最終話
科学館の人型ロボットの展示が終了すると聞いたのは、その当日のことだった。
いつものようにアイリスの元へ向かおうとすると、エレベーターを出てすぐに声を掛けられた。
「いつもアイリスに会いに来られている方ですよね?」
質素な顔をした女性は、胸の前で手を重ねながら続けた。
「今日で、アイリスの展示は終了するんです」
「……そうですか」
アイリスは、今日も天井から降り注ぐ光を浴びていた。展示最終日ともなれば人の訪れはまばらで、閉館時間間近になると辺りには静けさが広がっていた。
『もうすぐ閉館時間です。会いに来てくれてありがとうございました。また明日も会いましょうね』
いつも聞いた言葉が、今日はいつもよりずしりと圧し掛かる。亮平がアイリスと会える明日は来ない。アイリスはそれを理解していないのだろうか。
「もう、会うことはできないんですよ」
『どうしてですか? きっと明日は来ます』
「アイリスの展示が今日で終わるから。ここに会いに来てももう誰もいないんだ」
『そうなんですね。では、さようならをしなければなりません』
閉館の音楽が流れ始める。いつの間にか立っていた館の職員に声を掛けられ、亮平はもう一度アイリスを見つめた。
もう二度と会うことのできないその姿を、目に焼き付けるように。
「僕はやっぱり、あなたは綺麗だと思います」
ロボットだからと心無い言葉を掛けられることもあった。ガラスの中からはどんな景色が見えているのだろうか。それはもしかしたら、亮平も見たことがあるかもしれない。
「あなたは、辛くないですか?」
『辛くなった時は、魔法の言葉があります』
その瞬間、亮平の意識は過去へ飛ばされたようだった。この数カ月の間に起きたことが一気に蘇り、高速で時間が進んで行く。
大人になってから知った魔法の言葉を、亮平も知っている。
それは。
「あや──」
『亮平さん、ありがとうございました』アイリスの言葉が重なる。『あなただけが、私に綺麗だと言い続けてくれました。それはもう、魔法の言葉が必要なくなるほどに』
深々と頭を下げるとアイリスの体が、小さく丸くなる。そのまま上半身が上がることはなく、ごめんなさいね、と割り込んできた職員がガラスにカーテンを伸ばした。黒いカーテンは、アイリスのシルエットすら見せてはくれなかった。
科学館から出る時、変わった人ね、そんな言葉だけが聞こえた。
* * *
身の堪える寒さが過ぎ去った頃、食堂の解体が終わった。更地となった場所には駐車場が作られるため、業者が頻繁に立ち入っている。食堂の代わりに使い始めた休憩室の窓からはその様子がよく見え、日に日に駐車場の姿をしていく様子を観察していた。
「完成したらあそこに車停めようかな」
コーヒーを啜る奏多は、窓の外を見つめる亮平に声をかける。
「今のところちょっと遠いんだよな。歩くのが面倒でさ」
「運動になっていいじゃん。腹引っ込めないと」
「気にしてること言うなよ」
相変わらずベルトに乗っている腹を擦りながら、奏多は恨めしそうに亮平の腹を見つめていた。同じ仲間だと思っていたのに、と素直な言葉を向けられ、同じにするなと返す。
「詰まってたもんが違うだろ」
「一緒だろ。ただの脂肪だよ、こんなもん」
食べ終わった昼食のごみをビニール袋に纏めて口を結ぶ。奏多に体を向けると、顔を歪ませていた。
「子供も生まれるんだったら、運動したら? だらしない腹を見て育つよ」
「反面教師になる」
どうやら運動する気はないらしい。子供が生まれれば肉体的にも精神的にも鍛えられるかもしれないのであれば、今からわざわざ運動をする必要はないのかもしれない。喜々として安定期に入ったことを伝えてくれた時、亮平からするりと祝いの言葉が出た。その時に焦りは一切感じなかったのだ。
「子供生まれたらお前にも抱かせてやるよ。そうしたら彼女欲しいってなるかも」
「……そうかもな」
両腕に収まる小さな赤子の重さは、想像しても分からない。
その重さを始めて知った時、体中に染みるほどの命の温もりを感じた。
アイリスに触れたことは一度も無かったが、きっと彼女には人を安心させるような温もりは無かったのかもしれない。だからこそのガラスであり、亮平とアイリスはそれに気づかないためにガラスを隔てて再会したのではないだろうか。
アイリスはきっと〝牧絢美〟だ。亮平の心をほぐしてくれた魔法の言葉は、今も軟弱ではあるが、暗がりで見えなかった道の先を作ってくれているように思う。
熱を持ったスマホとは全く違っていて、今もピン止めされた牧絢美とのトーク画面を何度も見返すうちは、この温かさを羨ましく思うのだろう。それはもう恋ではない。
明かりの道 薮 透子 @shosetu-kakuko
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