第31話 この気持ちは何に由来するのだろう

◇◇◇◇


――――― エイダとリチャードが再会する数分前のこと。


 リチャードはカーミラ伯爵夫人と執事長から逃れ、バルコニーから屋敷に飛び込んだ。


 濃密な甘ったるい匂いが室内に充満していた。


 忘れるはずがない。

 堕天使の匂い。

 しかもこの匂いには覚えがある。


 リチャードは客間らしい部屋を抜けた。


 廊下は室内より明るい。

 天井付近に設置された間接照明に蝋燭がいれられているからだろう。視界は断然よかった。


 顎を上げ、獣のように匂いを嗅ぐ。

 濃くなるのは屋敷の北だ。


 前回、エイダと共に訪問した時はロランの部屋にしか通されなかった。あれは一階だった気がする。いまいるここは二階。


 リチャードは匂いに導かれるように走る。


 途中、廊下に飾られた甲冑から剣だけもぎ取り、握る。

 軽く振ってみたが、背中の傷が疼くように痛む。ただ、筋肉や骨を傷つけたような感じはない。


 魔法陣はもうないのだ。


 いざとなったらサイモンが助けに来てくれるはずだが、さっきの状況に陥っても来ないことを考えると、まだ天界とやらにいるのだろう。


 ならば堕天使と対峙したときのことを考えねば。

 リチャードは剣を持ったまま走り出す。


 甘い匂いはやはり階下から強く漂ってくる。

 リチャードは北側に設けられた階段を駆け下りる。


(……サロン、か?)


 降りてすぐはロランの自室。

 匂いはまださらに南側。

 たぶん、入り口に一番近い部屋はサロンだったはずだ。


(そういえば……)


 あの日も自分は感じた。

 この、堕天使の匂いに。


(この匂い、やはり覚えがある)


 忘れるはずもない。

 ジャックの命を奪ったあの堕天使。

 彼が放つ匂いに非常に似ている。


 廊下を駆けながらリチャードは目まぐるしく考える。

 ロランの父親であるミルトン伯爵は言った。


『ロランは死んだんだ。半年前に、この国で』


 そして、カーミラ伯爵夫人は言った。


のおかげで再び魂を取り戻すことに成功した』


 そんなことあり得ない。

 人が死ぬと、肉体から魂という記憶媒体は天使によって天界に運ばれる。そして必要な情報を抜かれるのだ。人間に関する情報収集や行動様式獲得のために。


 天使の大きな役割とは、その記憶媒体の収集にある。


 だが、あの日。

 あの堕天使がマックスの記憶を天界にもどさなかったのだとしたら。


 ジャックの記憶だけ天界に飛ばし、マックスの記憶を持って逃亡したのだとしたら。


 そして、息を引き取ろうとしているロランの身体からきおくを抜き去り、あらたにマックスのきおくを入れたのなら。


 はた目には、ロランが生き返ったかのように見えただろう。


(中身はマックスか。そして、そのそばにいるのは……)


 あの堕天使に違いない。

 きつく剣の柄を握りしめ、ゆっくりと速度を落とす。


 慎重に女主人の部屋に近づくリチャードの目の前で。

 突如、ドアが吹き飛び、壁に叩きつけられた。


 部屋から噴き出す強風を顔をそむけてやり過ごし、リチャードは室内に踏み込む。


「おいおい、野蛮だな。ドアの開け方も知らないのか?」


 わざとらしく肩を竦めてみせると、刺すような視線に気づいた。

 火かき棒を右手に持つ赤い目の男と、ロランだ。


(エイダは……)


