第36話 エイダside ずっとそばにいる

 こつり、と。

 バルコニーの欄干になにかが当たる音がする。


 ベッドで横になっていたエイダは跳ね起き、怒りに任せてガラス扉に駆け寄った。


 むしり取るほどの勢いでカーテンを開く。

 足音に気づいたのか、ばさり、と。大きな羽音がした。


 逃すものか、と突き飛ばすようにしてガラス扉を開いた。

 夜気が吹き込み、冷えた風がエイダは一瞬顔をそむける。


 その隙に大きな羽音を残して、侵入者は姿を消した。


 エイダはバルコニーの欄干を握り、階下や庭、上空を見回すが、もう姿はない。夜の中にまぎれてしまったようだ。


 血の昇った頭でエイダは痕跡を探そうと、バルコニー内に視線を走らせる。

 そして、違和感に気づいた。


(……羽根が、ない……?)


 いつもなら、白い羽根が一枚や二枚、落ちているはずだ。鳥の羽根とは違い、月光を受けて螺鈿らでんのように輝く羽根。見落とすはずがない。


 それなのに。

 バルコニー内には側にある楡の葉しか落ちていなかった。


(だけど確かに……)


 気配は、あの白い翼をもつ男たちのものだった。間違えようがない。


 だとすると。

 エイダはひとつの結論に至る。


 彼ではないのか、と。


 次にバルコニーにその人物が立ち寄ったら確かめてみよう、と。

 じっと息をひそめてカーテンを見つめていたエイダの耳に、それは届いた。


 こつり、と。

 バルコニーの欄干になにかが当たる音がした。


 エイダは微動だにせず、じっと耳をそばだてる。

 それは向こうも同じようだ。すぐにどこかに立ち去るつもりはないらしい。


 カーテンの内と外とで互いに様子を窺う。

 エイダは小さく息を吸い込むと、そっと立ち上がった。


 足音を忍ばせ、ゆっくりとカーテンに近づく。


 気配に気づいたのか。

 かた、と。

 欄干の上で何かが鳴った。


 エイダは足を止め、カーテン越しに声をかける。


「リチャードなの?」


 語尾が震えた。

 

