような顔だ。


「こんどさあ、ブライダルフェアの催しで、パンフレットを作るんだけど、君たちを体験モデルで使ってもいい?」と訊いてきたからまた大変。


『聞いてないし! この上契約上の結婚を広く一般に告知されたんじゃ、たまったもんじゃない』


 あんぐりと口を開けて、お手上げ状態の桜。軽く朝風の太ももをズボンの上から抓った。


「いて!」と顔をしかめる朝風。


 小声で桜は「まただよ。あんた、ちゃんと計画立ててから依頼しなよ。台本なしの、台詞無しとはよくぞ言ったもんだわ。アドリブありとは聞いていないよ。しかも超過料金モノよ」とご立腹だ。


『これだから二代目のボンボンは困るんだ』と独り言を漏らす桜。ちなみに彼女自身、自分だってバカ娘、一歩間違えばボンボンの仲間入りできるポジションにいることを自覚していない。その証拠に彼女は親の金で海外旅行をして二十カ国は渡り歩いている。




 さてここで彼女の海外でのフラッシュバック場面。すなわち彼女の幼少期の回想シーンである。


「ほら見てごらん、桜。この切り立った山の中腹にある神殿跡の遺跡だよ。立派なものだろう。ローマからこっちも回って正解だったね」


 ギリシアの中部、コリント湾の北側の山麓に残されたデルフォイ宮殿跡を眺める桜。少女時代の父との思い出が突然脳裏に蘇る。


「うん」


 興味津々の十三歳の桜は、あちこちを走り回って、白色のエンタシス技法で作られている柱を見上げては驚いていた。


 その神殿の遺跡の中、彼女は円形劇場に興味を持った。美しく並べられた白色石が円形のステージに沿って客席となっている。舞台は高舞台になっておらず、一番低い位置に設けられ、客席に囲まれた丸い平坦なステージがある。


「お父様、ここは何をするところなの?」


 桜の問いに父親は、


「ここは演劇を興じて、観客はこちらの客席に座るんだな。他にも詩の朗読会やキタラとフルートによる音楽の演奏会などもあって、神に芸術を捧げたそうだよ」と腕組みをして答える。


「まあ、素敵! 巫女舞みたいね」


 両手を握って首元に添える桜。おきまりの乙女のポーズだ。少女マンガの様なお目々キラキラの彼女。


「おお神よ、汝、私の願いを訊きたまえ


 おお神よ、汝、私の夢と恋を守り祝福し給え」


 彼女がその祈りとも取れるポーズで、真似事で知っている台詞を唱える。それは劇場の舞台に差し掛かった時だった。


 周囲の山々にある緑の木々がざわざわとさんざめく。その音に連動するかのように、彼女以外の時間が止まる。通常のファンタジーのヒロインなら、『余計なモノを呼んでしまった』と気付くはずだが、この頃の桜は頭一つひとつ良い具合にズレていた。いわゆる『お花畑さん』なのだ。


 止まっているはずの空気の中で、白色のトゥニカというチュニックに、トガという上衣を纏い、ソレアというサンダルを履いた、「いかにも」というローマ神の姿をした者が彼女に微笑んだ。ギリシアなのにローマ神を呼んでしまうあたりも頭一つ良い具合にズレた桜のおもしろさだ。


「汝、お前はどこから来た?」


「日本」


 その男は霧の中で首を傾げた。


「東の隅っこ」と付け加える桜。


「方角としてはオリエントのほうだな」と彼女の瞳と髪の色を見て合点がいったその男。そして「汝、願いを聞き入れよう。詩にのせて唱えたさっきの願いだ。」と続ける。


 桜は人差し指を加えながら、


「あ、うーん。あれは、大人になったら劇場で演じる仕事をして、お金じゃ買えない、奇想天外な夢見る結婚がしたわ、という私の願望」と言う。


 男は優しく微笑むと、


「その結婚の願いは、私の守備では無い故に、それを可能に出来る女神ユノ、英名ではジュノーと呼ばれている女神に伝えておく。ここは私の神託の場、私が汝にしてやれることは、芸術への探求、即ち演劇の仕事を授けることである」と言って再び霧に包まれて消えた。


