肥後の雲間から

濡れ鼠

肥後の雲間から

重い身体を引きずってのそのそと進む機体が、やがてゆっくりと向きを変える。出力を上げていくエンジンの音、シートベルトサインが点滅し、機体は大地を蹴って走り出す。そのまま加速し、後足で滑走路を蹴り上げる。僕の身体を束の間の浮遊感が包み、続けて縦に斜めに揺さぶられる。窓ガラスの上を雨粒が飛び退っていく。

再び機体が大きく揺れる。窓の外は灰色の雲で溢れている。胸をつかまれて揺さぶられているような気がして、僕は慌てて舌の上で飴玉を転がした。目を強く閉じ、暗闇の中に身を投じる。


くたびれた顔の男に導かれ、僕は自分の心臓の音を聞きながら歩を進める。時折振り返る彼の真一文字に結ばれた唇が、僕を急かしてくる。制帽が、鈍い色の瞳に影を落としていた。ネクタイの斜めの模様に視線を落とすと、床が傾いでくる。

「来ると思ったよ」

アクリル板の向こうに現れた父は、唇を横に広げて笑った。こんな人が僕の父だったのか、と僕はその顔をまじまじと見てしまう。

「手紙は読んだよな?」

僕は黙って頷く。正確に言えば、2通あった手紙のうち、1通目の手紙は読んでいない。表に駐屯地の名前が大きく書かれた封筒を手にしたとき、僕は手脚が絡め取られていくのを感じた。封筒の裏には、父の氏名しか書いていなかった。僕は封筒を開けることなく、細断して捨てた。

2通目の封筒の裏には、父の居所も書かれていた。手渡してきた先輩の含み笑いが、父の策略が功を奏したことを示していた。携帯電話さえあれば、父が何故この場所にいるかは、簡単に調べられる。


「自衛官って公務員だろ。金はあんだろ」

父の背後の刑務官が、さっと顔を上げた。

「俺に、かかわらないでよ」

僕は全ての勇気を掻き集めて、言葉を押し出す。

「無理。お前の半分は俺なんだから」

胃袋がせり上がってくるような気がして、僕は目を瞑る。ここに来るまでの道のりを、僕の人生を、黒いスクリーンに投影する。僕は残りの人生を賭して、熊本まで来たのだ。

「血が繋がってるだけで、偉そうに」

刑務官が僕に重い視線を投げ掛けてきたが、口を開くことはない。

「二度と連絡するな」

「時間です」

刑務官が無機質な声で試合終了を告げる。父は椅子を蹴って立ち上がり、唇を震わせた。

「終わりだ」

氷点下まで下がった声が、僕と父を凍りつかせる。

「すみません」

僕は大きな声が出せなかった。刑務官は僕の目をじっと見た。

「何も悪いことはしてないでしょう」

彼の声に初めて、体温が混じる。父を促して去るその広い背中がドアの向こうに消えるまで、僕は目で追い続けた。


刑務所を出て、一歩踏み出そうとしたところで、水溜りが波打っていないことに気付く。顔を上げると、深いコバルトブルーの空が僕を吸い込もうとする。手を伸ばせば、雲をつかめそうだ。深く深く息を吸い込むと、僕の身体中の細胞が快哉を叫ぶ。雲間から射し込む光に手を引かれるように、僕は歩き出した。

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肥後の雲間から 濡れ鼠 @brownrat

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