宮と過ごす夏

 「ふう…、こんな風に、暑い中、外で体を動かすのは久しぶりね…」

 私は、軍手を外して、袋の中に詰め込んだ、草むしりした野草達の青々とした色を見つめ、そう呟いた。

 麦わら帽子の下から流れてきた一筋の汗を、ハンケチで拭き取る。

 今日は、夏場で雑草も増えてきた、宮の神社の草刈りと、掃除に来ていた。

 「もう、宮も天海に似て、巫女様なのに、結構ずぼらなんだから。この神社は、土地神様のいらっしゃる神聖なところなんだから、もっと綺麗にしないと」

 琉莉はそんな事を言いつつ、白衣(しらぎぬ)に緋袴の巫女装束姿の少女-、宮と一緒に、今は、狛犬の方の汚れを雑巾で拭いていた。

 

 境内の掃除がひと段落ついたところで、一休みの号令が琉莉からかかった。掃除とか、こういった事では私は、基本的に琉莉の手足になる。

 休憩所代わりに使っている、社務所の方に行くと宮がいた。

 「もう、琉莉は人使いが荒いんだから…」

 社務所の縁側に腰かけて、宮は少々不平のような事を言いつつも、大して疲れた様子も見せず、湯呑みの麦茶を口に運んでいる。

 暑い中動いていたのに、彼女は不思議な事に、汗の雫一つ、その肌の上に浮かべていなかった。

 「でも、天海と琉莉がここの神社にこうして来てくれて、時には掃除も手伝ってくれるようになってから、本当、綺麗になったよ…、ありがとう。神社もきっと喜んでる」

 宮はそう言うと、縁側に置いていたやかんから、お盆の上の湯呑みに麦茶を注いで、私に手渡してくれた。

 宮の左隣に腰を下ろして、帽子を取る。湯呑みを受け取って、口に運ぶ。

 特に、やかんを冷やしていた様子もないのに、この夏の熱した空気の中でも、その麦茶は冷え切っていて、体を動かしている間に溜まった火照りをすぐに冷ました。

 「琉莉は、見ての通りの世話焼きだからね。私も家では、彼女にはだらしないって叱られてばっかりよ。でも、琉莉と一緒に暮らし始めてから、色々教えてもらって、だいぶ私も琉莉の世話なしでも出来る事は増えたわ」

 

 少し遠くに目を遣ると、彼女は参道の傍の狛犬をまだ、丁寧に拭いていた。

 ようやく納得出来たのか、「うん。これでだいぶ綺麗になった」と言って、満足そうに頷く。

 琉莉が戻ってきたところで、宮が、湯呑みに麦茶を注いで、彼女にも手渡す。

 「琉莉。いつもありがとう。神社のお手入れや掃除、手伝ってもらって」

 琉莉は、私と、宮を挟むように、宮の右隣に座って、湯呑みを受け取る。

 「よく冷えてて美味しい…。体を動かした後で暑かったから、助かるわ。ありがとう、宮」

 と、一口飲むと、和んだ口調でそう言った。

 蝉の音が、神社を囲む鎮守の森からも、境内にそびえるご神木からも降り注いで、静かな境内に響いている。

 日は高く、空には夏らしい分厚い入道雲も立ち上り、日差しは強い。

 しかし、この場所は、神社を囲む木立の間を吹き抜けるうちに空気が冷えるのか、少し涼しい風がいつも吹いていて、街の中よりずっと過ごしやすい。

 「この神社に来ると、やっぱり、気持ちが落ち着く…。暑い中、外になんて出たくないとか思っていたけど、来てみたら、いい気分転換になったわ」

 私がそう言うと、琉莉が答える。

 「そうでしょう?いくら小説家だからって、家に籠って、お日様の光も全然浴びないなんて、絶対体に良くないんだから」


 この街に越してきた春。

 この神社に初めて来た時から、しばしば、この神社を訪ねては、私と琉莉は、お参りをして、それから、この神社の巫女様である宮と、よく話をするようになった。

 普段、出かけるのはあまり好きな方ではない、出不精の私も、この神社にだけは、琉莉と一緒によく足を運ぶようになっていた。

 この場所でだけは、私達の本当の関係を隠さなくてよいのだという解放感が、私にそうさせていたのかもしれない。

 宮なら、どんな話でも、否定せずに聞いてくれるという、不思議な信頼感があったから。

 

