二輪の百合は、宮に咲く

わだつみ

忘れられた神社。忘れられた産土神の少女。

 古びた拝殿の中に、一枚、頬を撫でるような風に乗り、花びらが舞い込んできた。

 それを指先でそっと摘まんで、僕は呟いた。 

「ああ、神主様…。今年も、貴方が植えてくれた桜がまた、綺麗に咲いたよ。『貴女様は、産土神(うぶすながみ)様と呼ぶにはいさかか、心もとない女神様でした。それでも、純粋に民を愛する御心を、私は、仕える身として、大変お慕いしておりました。あの桜を見る時は、私の事を思い出してくださいませ』…。最期には、そう言ってくれたね」


 拝殿の、この神社の敷地を見渡せる場所に腰かけて、桜の木々に目を向けた。

 歴代の神主様達が、参拝客の目を楽しませる為に、植えてくれた、桜の木がまた、この神社に彩を添える季節がやってきた。


 僕は、その中でも、他のものより、まだ少し背丈の低い桜の木を見つめていた。

 それは最後の神主様が遺したものだ。

 今、僕は、最後の神主様が、亡くなる前に遺してくれた言葉に思いを馳せていた。

 少し冷たさも残る春風の中、ひとひら、またひとひらと桜の花びら達は降りしきり、時に、霞みかかった青い空へと、舞い上げられていく。

 境内を見回す。

 この桜を見ている者は、僕の他にはいない。

 かつての春の日々を思い浮かべる。

 あの頃はまだ、この神社にも、この土地の民が訪れてくれていた。

 拝殿の前に立ち、掌を合わせる際に、境内の静謐な空気を振るわせる、軽快な拍手の音。

 幸せと平安を願って、祈願を捧げる、老若男女を問わない民達の、熱心で、厳かさを感じる表情。

 そして、彼ら彼女らは、決まって、境内の桜を見ては、口々に

 「今年もまた、春を迎えられてよかった。これも、産土神の女神様のおかげだ」

 と、そう言っては、花達を愛でるのだった。

 そうした、民の表情や言葉に触れられる、祈願の時間を、僕は心から愛していた。

 

 しかし、民との触れ合いも幸せな時ばかりではなかった。

 辛い祈りも、何度となく聞いた。

 叶わぬ夢や願いを忘れさせてほしいという祈りも、幾度も聞いた。

 

 民が暮らす、愛するこの土地には、戦争と言う悲しみもあった。

 人間の世界で、大きな戦争があった時には、民たちが悲しみの黒い喪服に身を包んで、遺骨を持って街を歩く姿を幾度も見た。

 僕の元に来てくれていた民たちが、異国での戦いに命を落とした事は耐えがたい痛みを感じさせた。

 戦争の時代を経て、20年余り。

 この土地の景色もいくらか変わった。

 神社の前の道を歩く、人々の表情にも活気が戻り、暮らしぶりはだいぶ豊かになってきたようだった。

 それは、民の安息と幸福を願う僕には、嬉しい事だった。

 ただ、一抹の寂しさも伴うようになった。

 時代が過ぎ去ると共に、次第に、この神社に続く階段の、鳥居の前で足を止める、民の姿も少なくなっていった。

 春の訪れの時期には、この神社の鳥居を潜って、祈願を捧げた帰りに、桜を愛でる人々の姿が、境内には沢山あった。そんな光景も途絶えてしまって久しい。

 「もうこの神社に、お手入れにきてくれる民たちも、いなくなってしまったな…。この神社を愛していた、神主様も、悲しませてしまう」

 苔むしつつある狛犬や石灯籠。

 野草が、隙間からあちこちはみ出している、鳥居から拝殿前まで続く、石畳の道。

 その寂しさを感じさせる姿を見て、僕は、神主様への申し訳なさと共に、溜息を零した。

 

 この神社は時代に忘れられた神社。

 そして、僕もまた、時代に忘れ去られた女神様だ。


 「こんな、桜が咲く時節には、思い出すな…。桜の降り落ちる雨の夜、僕の元に、願いを捧げに来た、あの女の人の事を…」

 彼女との出会い、そして別れは、僕の中に今も、消えない傷として刻み込まれている。

 『女神様…。無理を承知でお願いします。もしも叶うならば、女でありながら、女を愛してしまった私めを、男の姿にしてくださいませ。さすれば、私は、愛しいあの方と、大手を振って、隣を歩く事が出来るのです。どうか、何卒、何卒…』