 ご丁寧に「バイバイ、おじちゃん」と手を振るお気楽な桜。祭りの余興でも見たかのように、手を振って見送った。




 それから十年たった現在。桜は当時のデルフォイの出来事など、疾うの昔に忘れてしまっていた。




 北斗による結婚式場のモデルの話。それはとても用意周到に準備されていて、紳士録のパーティーが終盤になると、オープンカーを横付けした会場の車止めからそれに乗り、あっという間に連れ去られた。会場からほど近い山手地区にあるフランス山の山裾、星夜の経営する結婚式場に移動させられた。ついた先は横浜の元町、山手の丘に行く坂道の途中、『フランツ・リスト』というクラシック専門の音楽喫茶のすぐ隣にあった。この店はあの神々たちが日本での滞在場所に使っている根城だ。


 オープンカーを降りた桜と朝風は、階段を上りながら式場の玄関を潜る。すると正面には噴水のある中庭、その両側、庭を挟むように二つの建物が左右に建っている。


 左側は紋切り型のチャペル形式の建物。結婚式場でよく見かける造りだ。右側には珍しい建物があった。それは彼女にとって懐かしいギリシア・ロ-マ風の円形劇場。そんなオリンポス神殿を模した式場の建物も設置されたていた。


「すごい。ギリシアやローマの劇場みたい」と桜。


 声を発した桜の横で頷くはずの朝風の返事がない。


「ちょっと……」と言いかけた桜は、朝風が石像のように動かない事に気付く。そして叔父の姿も、係のスタッフも皆止まったままである。


 その光景を見て桜は、ようやくあのギリシアの円形劇場での出来事を思い出した。


『あの時と一緒!』


 すると「ようやく気付いてくれたねえ」と笑う白色のトゥニカとトガを身につけたあの時の男が現れた。


「あなたはあの時の……」


 十年ぶりに記憶が繋がる桜。


「そう、この日本という場所があまりに遠くて驚いたし、汝を見つけるのに苦労したよ」と男。「コホン」と一つ咳払いをしてから、「それでも願いを叶えられないと、神の名に傷がつく」と苦笑いした。


「あなた、神様なの?」


 優しく微笑むと、キタラを傍らに抱えながら、「私は、ローマ神、アポロ」と彼は名乗った。


「アポロって、あのジュピターとレートの息子? 太陽神にして、音楽や芸術、文芸の神様の?」


 彼は微笑んで「いかにも」と頷く。


 それから数秒間ふたりの間にはそよ風のようなゆるい時間が流れる。


「あははは……」


 堰を切ったように笑い始めたのは桜。腹に手をやり抱腹絶倒。目に涙まで滲ませている。


「おじさんさあ、コスプレで私を騙そうったってそうはいかないわよ。インチキ、オウィディウスの話もあんたが仕込んだんでしょう。イリュージョンか何かで、私を騙そうとしているの? インチキ宗教?」


 不敵な笑みで得意げに言う桜。


「おじ……」


 目を見開いて、ドングリ眼で立ち尽くすアポロ。




「どうせ朝風の叔父さんの仕込みでしょう」と仁王立ちで腕組みをしている。


 お嬢様のなれの果てである彼女は、きな臭い話には敏感に拒否センサーが反応する。言い方を変えれば、穿った見方の持ち主、いやひん曲がった性格の彼女には、うさんくさい猿芝居に見えているようだ。


