草葉の陰から

 鳥居を抜けて、神社のある小さな高台から、街の方に降りていく階段の下へ、天海と琉莉は去っていった。

 二人がいなくなると、人の話し声が途絶えた境内は、鎮守の森やご神木から絶え間なく鳴き続ける蝉の声だけが残る、静かな場所に戻る。

 「ふう…。さっきは危なかった。何とか誤魔化せたな…」

 先程、琉莉に花火に誘われた時は少々、肝を冷やした。

 僕があの二人と一緒に花火に行くような事があれば、忽ちに天海も琉莉も、僕が人間の少女などではない事に気付いただろう。

 僕の姿は、あの二人以外には見えないのだから。

 こうして、二人には僕の姿が見えているのは、あの二人には、土地神様ーつまりは僕に対する、信仰心があるおかげであって、この神社の事さえも忘れてしまった、多くの人には恐らく、僕の姿は全く見えない。

 

 それに、僕の正体が気付かれる云々以前に、やはり、あの二人の特別な時間に、僕がその場に一緒にいるのはおかしい。

季節の風物詩である花火を、恋人同士で見るというのはやはり特別な時間で、二人だけのものにするべきだ。

 「僕は、あの二人がこの街で幸せになれるように支えると決めたけれど、それはいつでも、二人について回る事じゃない…。今度の花火大会の時は、草葉の陰から、二人の成り行きをそっと見守らせてもらうよ」

 二人が残していった湯呑みをお盆に乗せて、片付けながら、そう思った。


 「これは…、困ったね。今宵は大丈夫だろうか…」

 僕は、拝殿の屋根の下から、空を見上げる。

 この土地の風物詩である、夏の花火大会を控えた今日。

 雲行きは安定せず、昼過ぎから、鉛色の雲がどんよりと、午前までは眩しい光を放っていた空を覆い隠し始めた。

 雲が日光を遮断するにつれ、拝殿の中の陰も濃くなっていく。 

 幸いにして、雨はまだ降りだしていないが、いつ天気が崩れてもおかしくない空模様だ。

 「今日は、天海と琉莉にとっては大事な日なのに…」

 昨日、ちらりと二人がまた訪ねて、僕に話しに来た時は

 「天海によく似合う色合いの、良い浴衣が見つかったのよ。今から、着てもらうのが楽しみだわ」

 と、琉莉は特にはしゃいだ様子だった。

 「そんな楽しみにされても、私に着こなせるか、分からないし…」

 なんて、天海はまだ自信なさげな事を言ってはいたが、琉莉に「そんな事ない!天海はもっと自信を持って。呉服屋さんも、それに私も保証したんだから」と言われると、満更でもなさそうな、嬉しそうな顔をしていた。

 今日を、どうかこの街での、『恋人』としての二人の大切な思い出の1日にしてほしい。

 

 夕暮れ。

 花火が見渡せる定番の場所である、街の近郊を流れる川にかかる、○○橋周辺の河川敷や道筋には、まだ、花火の始まりまで幾分の時間があるにも関わらず、既に縁日の様相を呈していた。


 赤提灯の放つ、赤橙色の光が川沿いに、無限に続いているように見える。

 浴衣姿の子供達は出店の玩具で遊び、元気を持て余すように、両親の手を引いて、次のお店へと走っていこうとする。

 チンドン屋も来ているらしく、景気のいい祭囃子やら太鼓など、楽器の音も、民たちの縁日気分を更に盛り上げていた。


 『懐かしいな…、もっと昔は、お祭りの規模も大きくて、僕の神社の境内にも、縁日の屋台が出ていて、子供達の遊びまわる声とかも良く聞こえていたっけ。もう、そんな光景は何年も見なくなってしまったけれど』


