二輪の百合は、宮に咲く 前編

 春の日の訪れを、私も琉莉も、今までの人生の中でかくも待ち望んだ事はなかったし、きっとこの先も訪れないに違いない。

 宮との約束の通り、春の、桜盛りの頃、私と琉莉の婚姻の契りを交わす日が、遂に訪れた。

 

 「婚姻の儀の日は、二人は、白無垢の姿に着替えて、家で待っていてよ。そうしたら、この神社までの迎えが、二人の家にやってくるから。この日が、天海と琉莉。二人の生涯で忘れられない日として、何十年の月日が流れた先で振り返っても、輝き続けるように頑張るからね」

 そう言った、宮の言葉に従い、私達はいつもの茶の間を綺麗に片付けて、白無垢を着込んで、畳の上で正座し、宮の言う『迎え』が訪れるのを待っていた。

 これから、宮がどういった形で、『迎え』というものを寄越してくるつもりなのかなど、先の事は何も分からない。宮は、当日まで秘密にするつもりのようだった。

 この上ない程、厳粛かつ神聖な空気を内包した、この装束を、私達が同居の場所として何気なく過ごしてきた、家という日常空間の中で着ている、その違和感に、どうにも私は落ち着けない。


 着付けや、白無垢に似合った化粧の施し方なども、夏に、祭りに着ていった浴衣を仕立てた、街の呉服屋のご主人の奥さんが大変面倒見よく、私と琉莉に教えてくれた。

 そのおかげで、私達だけでも何とか、婚姻の儀に向かう準備をする事が出来た。

 

 ただ、着付けや化粧は元々上手で、飲み込みも早い琉莉に比べて、普段、物書きの仕事でそうした事が疎かになりがちな私は、教えられた通り、琉莉の顔に化粧を施してあげられたか、自信がない。

 つい、心配性の為に何度も、琉莉の横顔に視線を送っては、白粉や、口紅の色合いはあれくらいで良かったろうか。おかしな塩梅になっていないか、と自分の化粧の仕上がり以上に何度も確認してしまう。

 そんな、私の落ち着きのない視線は、琉莉にはとっくに気付かれていたようで、ふっと小さく笑って、私の方に彼女は顔を向けた。

 「もう、天海ったら、心配性なんだから。さっきから、自分が私に化粧したのが、上手く出来たかどうかばかり、気にしてるでしょう?視線を何度も感じるわよ」

 「ごめんなさい…。でも、今日という日は、琉莉には人生で一番に綺麗でいてほしい日だから、絶対、失敗してはいけないと思ったら、ちゃんと仕上げられたか、不安になってしまって…。私は、人に化粧を施す事なんて今までなかったし、自分の化粧さえ、疎かにしていたくらいだから。呉服屋の奥さんの教え通りに出来たかなって」

 琉莉は、私の心配を静めるように、こう言った。

 「大丈夫よ、何も、天海が化粧してくれた中でおかしいところなんてない。天海は、あんなに頑張って、呉服屋の奥さんと一緒に、化粧の施しの練習していたじゃない。自信を持って、今まで自分で化粧していたどんな時よりも、天海が施してくれた今の自分の顔が一番、綺麗に仕上がってると思えるわよ」

 だから、心配しないでと、琉莉は優しく微笑む。そして、白粉がつかない程度に、私の頬にそっと手を当てると、こう言った。

 「天海こそ、今日は、今まで見てきた中で、一番の綺麗な顔になるように、私が一生懸命、化粧を施したんだから、どうか自信を持って、堂々と歩いて。物書きの癖で、背中を丸めて猫背や俯き気味になったりせずにね」

 呉服屋の奥さんにも、「天海さんは姿勢が猫背になりがちで、折角のお化粧した綺麗なかんばせも俯きがちだから、大変勿体ないです。背筋を伸ばして、もっと自信を持って歩きましょう」とよく言われたものだった。それを思い出して、苦笑する。

