第32話 この姿でエイダは応じてくれるのか

「リチャード!」


 再度エイダが自分の名を呼んだ。

 なんとか前に進もうと四つ這いのまま手を伸ばしたのに、なにかがそれを制する。


 ゆっくりと首をねじると。堕天使が槍の柄を掴んでいた。


 目が合う。

 無表情のまま一気に槍を引き抜かれ、強烈な痛みに喉から苦悶の声が迸る。


 そのまま身体を丸めて呻き続けた。顔にしぶきがかかったと思ったら、自分の背から噴き出した血液だ。


 開いたまま閉じることを忘れた眼前を、悠然と堕天使が飛んでいく。


「リチャード!」


 泣き声のエイダに、「大丈夫だ」と言ってやりたいのに、それさえもままならない。


 激痛に意識が遠のきかける。

 いや。

 大量出血によるものかもしれない。


 じわり、と。

 リチャードの胸に沸き起こるのは死への恐怖だった。


 このまま自分が死んだら。

 エイダはこの屋敷に囚われてしまう。 


 あの堕天使と死にぞこないの小僧の慰み者になってしまう。


「離して! さわらないで!」

「エイダ、だめだよ。そっちに行ったら。汚れちゃうよ。それにもう、そいつ死ぬし」


 エイダとロランの会話が、どんどん遠くに聞こえる。


(……エイダ……)

 リチャードは歯を食いしばって手を動かす。


 剣を。

 剣を探して、戦わねば。


 戦うのだ。


 重く、ぬかるみのなかにいるようで、まったくもって思い通りにならない身体に力を込める。


 痛みが徐々に消えていく。 

 それがいいことなのか悪いことなのかリチャードにはわからない。

 ただ、人としての死がいま、自分を飲み込もうとしていた。


(死ねない。戦え)


 それは切実な願いだった。

 エイダを残してくわけにはいかない。


 だが、いまや完全に視覚を失った。

 闇に放り込まれたかのように周囲が黒一色に没する。


 次に音が途絶えた。


 エイダの声も、足音も聞こえない。

 そしてリチャードは気づく。


 この状態なら呼べる、と。

 精霊を。


 目も耳も失ったこの状態は、人間として生れ落ちる前と同じだ。


 戦え、と。

 己の中から声がその声が聞こえる。


 戦え、と。

 鼓舞する声が、胸の奥を震わせた。


 戦え、と。

 命じる声が、脳を覚醒させる。


 戦うのだ。

 エイダを守るために。


 リチャードは指を動かし、組みあわせ、よじり、手順通りに指文字を綴る。

 そして最後の一文字を形作ろうとしたとき。


 指が強張る。


『……悪魔……?』


 堕天使を見て、怯えて身を竦ませるエイダの声を思い出したからだ。

 真っ黒な翼を見ただけであんなに恐怖しているエイダ。


 もし。

 もし、自分の醜い皮膜の翼を見たら彼女はどう思うだろう。


 嫌われるだろうか。

 うとんじられるだろうか。

 化け物とさげすまれるだろうか。


(戦え。それでも……戦え!)


 リチャードは息を大きく吸い込む。


 だとしても、戦うのだ。

 エイダを守るために。


 リチャードが最後の合図を指で送ると、脳内に淡々とした声が響いた。


『お呼びですか、ご主人マスター

『お前の視覚をおれにうつせ。聴覚については援護しろ』

『かしこまりました。視覚をマスターに移譲します』


 がちん、と。

 右目に衝撃が来る。


 はあ、と息を吐いた。熱い。ぐ、と食いしばる。尖って鋭利な牙が唇の端からのぞくのを感じた。


 右目を開く。

 同時に右手で剣をつかみ取り、左手で廊下をついて身体を起こす。


 胸を張るようにして顎を逸らす。

 背中で皮膜の翼が広がるのを感じた。


『風を吹かせろ!』


 喉から飛び出したのが声なのか咆哮なのかはわからない。


 広げた翼が風を捕らえた。

 身体が浮き上がる瞬間をとらえて、翼を打つ。


 玄関へと向かう。

 右目が映し出すのは白と黒の世界。


 その中で。

 ロランが棒立ちでこちらを見ている。ぽかん、と。その表情は呆気にとられていた。


 その隣で、漆黒の翼をたたみ、堕天使が槍を構える。


『来ます。旋回してください』


 精霊の声に合わせて身体をよじり、翼をすぼめる。腹を上にして廊下すれすれを飛翔すると、顎先を、堕天使の一撃が来る。


 かわし、翼を広げて空気を打つ。


『風!』


 下から風を吹かせて玄関のふきぬけを屋根近くまで上昇し、梁を左手で掴んでぶら下がった。


『相変わらずの化け物ぶりだな、と言っています』


 精霊に言われ視線を下す。

 堕天使が小馬鹿にしたようにこちらを見上げていた。


 玄関扉の前で立ち尽くすロランを守るように隣に立ち、左の翼だけを広げて槍の石突で片羽を搔いている。


 頬を歪ませて牙を剥きだしてやる。

 おお怖い、と堕天使が口を動かした。


 ロランはというと、こちらは完全に怯え切って、エイダにしがみついた。


(エイダ……)