 今よりも、ラジオとか、テレビとかいう、民の娯楽が少なかった、戦争より昔の時代。

 花火に限らず、土地の祭りは数少ない刺激的な娯楽で、街をあげて楽しんでいた。

 しかし、あの戦争が終わって、20年余りが過ぎた今。

 田舎のこの街も、時代の流れと無縁ではなく、民の娯楽も昔よりずっと増えて、祭りだけが日々の生活の労苦を忘れる機会ではもう、なくなっていった。


 派手な色合いの幟を出している、出店に挟まれた道にひしめいている民の、誰にも僕の姿は見えてはいないようだった。

 やはり、自分は忘れられ、民の信仰を無くした神様なのだと、実感させられ、少し、気が滅入りそうになる。

 僕は歩きながら、神社がもっと民の声で賑やかだった、遠い昔の日を思い出していた。

 ‐今日、一番大事な目的へと、僕は意識を戻す。今日、すべき事は、天海と琉莉の二人を見つけ出し、 その様子を伺う事だ。


 僕は、人込みの中を歩き続けながら、天海と琉莉の二人の姿を探した。

 すると‐、前も後ろも、縁日らしい浴衣姿の民でごった返す中、見覚えのある、二人を僕は見つけた。


 『見つけた。あの藍色の、ちょっと落ち着いた色合いだけど大人っぽい浴衣の方が天海で、隣にいる、薄い桃色に、花模様が可愛らしい浴衣姿の方が琉莉だ』

 藍色と薄桃色の二人は、慣れない土地で、初めて出かける縁日に、どちらに行ったらよいか戸惑っているようだった。 

 二人に、この川沿いで、何処が花火がよく見える、隠れた名所かを簡単に記した地図を渡しておいて良かった。

 きっと今、二人は僕が渡した地図を見ながら、そちらの方向に向かっている筈だ。

 

 そっと、天海と琉莉の横を、道行く人込みをすり抜けながら、通り過ぎて、二人から、人が数人分程の距離を開けて、後ろに回り込み、その様子を伺ってみる。

 他の人々の声をかき消して、天海と琉莉の会話にだけ、耳を集中させる。

 しかし、いくら二人の会話に集中しても、話し声が聞こえてこない。二人とも咲き程から、黙っているようだった。

 『あれ?二人ともどうしたんだろう?あんな、琉莉ははしゃいでいたし、天海だって結構楽しみそうにしていたのに…』


 何故二人が、お互いに黙っているのか、疑問に思った僕は、二人の心をそれぞれ『読んでみる』事にした。

 天海の方にまずは意識を集中させて、彼女の隠している心の声を読み取ってみる。

 すると、こんな、天海の声が頭の中に浮かんでくる。

 『どうしよう…、普段、家や、宮がいるあの神社でなら、琉莉と話す事なんて何でもない事だった筈なのに。今日は、恋人らしくいる事を忘れないでいる、特別な時間にしなければ、と思えば思う程、どう振舞ったらよいのか、分からない…』

 次に、琉莉の方にも、意識を集中させてみる。

 今度は琉莉の声で、こんな言葉が僕の頭の中へ聞こえてきた。

 『どうする、私…?普段は、一つ屋根の下で毎日、顔を合わせて暮らしてるっていうのに、意識し始めたら、嘘みたいに言葉が出なくなってしまった。だって、今日の天海は…、浴衣のおかげかもしれないけれど、何だか、いつもよりずっと色っぽく見えるから…』


 どうやら天海も琉莉も、今日のこの時を、『恋人らしい気持ちで過ごす時間』だという事に囚われすぎて、二人とも固まってしまっているらしかった。

 天海は何となく、こうなりそうな予感はしていたが、天海をぐいぐいと、年下ながらその元気さで引っ張っていく印象しかなかった、琉莉まで、そんなに意識して、緊張するとは意外だった。

 『どうしよう…?二人とも、意識しすぎて、どう振舞えばいいのか分からなくて固まってる。何とかして、二人の事を近づけたいけど…』

 僕は、はらはらしながら、二人の様子を見守る。

 -そして、先程から、天海が、自分の右隣を歩く琉莉に向けて、右手を差し伸ばそうとしては、幾度も引っ込めている様子が、僕の目に留まった。

 『天海…、きっと、琉莉と手を繋ぎたいんだ』

 あの様子を見れば、僕にも、彼女が何を望んでいるのかはすぐに分かる。

 

 しかし、彼女は未だ何かためらっている。

 だからもう一度、彼女の心の内を読んでみる。

 『日頃は一緒に、神社に散歩にだって出かけているけど、手なんて滅多に繋ぐ事ない…。付き合いたての初々しい時節なら兎も角、今更そんな、手を繋ぎたいだなんて事、恥ずかしくて琉莉には言えない…』

