第33話 もうそれだけで……

「リチャード!」


 エイダの桃色の唇が自分の名前を紡ぐ。

 そして抱き着いてきた。


 視覚や聴覚が制限されているからか、皮膚感覚が鋭敏だ。服越しにも冷え切った身体に、彼女のぬくもりが心地よい。


 エイダはリチャードの胸に顔を押し付けて何か言っているようだがわからない。服や皮膚が震えるばかりだ。


『エイダ。聞こえない。いまは見えないし、聞こえないんだ』


 この発音だって自分で確認できない。通じているのかどうかと不安になるが、驚いたようにエイダが顔を上げた。


「あの爆発で鼓膜が?」

『違う。もとから。この身体の時は、耳も目も見えない。だから精霊に補助してもらっている』


『二階から降りてきました。階段に攻撃者がいます。ご主人マスター、気を付けて』


 エイダを抱きしめ、廊下の奥にある北側の階段に顔を向ける。

 そこにいたのは、執事長だ。


『……執事長……か? 生きていたのか。背中にカーミラ伯爵夫人を背負っている?』


 リチャードは呟く。

 いまの視覚は暗闇こそ効果を発揮する。


 爆発と、それに伴う火災のため、薄く煙る廊下の奥。


 そこには緑色の鱗粉を振りまきながら、こちらに近づいて来る執事長が見える。

 背中に背負ったカーミラ伯爵夫人の二本の腕がだらりと垂れているが、動いているようには見えない。あの出血量だ。こと切れているに違いない。


『なぜこのようなことをした、と堕天使が尋ねています』


 精霊が補足する。

 執事長は、血で汚れ、殺意でぎらつかせた瞳を堕天使に向ける。


「貴様、嘘をついたな。その子どもはロランぼっちゃんではないのか」

『ロランを生き返らせた。お前たちの望んだことだろう、と堕天使が言っています』


「魂は⁉ 魂はロランぼっちゃんではないのか!」


 執事長が怒鳴る。彼の唾に血が混じっているのかやけに黒い。リチャードは視線を移動させる。


 廊下の中空には、ロランを抱えた堕天使が浮いていた。 

 彼は無表情のまましばらく執事長を見つめていたが、小さく首を傾げる。


「なにをそんなに怒っているのかわからない。この子どもの肉体が再び動くことをお前たちは望んだろう? わたしは、魂を入れるいれものが欲しかった。互いに利益を享受したはずだ」


「黙れ、悪魔め!」 


 執事長の身体が大きく傾ぐ。

 ずるり、とその背中からカーミラ伯爵夫人の身体が滑り落ちた。執事長もその反動で尻餅をつく。


「ここは危ない。逃げよう、


 堕天使の言葉に、ロランが頷くのが見える。

 そして、腕の中のエイダがひどく驚いて震えた。視線をたどり、リチャードは執事長を見る。


 床に座り込み、彼は大きく口をただ開けていた。

 絶叫しているのだと、数秒後にリチャードは気づく。


「いま、マックスと呼んだな!」


 執事長はゆらゆらと立ち上がる。そして腰から抜き出した筒を壁に近づけた。

 そこには、二階から伝って来た焔があった。


『攻撃、来ます』

『風を執事長に向けて放て!』


 エイダを抱きしめてリチャードが叫ぶ。

 同時に、暴風が白煙を吹き飛ばして執事長にぶつかって行く。

 彼が握りしめていた爆発物は、回転しながら天井に向かって上がる。


(導火線が消えていない……っ)