 女同士だけれど、恋人。

 その、私達の関係を初めて聞いた時も、宮は、何も気にする様子もなく、ただ、本当に純粋に、この土地で幸せになってほしいと、私達の為に願ってくれた。

 それは、かつて、私と琉莉の関係に、鬼のような形相で猛反対した、私と琉莉の、お互いの両親や親戚たちとは全く違っていた。

 

 私達の関係を打ち明けた時は、琉莉の方も、生家では、聞くに堪えない、辛辣な言葉をぶつけられたようだった。

 私もあの時の体験は、今でも悪夢に見て、うなされる事が少なくない。

 父は怒り、母は泣いて、私を罵った。

 あの時の二人の罵声がありありと、悪夢の中で蘇り、夜半、飛び起きて、呼吸が苦しくなる事が今もある。

 「大丈夫。大丈夫だから…、天海。もう、全ては終わった出来事なんだから」

 布団の上に上半身を起こして、胸を押さえて、荒い呼吸をする私の背中を、そう言って琉莉は摩ってくれた。

 

 遠く、この街にまで越してきたのも、お互いの家の目が完全に届かない場所まで、逃げたかったからだった。

 この街の住人にも、もし関係を聞かれても、本当の事を教えるつもりはなかった。

 あの時のような辛い経験はもうしたくなかったから。

 それなのに、何故か、この神社で出会った、宮にだけは「私達の秘密を、打ち明けても良い」と思えた。

 『本当に…、一体、この子は何者なのかしら?』

 いつの間にか、すっかり琉莉とも仲良しになって、宮は琉莉とよく話すようになった。

 私より一回り近く年下の琉莉の方が確かに、見た目からは女学生くらいの年代の宮とは話も合うのかもしれない。

 しかし、この神社に来る事が、日常の一部のようになっているというのに、未だ、宮の他には、他の巫女様も、神主様にさえも会った事がないのは不自然に思われた。 

 『まさか、巫女装束を着て、巫女様でもないのに、勝手にこの神社に入り浸っているおかしな女の子…?』

 そうも考えた。それなら、この神社にひと気がないのも説明はつく。

 しかし、宮の言動には、世間の人間とは明らかに違う、何処か厳かなもの‐、少なくとも、ただの少女が巫女様になりすまして、私達をからかっているだけとはどうしても思えないものがあった。

 『それならば、宮は一体、何者なの…?』

 

 私は、思考に没入するあまり、じっと宮の横顔を見つめていた。

 よく笑い、よく話す、その横顔は、こうやって一見しただけなら、ただの少女のそれと違わないようにも見える。

 私の視線に気付いたのか、宮がふと、こちらへ顔を向ける。

 「天海?どうかしたの?」

 私は、はっと我に返る。内心焦って、話題を急ごしらえで考えて、話を繋ぐ。

 「あ、いえ、随分楽しそうだから、琉莉とどんな話で盛り上がってるのかなって、気になって」

 そう言って、繕った私に、宮は、にこりと微笑むと、「天海も、これを見て」と、琉莉と一緒に見ていた一枚のチラシを、私の方にも見せてきた。

 「これは…、花火大会?」

 「そう。この街の、年に一度の夏の風物詩だよ。天海と琉莉の二人にも、見に行ってもらえたらいいなと思って、話していたところ。このあたりでは、割と有名な花火大会で、毎年、沢山の人が花火を見に来るんだ」

 琉莉は、目を輝かせて、「これ、一緒に行かない?天海」と言ってくる。

 私はチラシを受け取って、祭りの日付を見た。

 正直に言えば、原稿の進捗状況的には仕上げをしないといけない時期で、時間の余裕的には厳しい。

 花火や、祭りのような、人でごった返す場所も、本当はあまり得意ではない。

 だけれど、琉莉にこうして、目を輝かせて、お願いされたら、私もそれを無碍に断れる事は到底出来なかった。

 

 「ええ…。良いわね。行きましょう」

 私がそう答えると、琉莉は分かりやすく上機嫌になる。そして、にこにこしながら彼女は、宮にも声をかけた。

 「そうだ、もしよければ、折角こうやって仲良くなれた事だし、宮も私達と一緒に花火、見に行かない?」

 琉莉にとっては、宮は、顔馴染みの神社の巫女様というより、年の近い友達という感覚のようだ。


 しかし、琉莉の誘いに対して、宮は、一瞬、困ったような、言葉に詰まる反応を見せた。

 「あ…えっと、ごめん、琉莉。その…お誘いは大変嬉しいんだけど、その夜は、ちょっと大事な用事が入ってしまってて…。本当は僕も見に行きたいけど、ご一緒は出来ないんだ。それに…」