 天海の奥手ぶりは、予想以上のものだった。琉莉の心の内も、すかさず読んでみる。

 『さっきから、天海の手、私の左手に伸ばそうとしては、ためらってる…。手を繋ぎたいのかしら…。私もそうしたいけど…、中々天海の方は、手を伸ばしてくれない』

 あまりのじれったさに、僕は、二人の元に駆け寄って、出来るものなら、二人の手をすぐにでも、見えざる力で繋がせたい気持ちに駆られた。

 しかし、それでは意味がない。

 二人には、どちらかから、恥じらいを破って、手を取ってもらわなければ。

 『天海、頑張って…!琉莉も、天海に手を繋いでほしいって願ってるよ…!僕もお応援してるから』

 僕は、天海の心へ呼びかけるように、思わず、念を送っていた。

 

 すると、驚いたように、一瞬、天海が振り返った。

 僕の念が、声となって聞こえたらしい。僕は、急いで、出店の陰に姿を隠す。

 『え…?今、頑張ってって宮の声がしたような…。それも、空耳なんかじゃなく、確かに頭の中に…』

 彼女は、急に、僕の声が、頭の中に響いた事に困惑しているようだった。

 一瞬、僕は、焦りからうかつな事をしてしまったかと、後悔しかけた。


 しかし、天海の心の動きは、こう続いていた。

 『そうね…、宮は、折角、私と琉莉が、また、恋人らしい気持ちを持って過ごせる、時間を作れるようにと思って、今日の花火大会の事、教えてくれたんだから…。ここでいつまでも恥ずかしがっている場合じゃないわ。琉莉だって、今日の日を楽しみにしていたんだから、恋人として振舞わないと』

 

 そうして、天海は、ゆっくりとだが、自分の右の掌を、琉莉の左の掌に重ね合わせた。天海の指が、琉莉の指と指の合間にすっと潜り込み、琉莉の手を握った。そして、それに応えるように、琉莉の手もまた、天海の手を同じように握り返した。

 「手、繋ごうか…。折角、今日は、宮に、恋人らしい気持ちでいられる時間にしてきてって言われたんだから。いつもと同じ感じでは、勿体ないでしょう?」

 そう、天海は右隣を歩く琉莉の方を向き、彼女の目をしっかり見つめながら言った。

 天海も琉莉も、日頃、神社で会う時よりも、頬がちょっぴり赤く色づいて見えたのは、縁日の夜を埋め尽くす、赤橙色の光の色のせいだけではないのは、すぐ分かった。

 そうして、また二人が、今度はしっかり手と手を繋ぎ、歩き始めるのを見て、僕は胸を撫でおろした。

 普段の、一緒にいる事が当たり前のようになった状況から、改めて恋人らしい事を意識してするというのが、人にとっては、こんなにも気恥ずかしく、中々踏み出せない事があるのだというのを、僕は初めて知った。

 一緒にいる事が日常になり、慣れすぎれば、かえって、相手に恋人らしく振舞うという事に、人間は、敷居が高くなるらしい。

 『ふう、このまま、お互い手も繋げない感じだったらどうしようって、肝を冷やしたよ…。だけど、天海もようやく、恥じらいを置いていく決心はついたみたいだし、もう少し、様子を見守ろう』

 

 「○○川沿いは、あまり来る事がなかったから知らなかったけれど、こういった場所があるのね。確かに、ここからなら、花火も良く見えそう」

 蒸し暑い夏の夜だが、川面を撫でて来る風は幾らか冷えて、心地よい。

 手を繋ぐ事にも慣れてきたようで、天海も琉莉も、だいぶ普段の会話の調子に戻っていたので、僕は安心する。

 『やっぱり、あの調子だと今日はこっそり二人を見守りに来ておいて、正解だったな…』

 近くの木陰に身を隠しながら、僕は、今日の祭りの目玉である、花火の始まりを待った。

 

 -すると、僕の目と鼻の先の茂みの、一枚の木の葉に、ぽとりと水滴が垂れ、小さく揺れた。

 『えっ…?』

 その一滴を皮切りにして、一枚、また一枚と木の葉達が、共鳴したように水滴を浴びて揺れ始め、それはやがて、僕の足元の土にもしみを作り始めた。

 『まずい…、雨か…!』

 僕ははっとして、見物客らが点在している○○川の河川敷の方に目を遣った。

 降り出した雨に、見物客らは、慌てた様子で、雨宿り出来る場所を探して、こちらの林の方に逃げ寄せてくる。

 

