彼女の記憶、そして後悔。

 次の瞬間、瞼を開けた時、私は、雨の降る暗闇の中に立っていた。その隣には琉莉もいる。

 「え…?一体、これは何?何が起きてるの?」

 先程まで、行燈の火が照らす、社務所の一角の和室にいて、宮と話していた筈だ。外に出た記憶などない。

 それに雨が降りしきっているのに、私も琉莉も服が全く濡れていない。ここは一体何処なのか。

 よく目を凝らせば…、そこは、もうすっかり見慣れた場所。

 宮と何度も一緒に話して、共に境内の掃除などもした、あの神社だ。

 しかし、驚くべきことに、12月の夕暮れに尋ねた筈だというのに、境内の一角に目を向けると、何と桜が咲いている。

 忘れもしない、私達がこの神社に足を運ぶきっかけになった桜の木で、確か昔の神主様が植えてくれた、と宮が言っていたものだ。


 その桜も雨に打たれて濡れていた。

 花びらが雨粒に交じって、ひとひら、またひとひらと、濡れた花びらが地面に向けて降り落ちていく姿は、まるで花びらの涙のようだ。

 「どういう事…?さっきまで私達がいた筈の宮の神社に、そっくりだけど、何か違う」

 そして、肝心の宮の姿が見えない。つい今しがたまで、卓袱台を挟んだ向こう側で話していた筈なのに。

 少なくともここが、現実の世界でないらしい事は、一切雨に濡れない事だけでも薄々と察する事が出来た。

 「言葉では伝えきれないかもしれないから、二人にも僕の記憶を体験してもらう」

 そんな事を確か、彼女は言っていた。

 「これが、さっき、宮が何かおまじないみたいなものを唱えだす前に言っていた、宮の記憶、っていう事?でも、ここで何が…」

 琉莉も大いに困惑して、様子が一変した境内を見回している。

 今、私達が立っている場所からだと、ちょうど、鳥居から拝殿まで繋がる参道を真横から見る形となる。

 

 すると、そこへ、夜更けらしい時間というのに、提灯を、傘の下に持った、一人の和服の女性が鳥居に一礼して、入ってきた。

 今日日、提灯を夜に、照明代わりにする人は田舎街でも見なくなった。それだけでも、これが、私達のいる1965年の現実ではないのだという事が分かった。

 「これが、宮が言っていた、昔の出来事?宮の力で、彼女の記憶を私達が映像みたいに見せられているって事?」

 拝殿に歩いていく、古めかしい提灯を下げた、傘に和服の女を見ながら、琉莉が声を潜めて、私に耳打ちする。

 この距離では、声を潜めたくらいなら、すぐに気配に気づかれそうだが、彼女はこちらに目もくれない。

 やはり、恰も記録映像をフィルムで上映するように、宮の遠い昔の記憶を、私達は傍観者として追体験しているのだろう。宮の、超常的な力によって。


 傘の女は、拝殿で一礼すると、その屋根の下の石段に傘、提灯を置き、本坪鈴(ほんつぼすず)をカランカランと鳴らした。そして、両手を打ち鳴らすように合わせた後、一心不乱に何かを祈り始めた。

 彼女の願いの深さは、こうして見ているだけの私達にもすぐに伝わる程で、彼女はしばらく、直立で拝み続けたまま、拝殿前から降りなかった。

 「あの人、とても深刻そうな顔で、お祈りしてる…。何を祈ったんだろう…」

 ようやく両手を話して、再び深々と彼女は、拝殿に向けてお辞儀をする。

 そうして、参道に降りる石段を下ろうとしていたが…、ぴたりと彼女は足を止めた。何かに後ろ髪を掴まれたかのように。

 どうしたのかと思い、見ていると、彼女の肩が小刻みに震え始めた。

 最初は、寒いのだろうかとも思ったが、そうではなく、やがて、彼女は両手で顔を覆い、石段の上に座り込んで、すすり泣く声を立て始めた。

 痛ましい嗚咽の声が、こちらにまで聞こえてくる。


 「あの人、どうしたのかしら…?ねえ、ちょっと、すみません…、大丈夫ですか⁉」

 あの女の人の様子が、ただならぬ事に気付いて、琉莉がすぐに駆け寄ろうとした。私も急いで後を追う。しかし、まるで私と琉莉の姿が見えず、声も聞こえないという風に、彼女はいくら声をかけられても、気付く気配はない。

 「何、これ…。やっぱりこの世界の事には、私達は干渉できないって事?」

 「ええ、そうみたいね。ここはあの子。宮の記憶を再現して見せている、記録映像の中みたいなところで、何もさわれないし、声をかけるとかも出来ないようね」

 