 宮は、私の方へと視線を送る。

 「この機会に、天海と琉莉が、もっと恋人らしい時間を持って、恋人らしい気持ちになれたらいいなっていう気持ちで、花火大会の話はしただけだよ。そこに、僕が二人と一緒にいたら水を差してしまうでしょう?だから、どうか天海と琉莉の二人だけで、思い切り楽しんできて」

 急に、「恋人らしい気持ちになれたらいい」とか、そんな事を言われたものだから、私はまた口に運んでいた麦茶で、思わずせき込んでしまった。

 「ちょ、ちょっと、宮…、そんな、急に小恥ずかしい事を言わないでよ、びっくりするでしょう…」

 私が、宮の発言に、露骨に動揺したのを見て、琉莉も可笑しそうに笑っている。

 「そうよ、宮。あんまり、急に踏み込んだ話をされると、未だに天海ったら、見ての通り、あんな赤くなって、狼狽えるくらいのうぶなんだから。一見、落ち着き払ってそうな顔に似合わずね」

 「…一言余計よ、琉莉」

 私は、軽く乱れた息を整えつつ、宮から受け取ったチラシを見る。

 夜空の黒を背に、大輪の、光の花がいくつも咲いている絵が描かれている。


『でも、確かに、宮の言う通りね。生家の方とあんな風に喧嘩別れしてしまって、この街まで逃げるように越してきて…、それで、私と言えば、次回作の原稿と締め切りに追われる毎日。琉莉とまた、初々しく、恋人らしい気持ちになれる機会なんて、最近は久しくなかったわ…』

 すっかり、琉莉と一つ屋根の下で、おはよう、からおやすみ、までの生活を共にする。そんな毎日が、当然のような感覚になってしまっていた。

 「琉莉が生活に困り、路頭に迷う事がないように」というのを建前にして、仕事の原稿執筆にかかりきりで、琉莉との『恋人らしい時間』を持つ事を疎かにしてしまったところもあっただろう。

 宮の言う通り、私と琉莉の生活には、意識してそうした時間や機会を作って、新しい風を吹き込ませる事が大切だ。

 琉莉とは、私が依存し、頼る相手として一緒にいるのではなく、対等な『恋人』という関係なのだから。その事を自分に忘れさせない為にも。


 「それじゃあ…、宮の心遣いに甘えて、花火の日は、琉莉と二人で行かせてもらう事にするわ」

 チラシを見つめながら、私はそう言った。

 「でも、こういうお出かけって、私達みたいな関係の場合、何と呼んだら良いのかしら…?もう既に、琉莉とは同じ家で毎日一緒に暮らしてるんだから、今更、逢引とか、逢瀬っていうのも違うわよね」

 「もう、天海は作家のくせに、趣のない事を言うんだから!こういうのは、今一緒に暮らしてるかどうかとかの話じゃなくって、雰囲気が大切なの。同じ家に今は住んでいても、花火を見に行くっていう特別な時間なんだから、逢瀬でいいでしょう?」

 琉莉は、そう天海に言って、手を引く。

 「さぁ、出不精の天海が気が変わらないうちに、ちょっと呉服店を探しに行かないとね」

 「え?呉服店に行って、何をするの、琉莉?」

 「もう、本当に天海は小説以外の話には鈍感なんだから。この話の流れなら、何をするかなんて決まっているでしょう?折角の祭りに行くんだから、良い浴衣がないか、見に行くのよ」

 「え?浴衣?いいわよ、私は普段通りで。私は、琉莉みたいに可愛らしい顔立ちではないし、華やかな色物の着物はあまり似合わないと思う…」

 「そんな事ないわよ。天海だって、十分綺麗な顔してるんだから、呉服屋さんの人なら、きっと似合う浴衣、見繕ってくれるわ」

 そうして、半ば無理やり、琉莉によって、私は社務所の縁側から立ち上がらされる。

 「そしたら、私達は今日はこのあたりでお暇するわ。チラシ、ありがとうね、宮」

 「うん。当日は、僕は一緒には行けないけど、絶対、いい思い出になるよ。二人とも楽しんできてね」

 遠ざかる縁側から、宮はこちらに、にこにこと手を振っていた。



 

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