不思議な少女との出会い
-まだ、頭に霧がかかったような意識の中、私の名を呼ぶ声が、何処かから響いてくる。
「-きて。起きて、天海」
その、小鳥の囀りのような、高いけれど決して耳に障る事のない、心地良い声は、微睡みから冷めやらぬ私の耳に入ってくる。
もう少し、私の名を呼ぶ、その尊き声をこのまま聞いていたいが、狸寝入りをこのまま続けていては、流石に彼女を怒らせてしまいそうだ。
「天海、また、昨日も徹夜したの?それに…、ああ、またこんな畳の上を、捨てた原稿だらけにして!没の原稿は、屑籠に捨ててって言ってるのに」
私は、畳に直置きの、固い木製の机から、顔を上げる。
腕を枕にまた、眠り込んでしまったらしい。いつまで万年筆を動かしていたか、記憶も定かではない。
自分の腕を枕に、眠り込んでいたせいで左腕が痺れている。
後ろに目を向けると、彼女-琉莉が、困った顔で、襖を開けて、私の部屋を見ている。
彼女の視線の先にあるものを辿って、またやってしまった、と後悔する。
上手く書けなかった落胆の気持ちのまま、くしゃくしゃに丸めて、放り捨ててしまった没の原稿たちが、畳の上に点在している。
それを見るだけで、昨晩のあの苦労が全て無駄だったように思えてきてしまい、気持ちが沈みそうになる。
夜中、幾度も寝落ちしそうになる中で、頭を懸命に動かして書いている時、思うように進まないと、苛立ちから、原稿用紙を掴み、丸めて放り出す。
そんな悪癖が私にはあった。
それが今朝の琉莉の小言の原因となっていたが、彼女が気にしているのは、それだけではなかった。
「天海。焦りは分かるけど、最近は特に働ぎすぎじゃない?この街に越してきてからも、ずっと、この部屋に籠って原稿にかかりきりじゃない。こんな生活、絶対体を壊すわよ。夜も机に突っ伏したまま寝ているし…」
琉莉の心配はよく分かる。
最近は、作品への焦りばかりが先走って、私は、中々休めない日々が続いていた。
机の上には書きかけの文が綴られた原稿用紙が、いつまでも埋まらない余白を晒していた。いつの間にか、執筆の際のおともの眼鏡も机の上に放り出されている。
机の棚には、出版社から献本された、私の作品達の背表紙が並んでいる。
それらの本は、私にとっては単に本を出したというだけに留まらないくらいの、大切なものだった。
-今、私の傍にいてくれる、大切な人。琉莉と私を巡り合わせてくれたのも、私が産みの苦しみを乗り越えて、作り上げたこの作品達だったから。
出会ったばかりの頃の彼女はまだ女学生だった。
『天海先生ですよね?私、先生の作品が大好きで…、こんなお若い女の人がこんな素敵な作品を…』と、出版社から出てきた私に、私の作品を胸に抱き、瞳を輝かせて、話しかけてきたのが、私達の始まりだった、
それで、近くの喫茶店で彼女の、私の作品に対する思いの丈を聞かされ、彼女が情熱的に私の作品を愛してくれているのだと知った。
初めて話した時から、その、私にはない、可愛らしい小鳥の鳴くような声。それに、真っ直ぐ、初対面の私にも物怖じせずに、私の作品への愛を語る話し方。
そうしたものに惹きこまれていったのだと思う。
一回りの年の差があっても、私が彼女を愛するようになるまでに、時間はそうかからなかった。
私の魂の一部である、作品達を愛してくれた彼女もまた、逢瀬を通じて次第にファンと先生から、恋人として、私を見てくれるようになった。
そして、彼女は、表向きには私の家の家事など、お世話をしてくれるお手伝い、という形で、生活を共にするようにまでなったのだ。
‐そして今、私は、本棚に続くその宝物達に続く、新たな作品を生み出す為に、大変な産みの苦しみの中にあった。
「何も、書けそうな案が浮かばない訳ではないの…。良い案を思いつきそうな時もあるのに、いつももやの向こうにそれはあって、よく見えなくて、いくら手探りしても掴めない…。そんなもどかしい感覚よ」
私はため息交じりにそう語る。
私の作品を好きになって、ついてきてくれる読者達を、失敗作で失望させたくないという恐れが、胸の中で渦巻いていた。
それに、次なる人気作を出せなければ、私と琉莉の生活にも関わってくるという、切実な問題もあった。
私が書けなくなる事は、私達二人が、食い扶持を無くすことにも直結していた。