 蛇腹傘を投げ出して、参道の上、膝を屈していた彼女の歔欷(きょき)の声と、春雨の静かに、参道の石を打つ音だけが聞こえていた、あの夜の境内の光景を僕は忘れる事が出来ない。

 それは今も尚忘れられない、辛い祈りだった。

 「あの民に、僕は何の力にもなってあげられなかった…。彼女の苦しみを救えなかった。民を守る産土神様なのに」


 一人、拝殿で過ごしていると、そんな、神様として無力だった自分を思い出す。


 今の僕は、神様として無力なばかりではない。

 もう、この神社を頼って訪れる者も殆ど途絶えた。

 土地の民は僕の事を忘れつつある。

 民の心の中から、完全に忘れられてしまったら…、きっと僕の、この土地を守る、女神様としての役目も終わる。

 信仰してくれる民も、記憶してくれている民すらもいなくなった土地神様は、もう、存在していないのと同義に思えてしまう。

 

 いけない。また、卑屈な考えが頭をよぎる。

 「あの、最後の桜を植えてくれた、最後の神主様と別れて…もう何年になったかな。よく、『貴女には産土神様の自覚が足りませぬ。女神たる威厳を持ちなさい』って叱ってくれて、まるで貴方と僕は、父親と娘みたいだった。きっと、こんな、女神様に似つかわしくない卑屈な姿を見られたら、貴方にまた叱られてしまうね」


 しかし、この神社が忘れ去られていく事を、どうする事も出来ない現実は、否応なしに、僕の心を卑屈にさせてしまっていた。

 もう、時代の波に飲まれ、このまま、忘れられた神社の、忘れられた産土神様として、消えていくしかないのか…。

 

 そんな気持ちに飲まれそうになっていた時だった。

 

 僕の耳は確かに、石段を踏みしめて、昇ってくる誰かの足音を聞いた。その足音は、確かに、この境内の玄関口とも言える鳥居に向かって歩いてくる。

 驚きに僕は、耳に神経を集中させる。

 それはよく聞けば、二人分の足音だった。

 その二人は、何か話している声がする。

 

 静寂が支配していた境内に聞こえてきた、その二人の話す声は、僕には、春の陽気に浮き立った、小鳥のよく通るさえずりの声のように感じられた。

 僕は、自分の姿は神主様以外の人間には見えない、という事も忘れ、思わず、石灯籠のうちの一つの、後ろに隠れた。そして、石段の頂上、境内の玄関口にある、鳥居の方を見つめた。

 そこで、その二人は、深く、首を垂れ、一礼した。

 

 そこにいたのは、うら若き、美しい二人の女の人だった。

 そのうちの一人が、境内の片隅に、薄桃色の花の雲を浮かべていた、桜の木を指さして、顔を綻ばせる。


 そして、先程聞いた、小鳥のさえずりを思わせる、高く、よく通る声で言った。

 「ねえ、見て、天海(あまみ)。ここの桜、すごく綺麗。やっぱり、私の言う通り、外に、気分転換にお散歩に出てみてよかったでしょう?」


 天海と呼ばれた、もう片方の女の人が、その声にそっと、桜の方へ振り向く。そして、ふっと微笑み、頷いた。

 彼女はやや落ち着いた色合いの紺の羽織を、着物の上に重ね着している。

 知性的な雰囲気を感じさせる、切れ長の目をした美人だが、その表情は、少し、疲れているようにも見える。目の下には、薄っすらとくまが出来ている。


 「こうして、日の光の下を歩いていると、気持ちが安らいでいくわ。こっちの街に越してきてからも、執筆でこもりっきりになってしまってたから。日差しが目に、ちょっぴり染みて痛いくらいよ。ここに連れ出してくれて、今日はありがとう」

 天海という女の人は、その雰囲気によく合った、女性の声としては少し低めの声で返事をする。言葉通り、久々に太陽の下に出たかのように、彼女は、春霞の空から注ぐ日の光に、目を細める。