 私達がすぐ後ろに立っているのも、全く意に介さないままで、彼女は、驚くべき行動を取った。 

 なんと、雨がしとしとと降り、参道を濡らしている中で、その濡れた石畳の上で土下座するように姿勢を取り、拝殿に頭を下げ始めたのだ。

 「え…!ちょ、ちょっと、貴女…!」

 その様子に驚き、琉莉が、こちらの声が聞こえないのも忘れて、また声を思わずかけようとするが、私がそれを制した。

 「待って、琉莉…。この女の人、何か、拝殿に向けて言っているわ。ちょっと聞きましょう」

 彼女はただ突っ伏して泣いているのではなく、何かを必死に拝殿に、神に向けて訴えかけている様子だった。

 

 彼女の声は、擦り切れたレコードを再生するように、やや掠れていたが、こう聞こえた。

 「女神様…。無理を承知でお願いします。もしも叶うならば、女でありながら、女を愛してしまった私めを、男の姿にしてくださいませ。さすれば、私は、愛しいあの方と、大手を振って、隣を歩く事が出来るのです。どうか、何卒、何卒…」

 そう、彼女は言っていた。

 その言葉が耳に届いた時、私も琉莉も、彼女が置かれている状況をすぐに察する事が出来た。

 「ね、ねえ…、天海。この女の人って、もしかしたら…」

 「ええ、そうね」

 繰り返し、彼女は、同様の訴えをして、自身の身を嘆き続けていた。


「何ゆえに私は女と生まれてしまったのでしょう。私がもしも殿方であったなら、何も差し支えなどなく、お慕いするあの女性と夫婦(めおと)となる事が出来ましたのに。○○の命様。無理を承知でお願いします。どうか、私めに殿方の体をくださいまし。さもなくば、私がこの世を生きていくのに、何の意味がございましょうか…?」

 彼女は、そのような事を言っていた。

「この方も、私達と同じ方の女性だったのね。女を愛する女で、もっと苦しい時代に生きていた」

 私は、琉莉の言葉に答えるようにそう言った。

 これが、宮の記憶であるというなら、私達より前に、私達と同じような人に宮は会っていて、それを話していなかった事になる。

 

 そこに、今度は聞き覚えのある、少女のようでも、少年のようでもある、あの中性的な声で苦悶している声が聞こえてきた。こちらは、頭の中に直接響いてくるような聞こえ方だ。

 「こっちの声は、宮…⁉」

 琉莉があたりを見回すが、宮の姿は見えない。

 私も、声に意識を集中させる。すると、宮の心の叫びらしい声が聞こえてきた。


 「ごめんね…。自然の摂理に反してでも、貴女の体を本物の男にしてあげるような力は、僕にはない…。だから、産土神(うぶすなかみ)の僕であっても、どれだけお祈りされても、貴女の祈願成就させてあげる事は、出来ないんだ。民を救い、守る産土神なのに、何も出来なくて、ごめんなさい…」


 それは聞き間違う筈もなく、宮の声だった。

 そして、聞いた事もないほど、苦し気で悲痛な声をしていた。

 宮は、この、女を愛してしまった自分を責め立て、無理な祈りにまで走ってしまった、彼女への謝罪と、何も出来ない自分への自責の言葉に溢れていた。

 こちらまで胸が痛くなってくる。


 そして、宮は今、自分の事を「産土神」と呼んだ。

 「産土神…?宮の正体は、神にお仕えする巫女様じゃなくて…神様そのものだったっていうの?」

 私にも琉莉にも、衝撃が走る。

 まさか、自分達に、あんな気さくに話してくれて、桜、紅葉を一緒に楽しんだ、そんな存在が、この土地の神様だったなんて、夢にも思わない事だった。

 琉莉が、雨に濡れながら、懇願し続ける、彼女から、「ちょっと、もう、耐えられない…」と鼻をすすり、目元を押さえながら、顔を逸らした。

 それは、私と琉莉にとっても、直視し続けるのはあまりに辛い光景だった。


 そうしたら、また場面が切り替わった。

 夜だった筈の境内がいつの間にか、昼日中になっている。

 「これが、次の宮の記憶…?」

 私と琉莉は、また、境内の端に立って、参道を横から見つめている。

 まだ、この神社に街の人々が集まっていた時代だろう。

 神主様らしい格好の人と、街の人が何か話をしている。

 その声が、少し離れた場所の私達にまで伝わってくる。

 「ええ…、そうです。神主様。本当に気の毒なこって…」

 「何もまぁ、あの娘もべっぴんだったのに早まって、川に身投げなんてせんでも…。女が好きだなんて、一時の気の迷いで、二枚目な殿方にでも出会えば、幸せな家を作れたろうに、可哀想な事です」