 黒と白しかない視界で。

 彼女の頬は月光のように白い。


 紫色の瞳は周囲の墨色におぼれている。


 エイダはじっとこちらに視線を向けていたのに。


 不意に視線を下す。


 拒絶されたのかと身体が強張ったが、どうやらしがみついているロランがなにか言ったようだ。リチャードに背を向けているので読唇術が使えない。


『あんな化け物と一緒にいちゃだめだよ、と言っています』


 精霊が告げる。

 ロランは顔を上げて必死にまだ訴えている最中のようだ。堕天使が手を伸ばし、なだめるようにロランの頭を撫でた。


 そして、エイダに言う。


『あれがリチャードとかいう男の本性だ。化け物だろう?』

 槍を右肩にもたれさせ、堕天使はリチャードを一瞥した。


『天使の失敗作さ。本来であれば消去される案件だった。それなのに生れ出たものだから……。同族殺しを始めてな。迷惑な話だ。その罪を償うため、人の世で生きることになったのだ』


 ロランがそのあとを継ぐようになにか言っている。


『ぼくと一緒にここにいよう、あんな化け物はすぐに死ぬから、と言っています』


 エイダが顔を上げる。

 リチャードを見上げた。目が合う。


ご主人マスター

 呼びかけられて、どきりとした。


 自分が気づかなかっただけで、エイダがなにか言ったのだろうか。精霊はそれを補填ほてんしようとしているのか。


 気持ち悪い。

 化け物。


 そんなことを彼女が言えば……。


 いや。

 それでも。

 彼女が嫌がっても。

 逃げ出そうとしても。

 エイダをここから救出せねば。


『限界がきています。その身体はもう持ちません』


 淡々とした声に、リチャードは舌打ちする。


 そうだ。

 いまはこの身体を手に入れているから痛みも不調も少なくすんでいるが。

 そもそも瀕死だったのだ。


『あとどれぐらい』

『状況によりますが、5分もつかどうか』


 聞くや否や、リチャードは梁から手を離した。剣を逆手に持ち、急降下する。

 堕天使がロランを突き飛ばし、自分は反対側に避ける。

 ロランはエイダにしがみついていたため、彼女ごと床に転がった。


 リチャードは着地し、剣を構える。

 堕天使もすぐさま体勢を立て直し、槍の先をリチャードに向け、突進すべく足を踏み出したのだが。


 すさまじい揺れが屋敷を震わせた。


 足裏から伝わる振動にリチャードは反射的に宙に逃げる。それは堕天使も同じだったようだ。


 眼下ではエイダがロランを抱きしめて床にうずくまっている。

 ロランは両耳を手でふさぎ、なにやら叫んでいるようだ。ちらりと堕天使を見るが、こちらも混乱したような表情をしている。ということは彼にとっても予想外だったのだろう。


『なんだ! なにがどうなっている!』

 リチャードが問うと、精霊がすぐさま応じた。


『2階で爆発です。一度ではありません。いま、三度目が爆発しました』

『爆発⁉』


 言われてみれば、ロランを抱えたエイダが何度か大きく身体を揺すらせている。

 さらに大きく空気が揺れた。

 天井から木片や破片が落ち、壁の至る所から白煙が吹き上がる。すん、と嗅いだ空気に焦げ臭さが混じる。


『火事か……っ⁉』


 二階で数回の爆発があり、火災が発生したのだろう。その白煙が階下まで侵入しつつある。


 エイダの背が細かく何度も震える。咳き込んでいるのだ。

 リチャードは慌てて床に下りる。視界の隅を真っ黒なものがかすめたと思ったら、堕天使だ。


 素早くロランの背後に回り、エイダから奪い取るようにして抱きあげた。

 エイダがひとりになる。


『エイダ!』

 リチャードは叫び、両手を伸ばす。


 伸ばして。

 硬直した。

 いまのこの自分。


 この姿。

 こんな状態で。


 エイダは応じてくれるのか。


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