最悪、私だけならば、このまま筆を折ってしまう羽目になっても良い。
『女色とは、なんて汚らわしい!文学中毒が過ぎて気が触れたか!しかも、相手は一回りも年下の娘だと…。お前は、我が家の恥だ』
琉莉を紹介する為に訪れた際、そんな言葉を浴びせられた生家に、泣きついて許しと助けを請うつもりなどなかったから。
私一人ならば、たとえ、筆を折った末に、路頭に迷い、野垂れ死にしても構わないと腹を括る事も出来ただろう。
しかし…、今の私には守るべきものがある。
私はよくても、恋人で、伴侶たる琉莉だけは、そのような目に遭わせる訳にはいかない。彼女を守れるかも、今、私の手に握られたまま、一文も生み出せずにいる、この筆にかかっている。
かつてはもっと自由に、大空を行く鳥のような軽快さと自由さで、原稿用紙の上を踊るように、私の筆は文を綴り、物語を編み出していた。
しかし、今は、作品で失敗して、琉莉までも路頭に迷わせる訳にはいかないという気負いが、筆を更に重くしていた‐。
‐そんな、暗い、底の見えない渦のような思考の中に、私が飲み込まれそうになっていた矢先だった。
ぱっと、部屋の中に差し込む日の光の量が増して、部屋の中に、柔らかな肌触りの、春風が急に吹き込んだ。
疲れた目の奥にまで、その溢れんばかりの日の光は差し込んでくる。
琉莉が、部屋の空気を入れ替える為に、窓を開け放ってくれていた。
少し冷たさも残る、春のそよ風が窓から入るのと引き換えに、私の思考と共に澱んでしまっていた部屋の、暗い空気が一斉に、外に去っていくようで、それは幾分か心地よかった。
琉莉が言った。
「ねえ、見て、天海。今日はとても良い天気よ。買い物から帰る途中、少し街を散策してみたのだけど、桜の綺麗な、小さな神社を見つけたの。ちょっと、そこへ今日は気分転換に、散歩にでも行かない?」
「神社…?」
「そう。鳥居から続いてる、石段の上を覗いてみたらね、境内の桜が満開だったの。静かで、落ち着いた空気の、良い神社よ」
そういえば、もう世間は桜の季節だったか。
執筆に囚われていたせいで、そんな季節の風物詩にも、興味を示す余裕さえなくなっていた。
「天海、もう何日と外へ出ていないでしょう?する事と言ったら、こうして机の前で原稿相手に苦悶してばかり…。お日様の光も浴びないと、体に悪いわ」
私が散らかしてしまった、丸まった原稿用紙を次々と屑籠に放り込み、片付けながら、琉莉はそう言った。
世話焼きの彼女がいてくれなかったら、私の部屋はきっと、今頃足の踏み場もなくなっていただろう。
「ごめん、琉莉。心配をかけて…。最近、次の作品の事で頭がいっぱいになってしまってて、すっかり気持ちに余裕がなくなってた。確かに、気晴らしにでも外も歩いてみるのも悪くないわね」
「折角、ここで新しい暮らしを始めようってなったのに、この街の事、何にも知らないのは勿体ないわ。さぁ、掃除と、朝ごはんが済んだら、出かけてみましょう」
彼女が言っていた、その「小さな神社」というのは、家から片道10数分あまりで付く程度の、気晴らしの散歩には確かに丁度いい距離にあった。
昔ながらの木造の平屋が立ち並ぶ、田舎町の中、急に、街の中に緑に包まれた高台のような場所が現れる。そして、その高台の緑の中に、煤けた色の石の鳥居が一つ、ぽつりと立っていた。
「あそこが、琉莉の言っていた神社?」
私が尋ねると、琉莉は頷く。
見たところ、入り口の、その古びた鳥居の様子だけでも、かなり昔からある神社らしい事。
そして、一方で、その煤けたような、手入れを感じさせない色合いから、あまり参拝客が沢山来る所、という訳ではない事は推測出来た。
何処の街の片隅にも、探せばありそうな、小さな神社だ。
二人並んで歩いていき、緑の中、佇む鳥居の向こうを覗き込んだ。周囲から伸びる植物に侵食されかけた、石段がそこにはあり、高台の上、境内らしい場所に伸びていた。周囲の石灯籠も、緑の苔が目立ち、時代を感じさせる。
滅多に手入れをしに来る人もいないであろう事が、容易に伺えた。
縄飾りのある、境内の入り口らしい、少し大きな鳥居が佇み、その向こうに、確かに、薄桃色の花の雲をまとった、桜の木が見えた。
人の気配がない、静かで、厳かな境内に花びらが降っている様に、私は何故か、惹きこまれるものがあった。
