第34話 エイダside リチャードの想いに、なにもこたえていない

♧♧♧♧


 なんとか濠を超え、地面に着地したところでリチャードはエイダを放り出した。

 したたかに腰を打ち付け、呻く。


 だがすぐに跳ね起きたのは、リチャードの唸り声が聞こえたからだ。


 ごおおおおん、と夜闇を裂いて重低音が響く。咄嗟にエイダは両手で頭を覆い、うずくまった。


 そっと目を開いて様子を窺う。

 濠の向こうのミルトン伯爵邸は二階部分が崩落し、火炎を噴き上げて燃えていた。

 その火が夜を焦がし、真昼のように周囲を照らす。


 あれでは……ロランは生きていまい。


 エイダは涙をぬぐい、周囲を見回す。


 いた。

 リチャードが仰向けに寝転がり、顎を突き出すようにしてせわしない呼吸を繰り返していた。


 苦しいのだろう。

 喉を掻きむしっている。


 脳裏によみがえったのは、リチャードが大やけどを負った時のことだ。また熱風で喉を焼いたのだろうか。


「リチャード!」


 エイダは駆け寄ろうとしてスカートの裾を踏み、転んだ。痛いなどと言ってはいられない。すぐに立ち上がり、リチャードに駆け寄るが。


 ばねじかけのようにリチャードは上半身を起こした。

 そして両手を周囲に彷徨わせる。それだけではなく、膝立ちになった。茫洋とした瞳を周囲に向け、必死になにかを探っている。


「リチャード?」

 そろそろと近づき、そっと呼びかける。


 だが、リチャードにはまるで聞こえていない。 


『エイダ。聞こえない。いまは見えないし、聞こえないんだ』


 たどたどしい発音でさっきリチャード自身がエイダに語っていたがそれは本当らしい。


「リチャード……」

 ぎゅ、と両こぶしを握り締め、彼を見る。


 金色のはずだったリチャードの髪は、白髪だった。

 藍色だった瞳もそうだ。まるでミルクの膜を瞳にはりつけたような乳白色。


 膝立ちで歩くからだろう。

 しぼんだように力を失った翼を引きずっている。


 その翼も、さっきみた悪魔のような黒ではなく、昔、エイダが頻繁にみたような白い翼でもない。羽毛を失い、それを庇うように覆った痛々しい皮膜。


 服もスラックスも、血と泥で汚れ、社交界で誰もが声をかけられるのを熱望した貴公子の姿はそこにない。


「エイダ」

 リチャードに不意に名を呼ばれ、エイダは身体を震わせた。


「エイダ……っ」


 リチャードは自分の名前を呼びながら、必死に両手を伸ばしている。見えない目を見開き、聞こえない耳を澄まして自分の気配を探している。


 悪魔も、亡霊も、炎も、崩壊する屋敷もものともせず、ただただ、自分を守ってここまで連れてきてくれた。


 戦ってくれた。


「リチャード!」


 エイダは彼の背中に抱きついた。

 涙が止まらない。ぺたりと垂れた翼の根元に顔を押し付ける。


 リチャードは抱き着いているのがエイダだとわかっていないのかもしれない。弱弱しい仕草で振り払おうとする。


「リチャード。わたくしよ、エイダよ。ここにいるの」


 ぎゅっと。

 回した腕に力を込めると、ようやく動きを止める。

 そして、そっと伸ばした手で、探るようにエイダの身体に触れた。


「……エイダ?」


 尋ねられ、背中に顔を押し付けたまま首を縦に振る。


 直後。

 リチャードがくずおれた。


「リチャード!」 

 抱き着いていたエイダごと地面に倒れ込む。


 素早く起き上がり、エイダはうつぶせに倒れ込んだリチャードを必死に仰向けにする。


 そのとき。

 嫌なことに気づく。


 皮膚が、冷たい。


「リチャード!」


 かがみこみ、血で汚れた彼の頬を叩く。震える指で頸動脈を探るが、脈打つことはない。


「リチャード!」


 エイダが泣き叫んだとき、白銀に輝く光が目を刺した。


 咄嗟に手で顔を覆う。だが、目を閉じてもその光は感じる。ゆっくりとエイダは顔から手を離した。光は、炎上する屋敷の橙色を退けながら降下してきた。


「我が名は天使サイモン。その者の守護天使である」


 金髪をなびかせ、アイスブルーの瞳に慈愛の色を浮かべた天使が、白い翼を動かしながらエイダに近づいて来る。


「人の子よ。その者の命は尽きた。魂を神の御許へ……」

「いいえ、わたくしは認めません!」


 エイダは絶叫した。

 立ち上がり、顔を上げる。

 宙にふわりと浮かぶ天使面した男を睨みつけた。


「いつもいつもわたくしに付きまとって……!」


 吐き捨てると目から涙が盛り上がる。

 最初に白い羽根を持つ天使を見たのは、母の側だった。


『お父様よ』


 母はそう言って嬉し気に微笑んでいたが、母にやけに執着するその男がエイダは気味悪く思えた。それにどうやら翼を持つ男の姿は、母とエイダにしか見えないらしい。修道女たちは「天使が見える」と聖女扱いしたが、エイダはなんとも居心地の悪い思いしかしなかった。