 それはリチャードではないのか。 


 バルコニーからの返事はない。


 だが、立ち去るような素振りもない。

 エイダは意を決してカーテンを開き、ガラス扉を押し開けた。


 ふわりと吹き込む夜気には、懐かしい柑橘系の香りがする。

 エイダはまっすぐ前を向く。


 一瞬、闇が凝っているのかと思った。

 欄干にもたれかかるように、長衣ローブを目深にかぶった男がひとり、立っている。

 月光が照らす中、彼だけまるで影絵のように見える。


「リチャード……?」


 フードのせいで顔が見えない。

 ただ、鼓動が早くなる。この香り、たたずまい。

 忘れるはずはない。


「リチャードなんでしょう?」


 声が涙で湿気た。

 影のような長衣の男に一歩踏み出す。

 怯えたように男は欄干にぴたりと背中を押しあてた。


「どうしたの?」


 エイダは足を止め、戸惑う。

 そして気づいた。リチャードの背中に翼があるとき、彼は目が見えず、耳も聞こえないのではなかったか。


「ひょっとして、わたくしのことが見えない? 聞こえなかったりする?」


 恐る恐る尋ねると、長衣の男はゆるゆると首を横に振った。衣の黒が闇にとろけ、輪郭が曖昧になる。


 それが、エイダを不安にさせた。

 このまま消えてなくなるのではないか。

 エイダは手を伸ばし、長衣を掴む。


「その……っ。以前の姿じゃないんだ」


 がっしりと上から手を掴まれる。肌は不自然なほどに白い。


 その彼の指先には、鋭く尖る爪が生えているが、細心の注意を払ってエイダを傷つけぬようにしているのはわかった。


「おれは……知らないこととはいえ、前世で罪を犯した。それを償い、いままた役目を与えられてここにいる」


「役目……?」


 声はリチャードのままだ。エイダの腕をつかむ彼の手からはぬくもりが伝わってくる。


「エイダを守らなくちゃいけない」

「わたくし……?」


 長衣を目深にかぶったまま、大きく頷く。


「本来天使と人間の間に子はできないはずだった。だが、どういうわけかエイダは生まれた」

「それが……どうしましたの?」


「つまり、君も天使と交わった場合、子ができる可能性があるということだ」


 エイダは反射的に長衣を握り込む。


「……では、あの翼を持っている男たちがわたくしの側に来るのは……」

「大丈夫だ。近づかせない」


 きっぱりとリチャードは言い切る。いつの間にか彼は、エイダの手をつかむのではなく、握っていた。


「シエルから……そしてサイモンから与えられた新たな使命は、エイダの警護だ」

「わたくしの?」


 エイダは瞬きをする。知らずに溜まっていた涙がひとつぶ、頬を伝った。


「エイダと天使たちの間に子ができないように。これ以上、エイダの……エイダのお母さんの体質を持った女性を増やさないように。それがおれの新たな役割だ」

「じゃあ、ずっとそばにいてくれるの? リチャードがわたくしのそばに」


 エイダは一歩リチャードに近づく。

 途端に、リチャードは怯えたように手を放し、身をよじらせた。


「……リチャード?」

「天使が君に近づこうとするのは夜間に限られている。だから夜の間はこうやって側にいる。だけど……。その」


「なに?」

「その……おれの姿は以前のものとは違うんだ」


 リチャードはさらに一歩、エイダから離れた。ふたりの間に夜風が吹き込む。エイダはその距離がもどかしいと思うのに、リチャードは欄干に背をぴたりと寄せて動こうとはしない。


「リチャード」

「サイモンのように……ほかの天使のように金色の髪でアイスブルーの瞳をもつ姿だと、エイダに惹かれてしまうかもしれないからって。シエルが、このままの姿の方がいいだろうって。だけど」


 リチャードの言葉はそこで途絶えた。

 エイダが腕を伸ばし、リチャードの姿を覆う長衣の端を引っ張ったからだ。


 なめらかな動きで長衣はほどけ、月光のもと、リチャードが姿を現す。ゆらりと、彼の背中で羽根のない翼が震えた。


「その……、エイダ……。もしこの姿が怖いのならもう君の前には現れない」


 乳白色の瞳には、雪のように白い睫が縁どられていた。


 風に揺れるのは同じく真白な髪。肌もだ。口端からのぞくのは鋭利な二本の牙。ためらうようにふるえる指には、先端の尖った爪が伸びていた。


 ばさり、と。

 彼の背中で皮膜の翼が左右に広がり、月光を遮った。


 飛び立ってしまう。

 握りしめていた長衣を捨て、エイダは彼に抱き着いた。


「どうしてわたくしがリチャードを怖がるのよ」


 リチャードの白いシャツに顔を押し付けると、懐かしいぬくもりとともに、しっかりとした鼓動が感じられて涙が止まらない。


 生きている。

 リチャードが生きてまた、自分の前に来てくれた。


「ありがとう、リチャード。わたくしのところにまた来てくれて……。あのね、わたくしあなたに伝えたいことがあるの」


 ぱっと顔を上げた。そのときも、彼がどこかに飛んで行ってしまわないように、しっかりとシャツを両手で握り込む。戸惑ったようにリチャードがまばたきをした。


「なに?」

「わたくし、ずっと前から、あなたのことを愛していたのよ」


 エイダはそう告げたあと、はじけるように笑った。


「ほら、全然気づいていないんだもの」


 リチャードは、まるで鳩が豆鉄砲を食ったような表情をしている。


「ねぇ、リチャード」


 呼びかけたが、相変わらずぽかんとした表情で自分を見下ろしている。エイダはくつくつと笑い、握りしめたシャツを軽く揺する。ようやくリチャードは我に返り、がくがくと首を縦に振った。


「さっきリチャードは言ったでしょう?」

「なに? どれのこと」


「他の天使と同じ姿だと問題だから、この姿で来たんだ、って」


 リチャードが神妙に頷く。エイダは小首を傾げて彼を見上げた。


「じゃあ、わたくしを見てもなんとも思いませんの? 惹かれない?」


 上目遣いにそう尋ねると。

 リチャードの顔が色水を吸い上げた様に赤くなる。


「惹かれる。ずっと惹かれていた」

 その顔を隠そうとするように、リチャードはエイダを抱きしめた。


「もうどこにも行かない? ずっとそばにいてくれる?」


 エイダはリチャードの胸に顔を埋めた。ゆっくりと呼吸をすると彼の香りに包まれた。それがなんともいえない幸せな気持ちにさせてくれる。


「行かない。ずっと君を守るから」


 ばさり、と。

 羽音がした。

 そっと顔を上げる。


 リチャードの両翼が広がり、繭のようにエイダを包む。月光が皮膜を透し、淡く霞のようた。


「ずっとずっと、側にいる」

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