「確かにあの場所なら、二人だけで、存分に桜の花を愛でる事が出来そうね」
「でしょう?天海、前は、季節の景色を見に行くのが好きだったのに、最近はすっかり執筆にかかりきりで余裕をなくしてるように見えたから…。少しでも気晴らしになればいいなって」
鳥居を潜る前に、二人で深く一礼をする。そして、石段の上を一段ずつ昇っていく。
「草も結構多いから、石段を踏み外さないように気をつけて」
琉莉にそう言われ、私も足元に注意して、一段ずつ踏みしめていく。
そうしていると不思議な感覚に包まれていく。
それは、心にこびりついた、世俗の汚れが、次第に洗い落とされるような、浄化されていくうな感覚だった。
「何だか、不思議な感覚ね…。心が、すっと穏やかになっていくような。天海もそう感じない?」
琉莉も、私と同じ事を感じていたらしい。
鳥居、という神聖な存在を潜り抜けた事や、ここが、街の中である事を忘れさせるような、左右に生い茂る植物の深い緑と静けさがそう感じさせるのだろう。
石段を昇り切り、拝殿らしい建物が構える、境内の入り口の鳥居の前に立つと、更にその感覚は強まった。
私に話しかける、琉莉の声が、木立の葉や、春の草花の中を歩いていると、まるで森の中で、梢にとまってさえずる小鳥の声のように聞こえる。
生まれつき、幼い頃から声も低めで、「女のくせに愛嬌がない声」と言われていた私には、彼女のよく通り、単に高いだけでなく、品も感じさせるその声は羨ましいもので、気に入っていた。
「ねえ、見て、天海。ここの桜、すごく綺麗。やっぱり、私の言う通り、外に、気分転換にお散歩に出てみてよかったでしょう?」
拝殿前に向かう途中、私と琉莉は境内の桜の木の前に立って、しばらく、その花を見つめていた。
その様に、私も心が和み、そっと笑みが浮かんで、頷く。
机と原稿とばかり向き合う日々が続いたから、こんなに鮮やかな色彩に視界を埋め尽くされるのは久しぶりだ。
日の光を浴びて、花を見つめる事が、こんなにも、産みの苦しみに硬直した心を、解きほぐしてくれるとは。
決して、大きくはないが、静まりかえった境内で、静かに花びらの雪を落とし続けるその姿に、私も琉莉もしばらくの間、見入っていた。
「でも、鳥居を見た時も思ったけど、ここ、だいぶ長く放置されてるみたいね。石灯籠も、狛犬も苔が目立つし、落ち葉だらけだし…。神主様とか、巫女様はいないのかしら?」
私の指摘に琉莉も頷く。この境内に、二人以外、人の気配は全く感じられない。
小さな拝殿の傍には、社務所らしい小屋も立ってはいたが、そちらも屋根の一部は陥没して穴が開くという荒れ具合で、誰かいるようには見えない。
この様子では、参拝者なども来ているのだろうか?
ぱっと見ただけなら廃屋とまではいかずとも、長く、人間に打ち捨てられた場所にさえ見えなくもない。
「でも、他に人がいないならいないでも、いいんじゃないかしら?それならこの神社は、私達二人だけの、秘密の祈願の場所という事で。人は誰もいなくても、きっと、神様だけはここにいてくださる筈だから」
琉莉の、祈願という言葉に私は首を傾げる。
「祈願…?」
「この街でこそ、幸せに暮らせますようにっていうお祈り。この街に来る前は私達には、色々あったから…。だから、ここでお参りして、気持ちを新たに、切り替えられないかなって思ってね」
新居から、この神社に来るまで、ずっと和やかだった、琉莉の表情には影が差した。
会話の途中、何気なく挟まれた、『色々あった』という言葉。
たったそれだけの言葉に省略してしまえば、それは些細な、大した事のない響きに聞こえる。
だが、そこには、幾つもの、思い返すのも辛くなる記憶があった。
生家で、信じられないものを見るような目で、私と琉莉を見て、怒りに任せて罵声を浴びせた両親や、家人達。
それは、例えば私達の関係が露呈した後の、近所の人々からの、奇妙なものを見るような目に晒された、前の街での同居生活だとか。
或いは、幸せそうな花嫁行列-参進の儀で、盛大に人々に祝われながら、神社へと歩いていく美しい新郎新婦を見てしまった時に押し寄せた、『あのようには、私達は決してなれない』という、羨望と嫉妬が入り混じった醜い感情だとか。
私の言葉を聞くと、琉莉は一瞬言葉に詰まり、きゅっと唇を強く締め、そのきめ細やかな、眉間の肌にも、微かにしわが寄った。