 「ええ。分かっているわ」

 琉莉は、自分の手を、私の頬から、次は手元へと持っていく。

 そして、膝の上で緊張に少し固く握られた、私の手の上に、自分の掌を優しく重ねると、続けて、こう言った。

 「それから、これは私から二つ目の天海へのお願い。今日は神社まで向かう道の途中では、天海が私の手を握って、引いていってね」

 そのお願いに、私は、去る夏の夜の、あの祭りの日。琉莉と一緒に花火を見た時の記憶が頭を過ぎ去った。

 通り雨が過ぎ去った後、微かに立ち上る、湿った土の匂い。空に、弾ける音と共にいくつも、色彩豊かな大輪の花達が咲いていた、あの夜空を二人で見上げていた時の事を。

 あの花火の夜も、私は琉莉の手を引いて、ずっと握っていた。その時の、自分の手に感じた火照り‐慣れない事をする照れくささや、琉莉を改めて恋人として意識しての、気持ちの昂ぶりなどが入り混じった熱が、私の手の中に蘇ってくる。


 琉莉も、同じ記憶を辿っているらしいのは、その横顔、頬が白粉をあしらいながらも、先刻より薄紅に色づいている事から、すぐに察する事が出来た。

 「ええ、勿論よ。…でも、本当、不思議なものね。この街に、半ば逃げるように越してくる前から、琉莉とは、同じ屋根の下で一緒に暮らしてきたというのに、それに慣れてしまったら、変に意識してしまって、手を繋ぐのさえ、年端もいかない女学生じゃあるまいし、恥ずかしくなるなんて。今だって、花火の夜の時を思い出して、手が少し熱い…」

 「私も同じよ…。今から既に、この心臓は脈を速くしてる…。そして、天海。これから話すのは、3つ目のお願い。あのね、天海…、婚姻の契りを交わす際には、境内

の中で…その、せ、接吻をしてほしい。それも、あ、天海の方から」

 日頃は、元気に、物おじせずに話す部類の人間である琉莉であっても、『接吻』という単語を口にする際には、流石に声を震わせた。

 その言葉を聞いた時には、私の心臓も、今までにない大きな脈を一拍、打ち鳴らした。

 そうだ、婚姻の契りを交わすのだから、接吻は、その証として必要不可欠なものだった。

 だが、こうして二人で一緒に暮らす期間が長くなったにも関わらず、改めて、彼女に接吻を施すというのは、手を繋ぐ等とは比較にならないくらい、私の動悸を早くさせ、体にかっと、熱を呼び起こした。

 

 琉莉も、この3つ目のお願い‐、婚姻の契りの証として、私の方から琉莉へ接吻してほしいという願いを口にするのは、大変に恥ずかしいものだったらしい。その言葉を口にした後、さっと、視線を横へと逸らす。

 彼女の形の良い、小ぶりな耳がすっかり薄桃色に染まり切っている。


 接吻をしてほしいというお願いをされた為か、私の視線は、私の意思の支配下から離れたように、勝手に、琉莉の口元‐そこに咲く、口紅によって色づいた、紅く、瑞々しい花弁へと向かってしまう。或いは、あの、琉莉の口元を飾る花弁が、私の瞳を捉えて離さないのか。

 もうじき、あの柔らかく、紅き花弁に、私の唇を重ねる事になる…。そう考えただけでも、頭がくらくらとしてきそうで、しかし、その感触は、寧ろ心地よく、陶酔に近いものだった。


 その陶酔はやがて、一つの幻想めいた景色を、私の頭の中をスクリーンのようにして、鮮やかに映写し始める。

 桜や、春の訪れを心から喜ぶように、神社の境内の隅でも、生命力豊かに咲き乱れている春の野花達。

 それらに見守られるようにして、純白の、二輪の白百合が、柔らかく、暖かに撫でるような春風に揺れて、色彩に飾られた境内に咲いている。

 まるで一つの花瓶の中に活けられたかのように、対をなして、ほぼ接する間際の近さで、二輪の百合は向かい合っている。

 そして、少し強い風が片方の白百合を軽く押した時、その白の花弁が、もう片方の白百合の花弁にそっと、重なるように、一瞬触れた‐。

 そんな夢か現かの世界に囚われていた為か、私は、まだ返事をせずにいた事に気付き、幻想から我に返る。

 「ええ…、勿論よ。だって、今日は、宮という、神様の前で、私達が恋人同士として、結ばれて、正真正銘の家族になる日なんだもの。琉莉が望む事なら何でもするわ。私から琉莉に、せ、接吻するのは、慣れてるとは確かに言い難いけれどね…。でも、白無垢を着た、私と琉莉。二輪の純白の百合が、優しい風にそっと押されたように、境内で花びらを重ね合わせる、と考えたら、それは本当に美しい光景よ…。忘れられないものになる筈だわ」