「うぬぬ」


 不快な顔をしているアポロは、すぐに怒りを露わにする。


「馬鹿な。私を愚弄するなよ」とアポロは中指と親指を頭上で『パチン』と鳴らした。


 すると霧がかった演出に見える視界の中に、やはり月桂冠を被った女性が現れた。ドレス状のトガをストラノの上に重ね着た格好で。


「ユノ、助けてくれ。このお転婆娘、昔の純粋さを忘れている」


 霧のような白いもやが掃けると、美しい女神が不敵な笑顔でそこに立っていた。


 長い杓を桜の方に向けると、


「汝、幼き日のデルフィの祭壇での誓いを思い出すが良い!」と言って、杓からひとすじの光を発する。


 そのレーザー光線の様な光の帯は、白い大理石の壁に映画スクリーンを映し出した。




「おお神よ、汝、私の願いを訊きたまえ


 おお神よ、汝、私の夢と恋を守り祝福し給え」


 緑に包まれた遺跡の丘で、一人の少女が映し出される。彼女は人差し指を加えながら、


「あ、うーん。あれは、大人になったら劇場で演じる仕事をして、お金じゃ買えない、奇想天外な夢見る結婚がしたわ、という私の願望を言った思い出」と言う。


 そしてアポロがその向かいに立ち、優しく微笑むと、


「その結婚の願いについては、私の守備では無い故に、婚姻の女神ユノに伝えておく。ここは私の神託の場、私が汝にしてやれることは、芸術への探求、即ち劇場の仕事を授けることである」と言って再び霧に包まれた当時のやり取りが再現された。




 その場面、勿論桜は身に覚えがある。


「動かぬ証拠じゃ。ファーイーストのこの国を見つけ出すのに手間取ったのだ。ここに辿り着いて、根城となる喫茶店のピアノを依り代にして、汝との約束を果たしに来たのだ」


 もっともらしいアポロの説明に、


「はあ」と桜。


 ため息のような気の抜けた返事のあとで、往生際の悪さだけは抜きん出る桜。まだ信じていないのだ。


「でもなんでその恋の相手が劇団の同輩、朝風なのよ」と噛みつく。蜘蛛の糸一本でも逃げ道があれば逆転論破をねらう気満々の桜だ。




 ところがその問いに怯むことも無く、むしろ自信を持って応答するユノ。


「まだわからないのね」と呟く。


 そして「汝だけ、特別じゃぞ」と言って、再び杓からスクリーンに光を当てた。




-第五幕 『ル・シッドのように美しい』


「ウチの娘を何処に隠した!」


 記念パーティーの会場で怒鳴り声を上げているのが、桜の父、佐世保暁だった。会社での一難を乗り切って戻って来たようだ。義妹である水穂の話を聴きながらカンカンに怒っている。持っているステッキで床を勇ましく叩いている。その姿をまるで映画館のように銀幕越しに見る桜たち。


「やっぱ、お父さん、怒りまくっているわ」


 ため息交じりの桜は、いつも頭ごなしに行動を抑制する父親が健在であることを確認した。


「親父さん、結構な石頭だね」と朝風。


「うん」


「そりゃ、家に帰りたくもなくなるね」


 朝風は少しだけやさぐれた桜の気持ちを理解した。


「じゃあ、勇者よ。そこであのモンスターと話し合い、一戦を交えるが良い」


 ユノとオウィディウスも加わりアポロたちは魔法をかけたようだ。






 皆が見ていたその画面の中に、念動によってヒョイと移動させられた朝風が姿を現す。そうテレポーテーションによって、朝風は暁の元に送られた。


 魔法をかけた本人であるユノは、依然としてスクリーンの前の結婚式場の破風屋根に座って見ている。オウィディウスも朝風の瞬間移動に荷担したのは明らかで、ユノの横でやはり高みの見物と洒落込んでいる。