 「もう、天海は私が誘い出さなかったら、際限なく部屋に籠っていそうなんだから。こんな心地よい天気の春の日に、一歩も外に出ないなんて勿体ない」

 小鳥のさえずりのような声で話す彼女は、そう言って、天海という女の人の、手を引き、境内に入っていく。

 その際も、ちゃんと、神様の通り道とされる石畳の参道の中央を避け、道の片側に寄って二人は歩いてくれていた。しっかり、お参りの作法も分かってくれているようだ。


 『この街では、見た事ない顔だ…。話し方も、この土地の訛りじゃない。越してきたばかりと言っていたし、他所の土地から来た二人かな?』

 訪ねて来る民がめっきり減って、殆ど途絶えた今になっても、僕は、この土地に昔から住んでいる民の顔は殆ど覚えている。

 だけど、今日現れたこの二人には、見覚えがない。

 二人は大変に仲の良いようで、仲睦まじく、桜の花を眺めつつ、何かを話している。

 

 その中で、天海という女の人から、度々、琉莉(るり)という声が聞き取れた。 

 そのやり取りから、きっと、琉莉というのは、あの、小鳥のさえずりのような声で話す、相手の彼女の事に違いないと僕は悟った。

 『本当、仲睦まじいお二人だ…。どんな関係なんだろう?お友達…としても、凄く、距離感が近い気がするな…』


 二人が、どういう関係なのかは、僕にも大変興味深いものだった。

 やがて、二人は、拝殿の方へと歩いていき、二度、大きくまた、お辞儀をした。そして、二度、手を叩く音が境内に響く。

 そして、二人とも、目を閉じ、手を合わせたまま、大変熱心に何か、祈願をしていた。


 あの二人が、この土地に、どういった経緯で来たのか、僕にはまだ分からない。

 ただ、土地の民にさえも、存在を忘れられようとしていたこの神社を、この街に新しく来たらしい二人が、祈願を捧げる場所に選んでくれた事が、僕は大変に嬉しかった。

 「ああ、いつぶりだろう…。こんな風に人間に、祈願をしてもらえるのは」

 

 祈願が終わった後も、天海と琉莉の二人は、この、長く手入れも途絶えた、広くもない神社の中を散策して、春の空気に浸っているようだった。

 「この神社は、いい場所だね…。言葉では形容しがたいけれど、何だか、気持ちが安らぐ」

 紺の羽織を着た天海は、少し低い声で、そう呟いた。

 「私も。こんな、安らげる場所は初めてよ。この街に辿り着くまでは、何度も…、息苦しくなるような事も、あったからかな」

 琉莉もそう答える。そして、境内の苔むす石灯籠や狛犬を見て、言った。

 「どんな神様が、ここにはいるのかな…。見たところ、随分と神社も荒れてるみたいで、手入れもしてもらえていないみたいね。地元の人も、あまりお参りに来ないのかしら」


 信仰し、記憶していてくれる人が誰もいなくなれば、産土神様の僕も、存在は消滅するに等しい。

 それさえも諦めて、受容するしかないと思っていた。

 

 だけど、参拝客も途絶えていたこの神社に、二人が来てくれて、僕の事を神様として、頼みにしてくれたから。

 僕は、自分を信じて、頼ってくれた二人の為に何かを成したいと思った。

 いつか、信仰が本当に途絶えて、僕も、産土神様としての役割を終え、消えてしまう前に。

 最後の神主様の顔が、頭に思い浮かぶ。

 『神主様。きっとまた、貴方に『女神様たる自覚が足りない』と怒られてしまうような事をすると思うけれど、どうか、許してほしい。僕は、僕を信じて、頼みにしてくれたあの二人に応えたいから。僕のやり方で…』

 僕はそっと、目を閉じ…、その姿を変えた。

 

 「いらっしゃい、お二人様。ここの神社にお参りになるのは初めてかな?僕はこの神社の、巫女の者です」

 

 巫女の姿に身をやつした僕が、そう言って、二人に声をかけた時。

 全く、気配に気づいていなかったらしい、天海と琉莉の二人は、とても驚いていた。

 この春の日の出会いが、僕と、二人の始まりだった。

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