 先程の幻想を振り返りながら、私は琉莉に、そんな言葉を返した。

 純白を着た私達は、恰も、境内に咲いた二輪の白百合のようだ、というたとえは、琉莉の心にも響いたらしい。

 「流石は文学者の天海先生。私達が、二輪の白百合だなんて比喩を即興で思いつくなんて」

 二輪の白百合という比喩を、いたく気に入ったらしく、琉莉はそう言ってくれた。


 私の膝の上で、私の手の甲に重ねられたままになっていた、琉莉の手を、私はその場で両手で強く握り、宙に持ち上げる。

 そして、宣誓するように、琉莉にこう言った。

 「今日という日は、私達二人で咲かせましょう、琉莉。人の世に生きてる誰の目にも触れられなくても、私達は確かにこの世界で恋人から結ばれて、家族になったんだっていう証を残す為に、二輪の白百合を。宮が待つ、あの神社で。私達は、例え死で分かたれる時が来ようと、そして、私達どちらも、この世を去る時が来ようと、二人が引き裂けない、二輪の白百合であった事は、宮が絶対に覚えていてくれるわ」

 日頃の私は、年上らしくもなく、琉莉には手伝ってもらったり、助けてもらったりばかりだ。執筆に悩み、苦しんで、みっともない姿も見せてきただろう。

 しかし、今日という日は、私は琉莉を、正式に連れ添う家族-妻として迎える最初の日であり、もう、ただ漠然として、同じ家で生活していた頃とは、もう違う。

 今日からは、妻になる彼女を、今度は私も守り、彼女が立ち止まりそうな時にはその手を握り、引く責務を私は持つ。

 もう、琉莉や、そして宮に助けてもらうばかりの自分ではいられないという、区切りをつける為の宣誓でもあった。


 「うん…。私達は、誰も引き裂けない、二輪で一つの白百合になろう、天海」

 琉莉は、薄く、瞳を潤ませつつ、私の手に、更に自分の手を重ねて、応えてくれた。互いに両手を差し出して、握りあう形となった。

 琉莉の手も、しっかりと私の手を握り返してくれる。

 もう互いの手に触れる事への恥じらいや照れくささなどは、薄らいでいた。

 琉莉の私の宣誓と、それに込めた思いは、琉莉の胸にもしっかりと届いたと、信じられる。


 二人でそんなやり取りをしていた、その折だった。

 私の耳に、何処か遠くから、尺の、笛の音が聞こえてくる。

 「待って、天海。笛の音みたいな音が聞こえない?」

 琉莉も、すぐに笛の音が家の中にいるにも関わらず、聞こえてくる事にすぐに察した。それも、神社の神事などで使われるような、古式の和笛、尺の音色に聞こえる。

 私は、整えた白無垢を乱してしまわないよう慎重に立ち上がり、そっと、玄関の三和土で、今日の為に用意していた草履に足を通して、引き戸を引いてみる。

 家の中に響くくらいの尺の笛音ならば、隣家の人々も驚いて、顔を出してくる筈だ。

 ところが、家の外を伺ってみると、不思議な事には、そのように窓から顔を出す、道に出てくる人などの気配はない。そればかりが、よく伸びて、響き渡る笛音以外には、この昼間から、誰も、人ひとり、気配は感じられないのだ。

 引き戸を開けた先に広がっているのは、普段と何一つ変わりはしない、近所の家の瓦屋根や生け垣、石垣などが並ぶ、のどかな光景であるにも関わらず。

 私の隣から、ひょこっと、琉莉も首を出して、家の外を伺う。あまりに近所全体が静まりかえって、雅楽の笛の音が響いているのに様子を見に来ようともしない、異質さに気付いたらしかった。

 あの、雅楽の優雅な笛の音が聞こえているのは、この一帯で私と琉莉だけらしかった。

 そんな不思議な現象をなす事が出来る、超自然の存在は、私達にはただ一人しか、思い浮かべられない。


 「白無垢を纏ったら、そのまま家で待っていて。神社まで、天海と琉莉を送る為の『迎え』の遣いを寄越すから」

 宮が言っていた言葉を思い出す。今起きている事が、まさしく、その、宮が寄越した『迎え』ではないか? 