「ユノさん、あの若い男、どうかな? 桜さんをうっとりさせるような活躍するかな?」


 オウィディウスは頬杖ついて、演劇鑑賞気分で感想を訊ねる。


「期待に添った行動をしてくれないと見ているこっちは面白くない」と髪をかき上げてユノは答える。


「なるほど」


 両手でキタラを抱えて、スクリーンを凝視する彼。




 一方の会場の舞台へと瞬時に空間移動させられた朝風は、自分の身に何が起こったのかさっぱり分かっていない。いきなり変わった目の前の景色に右往左往している。


 朝風を見つけた暁は、水穂の説明もあり、彼に近づいてきた。


「お前か? ウチの娘をかっさらって、騙して、勝手に嫁にしたのは!」


 朝風からすれば、言いがかりも甚だしい。もちろん契約で恋人のフリをさせていたのは事実だが、それは合意の上だ。しかも結婚のフリをさせたのは自分ではなく母親の美枝子である。


「何を根拠に」と言いがかりを撥ね除ける朝風。


 するとどうだろう。決めつけの権化のような老いた顔が偉そうに講釈をたれる。


「あの子は馬鹿なのだ。馬鹿はおとなしく日陰で暮らさせるのが一番だ。旧帝大をオチ、早慶をオチ、仕方なくなんとか引っかかって合格した女子大に入れてやったのに、金にもならん演劇なんぞにうつつをぬかして大学を留年して、とうとう休学願いなんぞ学生課に出しおった。慌てて大学の関係者がウチに電話してきおったわ。そんな付ける薬もないほどの馬鹿娘なのだ」




 大学を休学したことを父は知っていた。スクリーンを見ながら桜はホロリと涙を流した。自分に演劇への喚起を促したのは、ローマやギリシアに一緒に行った父本人なのである。そのことを無視するかのごとく、父は綺麗さっぱり忘れている。コロセウムの劇場の美しさや遺跡としての燻された建物の価値などを教えてくれた若き日の父がそれを自ら否定していることが、桜には耐えられなかった。父が喜ぶから演劇の道を踏み出したのに、なんでこうなるのか? と彼女の胸中では無念さと虚無感が交互に押し寄せていた。






 会場屋内の梁の部分に腰掛けて、足をぶらっぶらっと動かしている神さまが独り言をいう。


「つける薬もないな、あのオヤジ」


「あの父親にも結構問題あるね。娘がこうなるのも頷ける。あの時の自分の娘に言ったこともすっかり忘れているわ。私は現場に立ち会っているからね。もっともあの男は私の存在に気付いていないけど。日本には『頑固じじい』って悪口があるそうだが、あの男はそれに成り下がったねえ。仕事の成功と自信が彼の脳みその情操部分を蝕んだのかねえ」と隣に座るユノもあんぐりと見物したスクリーンの流れに感想を加える。


「あの男、自分がデ=グリューそのものとなって、マノン・レスコーを追いかけるように一大決心で人生を走った、妻となるあの女への情熱を持っていたことを忘れたようだ。馬鹿なのはあいつの方だ」


 場所を変えて破風屋根に座って、キタラを抱きしめ、足をぶらぶらさせながらオウィディウスは言う。


「そんな過去があるのかい?」


 ユノの言葉に、オウィディウスは、


「ああ、すっかり若き日の自分を忘れて、ふんぞり返った今があると勘違いしているウツケだ」と顔をしかめる。




 怒鳴られた方の朝風は無言のまま、桜の父暁を睨んでいる。


「小僧、私を誰だと思っている。名高き佐世保家の人間だぞ」


「そんなの知らない。こっちにとっては、ただの『頑固なじいさん』」と言い放つ朝風。


 その会話を聞いたオウィディウス、


「だいたいこの手のじいさんはブレーキが効かない独裁経営者が多い。『いつまでもお若いですね』とか周りに言われて、その気になって、年甲斐もなくハッスルして、やらなくて良いことをやって職場をかき回す、周囲に嫌がられるタイプの経営者だ。おまけに周りはイエスマンだけなので、自分が暴走していることにも気付かず英雄気取り」と的確に状況分析である。