 

 琉莉が声にならない、悲痛な声を上げる。私も、思わず身が強張る。

 「う、嘘、でしょう…。さっきの宮の記憶と繋がってるなら、あ、あの身投げした娘…、女が好きな娘って」

 あまりに悲惨だが、私もほぼ確信に近い予想を持てた。あまりの結末に思わず、奥歯を噛み締め、「畜生…」と汚い言葉が出そうになるのを、私は堪えた。

 「きっと…、今これを宮が見せているのなら、そうでしょうね…。身投げして絶命したのは、さっきの、雨の境内で泣いていた女の人よ…」

 そんな…と、琉莉の苦し気な声が漏れ聞こえる。

 宮が、こんな悲惨な結末に終わった、「女を愛する女」に以前にも会っていたなんて。

 そして、自然に場所は移動し、私と琉莉は、拝殿の中に移動していた。

 烏帽子を被った男性-恐らくは神主様らしい人が、話す声が聞こえる。

 「女神様。ゆめゆめ、落胆しすぎてはなりませぬ。産土神は確かにこの地の民を災いや苦しみから救い、守る事が務め。しかし、産土神の力は決して万能ではありませぬぞ。あの、川に身を投げた娘の事、お優しい女神様はきっと気に病んでおられるのでしょうが、いつまでもそうして籠っている訳にはいきますまい。貴女を慕う民がまだ、おりますゆえ」

 それは、半分は父親のように優しく慰め、半分は、それでも、神たる務めを疎かにするのは許さないという叱責のようだ。

 「あれだけ、救いを求めていた、あの娘に何もしてあげられず、守るべき民を自害させてしまった…。そんな僕に、民の誰を救えるというの…?」

 はつらつに振舞う宮しか知らない、私には、聞いた事もない、弱々しい、彼女の声だった。

 「それでも、貴女様と私には、民を守る務めがございます。人の魂魄(こんぱく)は、神であっても、自然の理に反してまで、自由に操ってはならぬもの。貴女様は優しすぎる故、天寿以外では一つの民の魂魄も失いたくないのでしょうが、そうは人の世は動きませぬ。救えなかった民の魂魄も忘れず、なお一層、貴女様と私は、今を生きている民の加護に励むしかないのです」

 あの女の人が、あれだけ神の救いを懇願していたのに、それを叶えられなかった事。

 結果として、宮は、大切にしていた筈の民の一人を自害で亡くしてしまった事を、深く悔いているようだった。

 あの笑顔、飄々としたように見えるかんばせの奥に、このような悲しみを背負っていたなんて…。


 そうして、幾年が早送りのように私と琉莉の周りを通り過ぎて行った。

 気付けば、私達は、今度は神社の端にある、神主の住居らしい家屋の中にいた。

 そこには、布団が敷かれ、死の間際の床に就いている男がいた。

 だいぶ年を取っているが、それが、先程、宮を慰め、しかし、叱咤もしていたあの神主だと、私達はすぐに分かる。

 その布団の横に、宮は座っていた。

 「神主…。置いていかないでよ…。この神社の、最後の神主の貴方も逝ってしまったら、僕は、一人では…。神主なら、知っているでしょう?僕が、見ての通りの卑屈で、すぐに自信も無くして、民を救う力も出せなくなってしまう事を…」

 神主は、私達と同じく、宮の姿が見えているようだ。

 彼は、さっき見た時よりは、遥かに力の衰えた声で、しかし、淀みのない口調で宮に語って聞かせていた。

 「産土神の貴女様がそのように弱気でどうするのですか。私との別れは、人の世における別れ。人の体での生を終えるに過ぎませぬ。万物には流転の理があります。これもまたひと時の別れ。女神様を私の魂魄は、いつでもお見守りしております。神にお仕え申し上げた身として」


 そして、最後の力を振り絞るように、彼は、家から見える、境内の方を指さすと、こう言った。

 「最期になります故、少しだけのご無礼をお許しくだされ…。貴女様は、産土神様と呼ぶにはいさかか、心もとない女神様でした。それでも、純粋に民を愛する御心を、私は、仕える身として、大変お慕いしておりました。救えなかった民の事を忘れず、貴女様は、まだ沢山の民を救う事が出来る…。寂しくなったら、私が植えた、桜をご覧ください。あの桜を見る時は、私の事を思い出してくださいませ」

 「救えなかった、民の分まで…。僕に出来るだろうか」

 神主の言葉を、宮は反芻し、噛み締めているようだった。

 「ええ、きっと、女神様ならば出来ますとも…」

 そう言ったところで、神主の声は途切れた。

 