 人気の途絶えた、家の前の道へと、私と琉莉は出ていく。すると、雅楽の笛の音色は更にこちらへと近くなり、私達はその姿をはっきりと見る事が出来た。

 

 見慣れた田舎町の小さな通りに、平安朝の絵巻の世界から、そのままに姿を現したような、黒の烏帽子を被って、尺を奏でる神職らしき姿の男性と、宮と同じように白衣(しらぎぬ)と緋袴(ひばかま)を纏った巫女装束の女性ら、数人からなる雅楽奏者の列が、私達の家の方へと、歩んできていた。

 周囲は、普段ならば、笑い合う家人の声や、家事の物音、ラジオの音など、生活音がいつも道へと漏れ聞こえているのに、今日は針一本の落ちる音すら聞き取れそうな程、静まりかえっていた。

 その中に、ただ、厳かに、彼ら、彼女らの雅楽の音だけが響いている。

 奏者らの列の中央には、丁度、下に人が二人入れるくらいの大きさの和傘が一本、掲げられていた。

 ただ、その和傘の下には、誰も入ってはいない。

 

 「夢でも見ているみたい…。あの人達が、宮の寄越した、神社までのお迎え?」

 琉莉は、驚きと戸惑いを隠しきれない口調で、そう言った。

 あの行列が神社の本殿まで、婚姻の契りを交わす二人を導く「参進の儀」の行列である事は、私にもすぐに分かった。

 そして、雅楽奏者らの行列の中に見える、あの一本の広げられた和傘は、私と琉莉が入る為の傘だろう。

 

 程なくして、その行列は、家の門の前に辿り着き、整然と足を止める。

 そして、その場で、白無垢姿で棒立ちになっていた私達の姿を見ると、行列の先導の、神職姿の烏帽子の男性が、恭しく頭を下げた。

 「天海様、琉莉様。私達はこの目出度き日の参進の儀に、貴女方お二人を本殿までお迎えする為に、○○命(みこと)様…、否、貴女方が宮、と及びしておられる神様からの遣いで参りました、式神にございます。参進の儀にこれより貴女方をお連れ致します」

 この、神職姿の男性も、それに巫女装束の女性らも皆、宮が遣いに寄越した、式神が身をやつしたものらしい。

 そして、その式神の男性は行列の中、一際目を引く、大きな和傘へと、私達を案内するように手を差し向けた。

 「それでは、出立の時でございます。あちらの傘の下へ、どうぞ、お入りくださいませ。貴女方に親しくして頂いた、宮様も、花嫁姿のお二人のご来訪を今か今かと、待ち望んでおります」

 

 未だに、目の前に広がる、この華やかな参進の儀の行列が、現実のものとは思えない。玄関を開けたら、異次元へと迷い込んでしまったかのような感覚だ。

 だが、これも全ては、産土神様である宮が、私達の為に、成してくれた奇跡なのだろう。

 彼女が言っていたように、今日という日が、幾星霜の年月を経た先でも、私と琉莉、二人の記憶の中で輝き続けるように。


 私は、先程、琉莉と交わした約束の通りに、そっと、自分から彼女へ、右手を差し出す。

 そして、彼女の左手のしなやかな指の合間に、自分の指を滑り込ませ、しっかりと私の手の中に、彼女の手を握り込む。

 「さあ、それでは行こうか、琉莉。私達の事を、首を長くして待ってくれている、大切な友達で、そして、私達の幸せを誰よりも願ってくれている、心優しい、神様の女の子の待つ場所へ」 

 私がそういうと、琉莉は、にこりと微笑む。そうして、彼女もまた、私の指の合間に滑り込んでいる指に力を入れて、握り返してくれた。

 「ええ。行きましょう、天海」

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