 そんな経営者に、はむかった朝風。度胸だけは認めてもらえそうだ。


「ぐぬぬ」


 朝風を睨む暁の尋常ではない目つきに、暁のお伴の者たちは怯えきっている。この後に、会社に帰ってから一波乱があるというのだけは、お伴である彼らの立場では勘弁して欲しいというのが本音だ。会社員というのはそう言うモノだ。懇願の目が一斉に朝風に集中する。


 ところが朝風は若者。そんな大人の事情などお構いなしに二発目投入。ブレも迷いも躊躇もなく、


「あんたがそんなだから桜は、演劇の道に入ったじゃないかな? 昔のあんたを思い出して欲しかったんだよ」と言い切る。


「ああ」と顔を手で隠し覆うお伴たち。万事休す。


 ゆでだこのように真っ赤になった顔の暁。暁の顔が暁色だ。




 この台詞に反応したのは意外にもジュノーだ。


「言ったよ! この男。やるじゃないか。ちょっと荷担してやろう」と大絶賛である。


「なんで?」とオウィディウス。惚けてはいるが彼のメタモルフォルゼの本性、血が騒ぐのを知っているユノ。


「朝風を勇者モードに変身させたのはお前だろう、この男を『ル・シッド』に出てくる英雄ロドリーグに仕立てたかったんじゃないのかい?」と惚けるオウィディウスを問いただすユノ。


「バレてた?」


 テヘペロ顔で普段を装うオウィディウス。


「当たり前だ。しかも『ル・シッドのように美しい』結末を仕掛けたんだろう。粋だねえ、役者は揃ったよ」と笑うユノ。


「首尾は上々だよねえ」


「芝居見物してる身としては、出来たシナリオだ。褒めてやるよ、片棒を担いでやるから、わたしにもシナリオを書かせな」


「ユノ、あんた江戸っ子か?」


「いや、昨日浅草観光してきたら、つい言ってみたくなってねえ。日本文化も西洋と違ってオツな部分があしからずだ。数日後にはローマに帰らなくてはいけないのが残念だ」


 ユノとオウィディウスの美学問答が止まらない。


 すなわち『ル・シッド』のシナリオ通り、朝風は恋人になりかけの桜との恋愛を成就させるべく、その父親との確執と葛藤しているのだ。まさに『ル・シッド』のシナリオ構図、プロットを疑似踏襲しているのである。


「ま、でも復讐までは見たくないので、この辺で事を納めさせないとね」とオウィディウス。


 そう言ってキタラを鳴らし始めた。




 すると桜の身体が光に包まれた。それが帯のように巻き付くと桜を元町のパーティ会場に瞬間移動させた。そして暁の前に現れる桜。


「パパ」と桜。


「桜」


 意外にも強気に出ていた初老の頑固者は、彼女の顔を見るなり柔らかい顔になる。久々に顔を見た愛娘に顔がほころぶ暁。『頑固じじい』とはいえ、所詮は甘々の親ばかだ。自分が勘当を言い渡したしたことすらすっかり忘れている。そう、いわば馬鹿はこっちもなのである。


 その様子にユノは「そういうことだねえ」と笑う。


 オウィディウスは「どういうことさ?」と訊ね直す。


「娘に甘い親ばかを悟られないように、周りのモノには威厳を出して威張っていたに過ぎない。そしてそれをおくびにも出さなかったんだけど、本人を前にすると隠せない。そう言うことさ」とユノ。


「つまりあの頑固じじいっぷりは演技だと?」とオウィディウス。


「ああ、あのおじさんは娘以上の大俳優ってことだね」と笑うユノ。そこまでは知らなかったオウィディウスは爪をかんで小首を傾げている。




「パパは私の演劇に反対なの?」と桜が言うと、


「いや、そう言うことではない。家を飛び出してまで、やることはないということが言いたかったんだ」と苦虫をかみつぶしたような顔で答える暁。言い訳にも見える。しどろもどろさに、狼狽えて目が泳いでいるのが、その場の全員にも分かる程だった。