 その中に、藍色の浴衣の天海と、薄桃色の浴衣の琉莉も見つけた。二人に姿を見られたらまずいと思い、僕は木の幹の裏に隠れ、様子を伺う。

 降り出した夜露はまだ幸い、大雨という程ではなかった。木の葉の下にいれば、濡れるのは辛うじて避けられる程度だ。

 天海と琉莉の会話に、意識を集中させると、やがて僕の耳元に、二人の声が届き始める。そっと、木の幹から顔だけ少し出して、二人を見てみる。

 

 「困ったわね、琉莉…。大丈夫、濡れて、体は冷やしてない?川面からの風も、意外に冷たかったし、その上、雨露まで浴びたら、薄目の浴衣だと冷えるわ」

 天海はそう言って気遣う。

 琉莉は首を横に振った。

 「天海こそ、髪も首筋とかも、濡れてるじゃない。ちょっと、待ってて」

 琉莉は、下げていた巾着袋から、ハンケチを取り出して、天海の顔に当てて、拭き始める。それは如何にも世話焼きの彼女らしい行動だった。

 「琉莉、ごめんなさい。折角、貴女が私の為に選んでくれた浴衣も濡らしてしまって…。それに、貴女も髪とか、浴衣も濡れてるじゃない」

 「何言ってるの、悪いのは急に降り出した雨で、天海が濡らした訳じゃないでしょう?浴衣はまた綺麗にすればいつでも着られる。だけど、天海は執筆の仕事できっと体も疲れてるんだから、体が冷えないうちに早く拭いておかないと、風邪をひくわ」

 「それに…、琉莉が今日は、出不精の私を引っ張り出してくれたのに、この雨では、きっと花火も見られないわ」

 

 二人の会話を聞いて、僕は焦りを覚えた。

 そうだ。このまま、通り雨の為に花火大会が中止になってしまえば、折角、二人に、改めて初々しく恋人らしい気持ちを取り戻す為の、時間を作ってもらえなくなる。

 多くの民も「ちぇっ…通り雨か。ついてないな。今年は花火も中止か」と落胆の声をあちこちであげている。

 昼間から広がり始めた曇天が、せめて明日まで、雨粒を零さずに留まってくれたなら、良かったが、それを言っても仕方がない。

 ‐天候を動かす事は、非常に体力を消費し、滅多に行う事ではない。必ずしも成功する場合ばかりとは限らない。

 しかし今は、民の落胆や、今日を心待ちにしていた天海と琉莉の為にも、花火を妨げる通り雨を止ませるしかなかった。

 

 僕は、木陰に隠れたまま、瞼を閉じて、手を合わせ、懸命に天を覆う雲に、雨をやませるように念を送り続けた。

 『天よ。この、○○之命(みこと)より、頼み申し上げる。今ばかりは民の為に、しばしの間、雨を止ませ給え』

 

 -すると、しばらく念を送っているうちに、滴り落ちる雨粒が木の葉をぱたぱたと叩く音が、ぽつぽつと軽く当たる程度に変わり…、やがては全く雨音が聞こえなくなった。

 瞼を開いてみる。足元の土を見ると、土にももう、雨粒は落ちてはこなかった。

 一安心して、再び、天海と琉莉の方を伺う。

 「見て、天海…!良かった、一時の通り雨だったみたい。これなら、花火も見られるわね」

 「本当…!あのまま本降りになるだろうと思ったのに、嘘みたいに止んでる…」

 木の葉の下で雨宿りしていた、民たちも、安心したように、川の方に戻っていく。


 「ただ、折角の浴衣も、琉莉が結ってくれた髪も、少しばかりだけど濡らしてしまったわ…」

 天海は、言葉の途中で少し身を震わせ、両手で、自らの体を抱くようにした。

 「雨が過ぎた後だし、川辺で風もひんやりしているから、ちょっぴり冷えるわね…」

 そう言った天海の右手を、先程はあれだけぎこちなかったのが嘘のように、すんなりと琉莉が左手で掴んだ。そして、天海の指の合間に自分の指をするりと滑り込ませ、握り込む。