「やめましょう…、その話は。全部はもう、過ぎ去った昔の話。折角の新天地の、この街に来てまで、琉莉が引きずる事はない」
そう言い聞かせ、そっと腕を回して、琉莉の細い肩を抱く。
そう。この街に来るまでに経験した事は全て、終わった話。もう琉莉が苦しむ事はない。
今まで浴びせられた言葉など、私達に吹き付ける、この春風に乗って、遥か彼方へと飛ばされてしまえばいい。二度と戻って来ないように。
「折角、散歩に連れ出してくれたのに、昔の事で悲しい気分になるのは勿体ないわ…」
そう言って、安心させるように、彼女の背中を摩った後、私は、少々重くなった、二人の間の空気を入れ替えるようにして、言った。
「こうして、日の光の下を歩いていると、気持ちが安らいでいく気がするわ。こっちの街に越してきてからも、執筆でこもりっきりになってしまってたから。日差しが疲れた目に、ちょっぴり染みて痛いくらいよ。ここに連れ出してくれて、今日はありがとう」
そう、自分の、あまり好きではない低い声を、いつもよりちょっぴり元気よく張り上げて、お礼を言ってみる。
実際、私の中の行き詰まりが何か解決した訳ではないのだが、柔らかな日差しと、花の色を見ただけでも、私の中の澱みが洗い流されていくようだった。
私が礼を述べると、琉莉は、表情を綻ばせる。
「天海は、私が誘い出さなかったら、際限なく部屋に籠っていそうなんだから。こんな心地の良い天気の春の日に、一歩も外に出ないなんて勿体ない」
思えば、一つ屋根の下、朝から晩まで、『恋人』として暮らしを共にしているというのに、こうして、落ち着いて、二人で出歩く時間を持つのは久しぶりだ。
家にいる時の私ときたら、締め切りに追われて四苦八苦してばかりで…、出版社の担当さんが原稿を取りに来る目前ともなれば、家の事はもう、琉莉に頼り切っている有様だった。
『こんな暮らし、良くないわよね…。そんな事、分かってはいるのに。これではまるで、愛情も薄れて、妻をすっかり家政婦と勘違いして扱う亭主関白と変わらない…』
ふっと、一瞬苦笑いを零す。婚姻もしていない‐、否、出来ない間柄でありながら、私と彼女は既に、世間によくある、幾年も一緒にいた熟年夫婦のように、相手に頼れる事が、当たり前のような関係になってしまっている。
頼るのは、もっぱら私が琉莉に対してばかりだが。
古びてはいても、厳かな空気は失わないこの場所に相応しくない、そんな表情はすぐに引っ込める。
拝殿の方に行き、目を閉じ、琉莉と二人並んで、手を合わせた。
琉莉の祈りの声が、隣から微かに聞こえた。
「土地神様。どうか、私と天海の、この街での新たな門出を、お見守りください。この街では、二人で末永く幸せに暮らせますように」
私は強く願った。
「琉莉と幸せにこの街では暮らせる事を願います…。今度こそは。何卒、お守りください」
もう、この街では琉莉が悲しむような事はあってほしくない。
私一人なら、どんな誹りも甘んじて受け入れよう。しかし、琉莉を一緒にその苦痛に晒す事は耐えられない。
決して、日頃から信心深いとは言えないと自負する私も、今ばかりは、初めて来た土地の、名も知らない産土神様に懸命に祈った。
そうして、祈願が終わり鳥居に向かって歩き出す。拝殿を後にしようとした、その時。
一際強い風が、急に、境内の中を吹き抜ける。
私と琉莉はとっさに身を寄せた。思わず目を閉じる。
拝殿の中央に下がっていた、本坪鈴(ほんつぼすず)も疾風に大きく揺れて、乾いた音が幾度も鳴り響く。
風が収まり、瞼を開けた時、私は、自分の目を疑った。
つい先程まで境内に、誰も人の気配はなかった筈だ。
それなのに、今、鳥居と拝殿を繋ぐ、参道の上に『彼女』は立っていた。
「いらっしゃい、お二人様。ここの神社にお参りになるのは初めてかな?僕はこの神社の、巫女の者です」
彼女は、少女の声にも、少年の声にも、どちらにも聞こえるような、不思議な声でそう、私達に告げた。
まるで、先程吹き抜けた、あの一閃の突風に乗ってきたように、気付けば、私達の目の前に年の頃は、10代半ば程度と思しき少女が立っていたのだ。
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