「そうよね。だって舞台女優だったママが大好きって言っていたんだもん」と幼い日の家族の会話を覚えている桜。


 そして涙ながらに、「私もね、ママと会った頃のパパみたいな人にようやく出会えたの」と迫真の演技。悲劇場面の見せ場のような桜の感傷シーンだ。


 そう言って、彼女は朝風の方を指さす。


「私、この人と結婚するわ。でも舞台女優も諦めない。結婚しても、やり続けるから」


 朝風はぎくっとして、『えっ、結婚すんの?』と驚いて固まった。そして『何か、いろいろすっ飛ばしてないか? いいのか、それで』と混乱の種を枚挙するといとまもない。これが演技なのか、真実なのか、いまいち判断に迷う不思議な場面だ。


 するとその場にいた朝風の父親は朝風に、


「おい、良いのか朝風。いつも自分の奥さんは家にいて欲しい、って言っていたよな。自分の奥さんが家にいなくて……」と心配そうな顔をする。


 すると厳つい顔を絶えず見せていたはずの朝風の母親の美枝子が、そっと夫の口を塞ぎ、


「いいんですよ。あの子は、交際相手の桜さんが文学と演劇を愛していることは痛いほど知っています。ランチを一緒にとったときの知識から既に分かっていました」と優しく微笑む。見かけと異なり美枝子は、桜の夢に前向きに応援をしているようだ。彼女は桜の素性がはっきりすれば良き理解者になるということだった。


「母さん」


 朝風と彼の父親の声が揃った。


「良いお話ではありますが、あんな素敵な彼女がいるのなら、あの芦屋の貿易商のお家のご令嬢と朝風のお見合いはお断りしましょう。そしてここにいる桜さんを幸せになさい。あの子の夢を一緒に追いかけなさい。それが成就したら、私たちに可愛い孫の顔を見せて欲しいわ。それまでは全力で二人の夢として演劇で頑張りなさい」と頷いて点頭する母親。朝風の肩を軽く叩く。ある意味で朝風の企ては成功した。桜は三十万円ゲットというシナリオは成立だ。


 一つ計算外だったのは、敵だと思っていた美枝子、彼女のその言葉は朝風と桜の良き理解者として、彼らの琴線に触れるモノだった。






-第六幕 お披露目

 


六月の結婚式はヨーロッパの結婚式に由来する。一説には、梅雨時の日本の業界が閑散期の式場に活気を与える目的で、『六月の花嫁』という言い伝えを日本に持ち込んだところ大当たりしたというのだ。ローマ神ユノ、すなわちジュノーの祝福を得られる季節の結婚式、それを英語読みでジューン・ブライドである。験担ぎや、めでたいモノにあやかりたいのは皆同じだ。


 北斗星夜の経営する結婚式場の中央にある円形劇場を模した披露宴会場では客席に多くの人たちが押し寄せる。全て劇団の演劇仲間だ。


「あの二人、絶対こうなると思っていたよ」と口々に皆が笑う。


「仲良かったもんな」


「うん、口ケンカしている時なんて夫婦そのもの」


「家庭生活が垣間見えたわ」と輪になって二人を肴に盛り上がる立食パーティーだ。




 エンタシスの柱の隙間から純白のウエディング・ドレスに身を包んだ桜の登場である。壇上の彼女を見上げるように朝風がそれを待つ。


「このシーンなら、あれをやらないと」と冷やかす友人たち。


 朝風に「おお、ロミオ! ああ、ジュリエット! ってやってよ」と女性陣のリクエストが届く。


「馬鹿言うな!」と小声でしっしっ、と友人を払う仕草の朝風。


「流石にお偉いさんがいっぱい来ている中でのおちゃらけは厳しいな」と男性陣は理解を示す。


 見つめ合う二人は柔らかな笑顔を互いに向けている。どんな絵画よりも美しい場面だ。


 その柔らかな笑顔のまま、マイクを渡されると、


「本日はご多忙の中、ご参列いただき誠にありがとうございます」というおきまりの挨拶を始める桜。幼少期から上流階級との付き合いも多い彼女は、この辺の機転の利かせ方は朝風よりも一枚も二枚も上なのだ。なんなら今の朝風の方がお坊ちゃまのなれの果てである。