 リチャードはエイダを抱きしめたまま翼を目一杯広げ、地面に蹲る。

 激しい空気の揺れと、屋敷全体の軋み音が襲ってきた。崩落したのか、様々な落下物がリチャードの背中や肩、翼や後頭部を打つ。


『天井崩落。火炎が迫っています。ご主人マスター、立ち上がってください』


 精霊に促され、エイダを抱えたまま立ち上がる。

 いや、正確には立ち上がろうとしたのだが。

 足がもつれてうまく動かない。


ご主人マスターの生命が枯渇寸前です』

『まだやれる……っ! 戦える!』


 奥歯を噛み締め、立ち上がる。足が動かないのなら、と翼をはためかせた。


『風を送れ! 飛ぶ!』

『承知シマシタ』


 落下物にしたたかに打たれたが、翼に破れはないらしい。精霊が動かす風をつかみ、リチャードはエイダを抱いて宙を飛んだ。


 それとは別に向かい風が屋敷に吹き込んでいると思ったら、爆発の影響で扉が開いていた。


 しめた、とリチャードはそのまま飛び立とうとしたのだが。


 腕の中でエイダが動く。

 なんだ、と階下を見下ろす。

 そこには、大きな梁と壁に押しつぶされた堕天使がいた。


 そのすぐわきにはロランが座り込み、堕天使の掌を握っている。


「リチャード! ロランぼっちゃんを!」

 エイダが唇の動きを見せる。


 助けてくれ、ということなのだろう。リチャードは舌打ちし、堕天使に再度視線を送る。


 動いている気配はない。


『堕天使の呼吸音、心拍。ともに感じません』


 精霊が補足する。ならばもう脅威にはならないだろう。リチャードは剣を捨て、片手でエイダを支える。


『マックス! 手を伸ばせ! 一緒にここを出るぞ!』


 ゆっくりと降下しながら呼びかける。

 尻をぺたんと廊下につけたまま、ロランが顔を上げた。


 目があう。エイダもなにか呼びかけたのだろう。瞳がエイダに移動する。


 だが。

 ロランは首を横に振った。


「ぼく、エイダのこと大事だけど……。ぼくのことをとっても大事にしてくれたこのひとの側を離れることなんてできない」


 ロランは堕天使の手を握ったまま、「よいしょ」と言って圧死している堕天使の横に自分もごろんと転がった。白煙に何度か咳き込みながらもこちらを見上げる。


「エイダ、大好きだよ。だけど、バイバイ」


 そう言うと、ロランは横たわったまま、もう動かない堕天使へとにじりよる。

 少しでも彼に近づけるように、と。


『崩壊、始まります』


 腕の中でエイダが暴れ、泣き叫んでいるがリチャードは精霊の指示に従って、翼を動かす。


 ぎちり、ぎちり、と翼の骨格自体が何度も軋む。


 数度羽ばたいたところで屋敷の外に出た。

 一気に表面を包むのは濠を流れる水の冷気と、夜気だ。


(苦しい……)


 エイダを落とさないようにきつく抱きしめる。精霊が風で補助をしてくれているから翼の動きは最小だが、それでも口からせわしなく呼気が漏れる。


『屋敷、崩壊、炎上。ご主人マスター

『なんだ……っ。くそ……っ』


『もう少しです』


 初めていたわるような声をかけられ、リチャードは思わず笑った。


 その拍子に急降下し、つま先が濠にどぼん、と浸かる。

 だが、下から噴き上げる風を翼は受け、なんとか上昇することに成功した。


 そのままあえぐように、もがくように、何度も上昇と下降を繰り返しながらも外堀を超え、芝生の上に転がり落ちた。


ご主人マスター、残念ですがここでお別れのようです』


 脳内に響く声に返事も出来なかった。

 喉がひりつくほど呼吸を繰り返すのに、息が入ってこない。


 自分の指で自分の首を掻きむしる。


 ということは、エイダはどこにいった。


 目を開いたのに。

 もうなにも見えない。


『エイダ!』 

 叫ぶが、周囲は無音だ。


 真っ暗闇で、なにも聞こえない空間に放り込まれたようで、リチャードは恐慌をきたした。


 エイダの名前を呼びながら、四方に両手を伸ばす。


 どこにいる。

 無事か。

 お願いだ。

 返事をして。

 声を聞かせて。


 膝立ちでいざり、泣きながら両手を伸ばし続ける。


 とん、と。

 突然背中になにかがぶつかってきた。


 ねじって振り払おうと思うのに、それは執拗に自分にしがみつく。

 前方に伸ばしていた手を、おそるおそる背中に伸ばす。


 やわらかな、身体を感じた。


 エイダ……?


 尋ねると、背中に押し付けられたなにかが、上下に動いた。 


 顎を上げ、すんすんと空気を嗅ぐ。


 ああ。

 エイダだ。


 気づいた途端、涙があふれた。


 無事だ。 

 彼女は無事だ。


 もう、それだけで。




 俺は……。

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