 「どう?これなら、少し寒さも和らぐでしょう」

 天海も、琉莉が急に大胆になった事に、咄嗟に反応が出来ず、驚いた様子だった。

 「る、琉莉…!」

 「大丈夫、他のお客さん達は、河川敷の方に戻っていってるから…、今なら誰も見やしないわ」

 林と、川沿いの道の丁度境界線のような場所に、天海と琉莉は今、佇んでいた。

 確かに、他の民たちは、皆、花火がより近くに見えるようにと、また河川敷に集まっており、偶然にも二人だけが残されたような形になっていた。

 

 ひゅるひゅる…という独特の音が空気を揺らしたと思うと、夜空に、一発の破裂音が響き、この林のすぐ傍の、川沿いの道も、一瞬、やや紫の混じったような赤の色へと照らし出した。

 その赤に照らし出され、二人の姿が、後ろから密かに見守る僕には、影絵のようになって浮かび上がる。

 あの一発を始まりの合図に、雨の去った夜空には、次々と、大輪の火の花が開いていく。

 「あの花火の色、ちょっと天海の雰囲気に似てる。落ち着いた色とかの空気が…何となくだけど」

 「何、それ…?まぁ、それを言うなら、あそこの花火は、琉莉の色かしら。華やいだ、明るい桃色みたいな火の色だから」

 そんな言葉を交わしているのが、聞こえてくる。

 

 「ねえ、琉莉…」

 「何、天海?」

 「こうして手を繋いでもらってるけど、やっぱり少し、夜風が冷たいわ…。肩掛けとか、温かくするものとか持ってないわよね?」

 そう言った天海に、琉莉は「いいえ、持ってはきてないわ」と何故か、微笑みながら答え‐、次の瞬間、天海から手を離すと、その後ろから、天海の体をそっと、腕の中に抱き寄せた。

 「え…?」

 「ほ、ほら。こうしたら、手を繋ぐだけより、も、もっと、温かくなるでしょう?私の方も、実は少し体が冷えていたから、温まりたかったし…」

 天海を後ろから抱きしめる琉莉の声は、流石に、緊張があるのか裏返っている。

 しかし、天海も、琉莉に後ろから手を回され、その温かみを感じているうちに、緊張も解けてきたらしい。

 琉莉が回した手に、自分の手を重ねると、その感触をしみじみと味わうように、こう言った。

 「そうね…、この感覚、悪くないわ…。普段より、もっと近くに琉莉を感じられる。体の温もり、手の温もりとかが伝わってくるから」

 

 宵闇を照らしては消え、明滅する花火の中。

 並んで立っていた二人の影が自然に近づき、一つに重なる様を見て、僕は、

 『良かった…』

 と心底思った。

 普段、神社にお参りのついでに掃除や、僕に色々話を聞かせてくれる二人の関係も、勿論、僕は愛している。

 例えるなら、それは長年連れ添って、お互いの事を信頼しているからこそ出来る、軽口を含む掛け合いで、熟年夫婦のそれにも似た、安定した空気があったから。 

 ただ、天海と琉莉はまだ若い。天海も、琉莉より一回りも年上だ、と時折、年の差を嘆く事はあるが、彼女も齢(よわい)は精々三十の前半というところだろう。

 それならば、安定感だけでなく、この若い齢でしか味わえぬ、初々しい『恋人らしい気持ち』となれる時間もまだ、二人で分かち合ってほしかった。

 

 『今宵は、あの様子であれば、もう、天海と琉莉の二人は、僕がついていなくても大丈夫だ』

 そう思い、神社の方へ踵を返す。

 『これもまた…、神様でありながら僕が、救いを差し伸べられなかった民-、『彼女』への償いに、なっているだろうか』

 身を寄せ合って花火を見る二人を残し、神社へと帰る途中、あの春雨の夜の『彼女』の事を僕は思い出していた。

 季節を問わず、雨露が木の葉を濡らす景色は、あの夜の、『彼女』の涙雨のような雨を思い出させてしまう。

 花火の音も遠くなり、縁日の喧騒から遠ざかった、静かな境内に立ち、夏の青葉に衣替えした、夜桜の傍に立つ。

 雨と共に涙の花びらを降らしていた、この桜を。

 『二度と、貴女のような思いをする民を、生み出しはしないから…。約束する』

 桜の木の幹を撫でつつ、僕は、そう誓った。

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