 あれからの桜は、既にやさくれたお嬢様の仮面を脱ぎ捨て、もとの気品ある素直で軽快な性格に戻っていた。それで暁は毎日上機嫌である。彼の会社の従業員一同、桜に感謝しまくりだった。


 室内とは言え、大きなローマ風の円形劇場の中央で皆に挨拶をし終えた桜。なかなかの弁士ッぷりだ。そしてマイクを離すと小声で横の朝風に問う。


「ねえ、私の桜って名前。どういう意味を持っているか知っている?」と朝風に問う。


「いや、聞いたことないね」と朝風。カット襟に蝶ネクタイのギンの燕尾服で笑う。


「銭ゲバを嫌った曾おばあちゃんが、そうならないようにってシェークスピアの『ベニスの商人』からとってつけたそうよ」


 眉間にしわを入れる朝風は「『ベニスの商人』に桜の花なんて出てきたっけ?」と不思議そうに返す。


「最初の翻案上演では『ベニスの商人』は、大阪朝日座で明治十八年五月三十一日から行われて、『何桜彼桜銭世中さくらどきぜにのよのなか』ってタイトルだったんですって」と笑う。


「ああ、大昔の日本でよくあった、登場人物と場面を日本に変えたヤツ。芝居小屋風にアレンジされた和風シェークスピアってわけね」


「そう」


「金で全てを操る願望を嫌った曾おばあちゃんの意志が隠されていたって事ね、私に名付けた意図の内側」


「うん」


「じゃあ、君のお父さんも良いところでそれに気付かされた。曾おばあさんが命名した名前を持つ君が覚醒させたって事だね。思惑通りだ」


「まあ、そんな立派なモノでもないけど」


 ブーケを待ちわびる友人は皆が桜に目配せをしている。可愛いおねだりと言ったところだ。


「そろそろブーケ投げてやったら? ライスシャワーも飽きたしね」とウインクの朝風。


「そうね」


 彼女は、一段高いステップにゆっくりと登ると仲間に背中を見せてブーケを後ろ向きで思い切り投げる。


 天井高く舞い上がったリボン付きのブーケは、皆が見守る中、ポンと宙に舞い上がった。




 ジュノーは、


「さてと結婚の方は片付いたよ」と竪琴を小脇に持ったアポロに伝える。


「ああ、こっちも既に手を打ってあるよ」と返すアポロ。




 ブーケを受け取ったのは南三浦紡績工房の女社長、山種夕鶴である。暁の取引先の敏腕女社長として名高い彼女。何か意味ありげに桜に向かって、ブーケを持ったその手を振った。