 その後、母はほどなくして死ぬ。もともと病のために長生きはできないと言われていたらしい。エイダを産むことも身体に障るからとめられたそうだが、母は自分をこの世に送り出してくれた。


 母につきまとっていた白い羽根の男は、母の臨終の際にも側にいたが、そのときすでに、彼の翼は黒く変化し始めていた。そしてその後、姿を現すことはなかった。


 エイダは母が没した後も修道院にいた。

 修道院長の話ではエイダの母は王家に連なる者であり、母を預かることは了承していたが、エイダを養育することはまるで想定外だったようだ。

 なんとか早急に引き取るように王家に働きかけていたが、なかなか良い返事はこない。


 エイダ自身も、早く修道院から出たかった。

 というのも。

 修道院で実施される葬儀のたびに様々な白い翼を持つ男が現れては、エイダを興味深く見て去って行くからだ。


 気持ちが悪い。

 本当にそう思っていた。


 そんな時、「同じように天使が見える少年がいる。その両親がエイダを引き取っても良いと言っている」と知らせが入ったのだ。


 エイダは一も二もなく頷き、修道院を出た。

 そして、ようやく安住の地を見つけたというのに。


「このひとをわたくしから奪うことは許しません! わたくしはこのひとに……」


 リチャードに、なにも返せていない。


 大事にしてもらった。

 慈しんでもらった。

 無条件で味方になってくれた。

 命を挺して、守ってくれた。


 愛していた。


 本当に。

 愛していた。


 それなのに。

 愛しているとさえ、伝えていない。


 リチャードの愛情に、なにもこたえていない。


「……人はいつか死ぬのだ。仕方なかろう」

 どこかぞんざいに天使は言い放つ。


「生まれた者は死ぬ。それが定め。お前だってそうだ。いつか死ぬ」

「わたくしは認めない!」


 強情に言い張ると、天使は目を丸くし、くっと可笑しそうに噴き出した。

 その後、宙に胡坐をかくと、腕を組んでエイダを見下ろす。


「お前にはその醜い生き物がどのように見えているのだ? え?」


 エイダはしゃがみこむと土をつかみ取り、サイモンと名乗る天使に向かって投げつけた。「おお」とおどけて天使が避けて見せる。


「リチャードのことを侮辱することは許しません!」

「何と傲慢な」


 サイモンは大笑いすると、自分を睨みつけるエイダを興味深く見下ろした。


「こいつはな、天使殺しと呼ばれて皆から嫌われていた。その罪を償うために地上におろされたのだが……。お前は、この男が死ぬと悲しいのか?」

「当然でしょう!」


「だろうな。お前はこの男を愛していた」

 サイモンに言われ、エイダは動きを止める。


 ぼろり、と。

 両目から涙があふれた。


 サイモンはそんなエイダを見つめ、愉快そうに笑う。


「だが、それは金髪で紺色の瞳を持ったリチャード・ハルフォードを愛していたのだろう? 女どもが夢中になる容姿と才能を持ち、伯爵位をいずれ譲り受ける男を」


 すう、とサイモンのアイスブルーの瞳が細まる。


「この、醜く、弱く、脆弱ぜいじゃくな姿でもお前は愛せたか? お前の声も届かず、姿を見ることもできない男を、お前は愛せたか?」


 サイモンの視線がさらに下がる。

 エイダはそれを追った。

 地面に横たわるのはリチャード。


 その姿は、社交界や屋敷でみせるものとはまるで違う。


 艶のない白髪。肌は病的なまでに白くかさついている。爪は尖り、口から漏れ出ている牙は鋭利だ。なにより異様なのは、羽毛が無く灰色の被膜で成り立つ翼。


 だけど。

 だけど。 


『エイダ』 

 自分の名を呼ぶ声を思い出すだけで切なくて胸がかきむしられる。


「わたくしは、いとしい。このひとがもう……。このひとがもう、わたくしの名を呼ばず、抱きしめてもくれず、笑いかけてもくれないのだということが、とてつもなく悲しい。わたくしは……」


 涙は尽きることがない。頬を濡らし、顎を伝っていつくもいくつも地面に落ちる。


「わたくしは、かなしくてしかたない。せつなくて仕方ない。このひとを……このひとの魂が欲しい」


 語尾は嗚咽で揺れた。

 時折、燃え盛る屋敷の木材が派手に爆ぜて大きな音を立てる。

 それ以外は、エイダの泣き声だけが静かに満ちていく。


「なるほど」

 サイモンは呟く。


「それも含めて上に報告してやろう。だがな、人の子よ」

 ゆっくりと顔を上げると、涙でぼやけた先で、サイモンは冷ややかにエイダを見つめる。


「その者は死んだ。それはもう、どうしようもない」

 それだけを告げて、サイモンは姿を消した。


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