「…忘れないよ。神主の事も、それに、僕に救いを求めながら、救ってあげられなかった、民の事も…」

 宮の心の声と共に、記憶の旅は途切れた。


 …意識が、深い井戸の底の、闇から引っ張り上げられるように、急に脳に詰め戻される感覚がした。

 私は、がばっと、顔を上げ、周囲を見回す。

 そこには、さっきまでいたのと寸分違わぬ、社務所の一角の、あの和室の光景が広がっていた。

 私の隣では、卓袱台に、私と同じように突っ伏した、琉莉の姿があった。色々、感情を揺さぶられる光景を目にしたからだろう。その閉じた瞼を越えて、涙が零れていた。

 「琉莉…!起きて」

 揺さぶると、琉莉は、はっと、驚いたように飛び起き、周囲の景色がさっきと変わらない、行燈が照らす和室と分かって、戸惑っている。

 「今さっきのは…?」

 琉莉の発した言葉に繋ぐように、宮の声が聞こえた。

 「僕の記憶だよ。そのいくつかを、言葉で話すより、伝わりやすいかなと思って、記憶を二人の中に送ってあげた…。神通力でね。辛い記憶を目覚めさせないといけないから、苦しかったけれど」

 見れば、意識が落ちる前と全く変わらない位置。卓袱台の向こう側に宮は腰掛けていた。

 

 ここまでの力を目にして、更には、神主と呼ばれた男性とのやり取りで「産土神」「女神様」と呼ばれていた事から、もう信じない訳には、いかなかった。

 「貴女…、宮は、神様なの…?この土地の守り神っていう事?」

 「その通りだよ。僕が、こんな子供みたいな姿に身をやつしてるから、まさか神様だなんて、天海も琉莉も思っていなかったでしょう?」

 宮が、神様だった。

 私も、琉莉も開いた口が塞がらない。

 「ね、ねえ、宮…。それなら、私達を支える、応援するって言ってくれていたのも、私達に一生懸命、関わってくれてたのも…。あの人の為なの?あの、身投げ、してしまった、娘さんの」

 琉莉がそう尋ねる。

 それに対して、宮はこくりと頷く。

 「民の祈りを叶えられず、無念の思いをした事は数あれ、自分がこんなに、苦しみ民の役に立てないのかと、自分を責めたのは、あの娘が初めてだったからね…。再び、彼女と悲しみを抱く人が現れたら。そして、僕の元に祈りをしに来たなら…絶対に助けると心に決めたんだ」

 それにね、と宮は付け加える。

 「この土地に住む皆が、この神社の事を、願いを捧げる場所として忘れていってしまえば、僕も民から、忘れられた神様になって、消えてしまっていたかもしれない。でも、天海、琉莉があの日、この神社に来て、強く祈って、僕の事を必要としてくれたから。僕は、まだ、誰かを助ける為に、神様でいていいんだと思えたんだ」

 

 そこまで話したところで、宮は話を一区切りし、お茶をまた一口含む。

 ことんと、湯呑みが置かれる音さえ、今は部屋の隅々まで響く程、私達の周りは静寂に包まれていた。

 もう、冬の短い日もすっかり落ちた。電球もない部屋を照らすのは、行燈の中で燃える蝋燭の炎だけで、薄暗くなった。

 行燈の薄明りしか照らすものがない中、普段の砕けた口調や声色ではない、静かな声で話す宮の姿は、彼女が人ならざる存在だという印象を、より一層に際立たせていた。

 「でも、これは、僕の利己的な考えだったのかもしれない、という気持ちもあってね。僕は結局、彼女を悲劇から救えなかった。その罪滅ぼしを出来る時を待っていただけではないのか。自分が救われたいだけではないのか、って」

 再び口を開いた時、そう語る宮の表情に影が差して見えたのは、この部屋の灯りの弱さのせいだけではなかっただろう。

 宮の中には、きっと、まだ迷いがある。

 私達がこの地で幸せに暮らせるように願い、産土神(うぶすなかみ)として守りたいという、宮の気持ちは何処までも純粋なのに。

 それが、かつて救えなかった「彼女」の影から解放されたい、自分を許せるようになりたいという、私利私欲に過ぎないのではないかと、自らを責めている。


 「僕の正体と、過去を知って、天海と琉莉はどう思った?やっぱり、僕は今も頼りなくて、民を誰も守れない神様なのかな…」

 宮は、私、琉莉に向けて、そう問いかけてきた。

 その表情に、「自分はきっと、誰の、何の力にもなれはしない神様だ」という、無力感を滲ませながら。

 

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