-第七幕 ハッピーエンド


 結婚式を終えた朝風と桜は無事に関門家の両親のところへと挨拶に戻った。


「お疲れ様」とねぎらいの声をかけたのは朝風の母、美枝子だった。あの初対面の会食時の嫌みさはもうそこにはなかった。


「うちの桜ちゃんになってしまったわね」と笑いながらも、心配そうな声色だ。


「はい」と桜。


 一息ついてから、


「でも本当に良かったの? きっとここにいるお馬鹿な息子の朝風が、彼女のフリを頼んであの会食に来たんでしょう?」と美枝子。


「ご存じだったんですか?」


 美枝子は含み笑いをすると、


「だってあなたで五人目だったのよ」と全てお見通しと言った表情で返す。


 そう言ってすぐに思い出したように、「あ、そうそう」と話を変える美枝子。


 テーブルにあった大きな角判サイズの封書から申込書らしきモノを取り出した。


「あなた南三浦紡績工房の社長さん、山種、ううん、今は富士夕鶴ふじゆうづるさんって人をご存じかしら?」


「お顔を昔拝見した程度ですが、存じています。ただあちらが私をどの程度ご存じなのかは知りません。父の会社の取引先の人なので」と言う桜。


「そうよね。実は彼女は私の大学の後輩なの」


「ええ?」


「彼女、大学まで演劇研究会に所属していて、いまでも社会文化活動で、英文学と演劇を広めるための社会活動をしているの」


「はあ」


「で、彼女がスポンサーとして出資している定期公演のシェークスピアの舞台にモブ役だけど、出てみないですか? って依頼が来てね。もしこのモブ役が上手くいったら、次回の『ハムレット』ではオフィーリア役のオーディションにあなたを推薦したいって言うのよ」


「ええ、オフィーリアにですか? ヒロインじゃないですか?」


「うん。悪い話じゃないと思うだけど」と美枝子。


「はい、とても嬉しいです」


「それと私からも二人にプレゼント。青山にある小劇場の経営権を長いことどうしようと考えていたんだけど、あなたたち夫婦に任せることにしたわ。喜劇やライブなんかもやっていたけど、正統派の演劇が一番あの小劇場には相応しいわね」と優しく微笑んだ。


「ん? 劇場をくれる?」


 桜は義母の言っていることを理解するのに少々時間がかかっているようだ。










-最終幕 カーテンコール-神々の旅立ち-


「さてと、あの時の少女は無事にいとしのハニーにお輿入れ」


「頑固じじいは怒りすぎて血圧上昇。少し静養が必要で箱根の別荘送り」


 二人の神は互いに微笑むとそのままスッと消え去った。




 さて朝風と桜。二人は朝風の母の好意で小劇場の経営を任されることになった。座付き作家の朝風とアクトレスの桜。勿論名作専門のシアターなので、客の入りは多くない。でも品のあるお金に余裕のある観客たちが名作を求めてやって来るので、そこそこ経営は安定していた。




 この月の催しは『ロミオとジュリエット』。それも千秋楽の日だった。ドレス姿に身を包んだ桜は、幕の下りた舞台でその前面に立ち、スポットライトを浴びている。そうカーテンコールのご挨拶だった。


「この度は私の演じたシェークスピア名作に足を運んで下さり誠にありがとうございました。千秋楽の本日なので発表します。この劇場で、この作品を翻訳して、描き上げた関門朝風と正式に入籍いたしまして夫婦の誓いをいたしました。式は以前に済ましておりましたが、名実ともに夫婦となりました。この場をお借りしてご報告いたします」


 その言葉を受けて、客席の前、スタッフ席にいた朝風は立ち上がるとお客のいる側、後ろを向いて一礼をする。ちょうど二人が壇上と壇下で同時にお辞儀をした格好になった。




 流行や威厳、思い込みがいかに意味のない物ということを、嫌と言うほど思い知った今回の一連の出来事だった。「ル・シッドのように美しい」、くは無くても、ローマの神々の神威を持って日常を送ると奇想天外なメタモルフォーゼとSFファンタージーに出くわして、ドキドキわくわくを体験できる。それを凝縮した彼女たちの劇中劇は今完全に幕を下ろした。




 すると桜の後ろをかすめるように声がする。


「アディオス、ミセス・チェリーブロッサム。あの円形劇場で待っているよ。ハネムーン旅行で来るが良い」


 そう、オウディウスとアポロの魂がこの場を去って行く気配を感じた。それは朝風にも分かったようで、二人は神々の気まぐれで舞い込んだ二人の幸福へのお礼をこめて、より一層深くお辞儀をするのだった。


                        了

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花嫁を選ぶ神話の神はいつも気まぐれ 南瀬匡躬 @MINAMISEMasami

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