 視線を揺らした途端、小柄な人物が駆け寄って来て自分に抱きつく。


 見なくても。

 確認しなくてもわかる。


 ぱくり、と。

 抱き着いた瞬間、彼女の鼓動を感じた。


 エイダだ。

 リチャードは剣で彼女を傷つけないようにしながら、ぎゅっと抱きしめる。


 不思議だ。

 エイダからは、初めて出会ったあの日の。

 お日様と芝生の香りがしたような気がした。


 懐かしい。

 あの日、彼女を見た時に感じたぬくもりが全身を包む。


「リチャード……。あなた、怪我……」


 だが、驚いたようなエイダの声に我に返る。身体を離すと、エイダが怯えたように自分を見上げていたから、安心させるように微笑んで見せる。


「大丈夫だ。さあ、家に帰ろう、エイダ」

「その娘は置いていけ、化け物め」


 低い声をぶつけられ、リチャードはゆっくりと顔を堕天使の方に向けた。

 ばさり、と。

 空気を打つ音のあと、ぎちぎちぎちとなにかがしなるような音が響く。


「え……」


 腕の中でエイダが息を呑んだ。

 彼女の視線の先で。 

 堕天使が漆黒の翼を左右に広げていた。


「あ……悪魔……?」


 怯えたエイダがリチャードにしがみつく。

 軽い足音がすると思ったら、ロランが翼を広げた堕天使に駆け寄り、眉根を寄せてリチャードを睨みつけている。


「エイダはぼくのお嫁さんになるんだ」

「大事なエイダの夫は俺が選ぶ。そして、お前は論外だ、ロラン坊ちゃん。いや、マックスか?」


 エイダの手を掴んで、自分の背後に隠した。恐慌状態に陥りそうなエイダに小声で指示する。


「玄関に行け。跳ね橋を下して逃げるぞ」


 だが、エイダの反応はない。


「エイダ!」


 力を込めて呼びかけると、エイダは震えるようにして首を縦に振ると、小走りに廊下に出た。


「待って、エイダ! 行っちゃやだ!」


 ロランが悲鳴を上げ、追おうとする。

 リチャードは剣を構えてそれを制した。


 まずはエイダを玄関まで逃がさねば。


 その時間を稼ぐ。

 そんなリチャードの考えなど読まれているのだろう。


 堕天使が火かき棒を振るった。

 また暴風が来るのかと身構えたが、火かき棒は一気に伸び、先端に刃をつけた槍に姿を変える。


 その槍を半身になって構えると、堕天使は低く膝を落とした。


 ばさり、と。

 威嚇するように右翼だけはためかせる。


 直後、真っ直ぐに槍がリチャードに襲い掛かる。

 早く鋭いそのひと突きを、リチャードは一撃で払い落す。


 槍先が下に向いた。すぐさまリチャードは踏みつける。


 動きを制し、剣を堕天使の手首に打ち込もうと思ったのに。

 槍先を床に刺し、それを支点として堕天使は宙を舞う。

 棒高跳びの要領で堕天使が背後に回った。


(来る……っ!)


 リチャードは剣を縦に構えて一撃をかわそうとしたが。


 遅かった。

 どんっ、と衝撃が背中の右わきに来る。


 刺された。


 反射的に床に転がることで、穂先を抜く。強烈な痛みに呻きつつも、素早く立ち上がろうとしたが、その背を足で踏まれた。


 がふ、と空気を吐き出し、したたかに床に顔を打ち付ける。ばさりと羽音がしたところを見ると、堕天使はリチャードを踏み台にしたあと、また宙を飛んだらしい。


 床に転がされたリチャードの脇を小さな影が駆けていく。

 ロランだ。


「待て!」


 必死に立ち上がり、続いて部屋を出た。

 今度リチャードの前を立ちふさがったのは、堕天使だ。


 廊下に足をつけ、低く槍を構える。

 ばさり、と右翼だけ広げると、闇のような羽根が廊下に散った。


「なんだお前。あの醜い翼はどうした?」

「うるせぇ。そこをどけ」


 リチャードが吐き捨てる。堕天使の向こうからはエイダとロランが言い争っている声が聞こえてきた。


「マックスには同情する。だが、それとエイダの問題は別だ」


 さっき刺された右脇腹の傷が痛む。熱い液体が腰や足を濡らしていて非常に不快だ。

 リチャードは堕天使を真正面から見据えた。


「見逃してやる。お前たちのことをサイモンには報告しない。そのかわり、エイダを返せ」

「なんだ、お前。化け物かとおもったのに」


 堕天使が片頬を歪ませて嗤った。


「中身は天使か。いっぱしにあの娘に欲情しているのか?」


 言葉を投げつけられたものの、一瞬理解が追い付かなかった。


 欲情? エイダに? おれが?

 まさか、と拒絶しようと思うのに。


 では、この彼女への思いはいったいなにに由来するのかと戸惑う。


 エイダを欲する理由は、天使たちと同じなのではないのか。

 彼女と交わり、子を成したいがためなのだろうか。


 せわしなく感情や思考が錯綜する。

 その隙に、鋭い一撃が堕天使から放たれる。


 反射的に後ろに逃げ、我に返った。

 いまは目の前のことに集中せねば。


 剣を構え直すと、堕天使は槍を8の字に回転させた。そのまま斜め上から打ちかかって来る。


 リチャードは剣を横に振ってそれを払い、一歩大きく間合いに踏み込む。


 石突による攻撃さえ警戒していれば、槍は近距離では不利だ。

 素早く剣を堕天使の脳天に打ち込む。


 だが、槍を両手で持ち、横にすることで防がれた。リチャードは剣を槍の柄に押し付けたままさらににじり寄り、右足で堕天使を蹴り飛ばす。


 強烈な一打とはならなかったようだが、それでも体勢を崩すことには成功した。

 身を離し、身体を反転させて回し蹴りをさらに打ち込む。


 今度は完全に堕天使がくずおれる。

 リチャードはその隙に彼を躱して走り出した。


 玄関扉の前では、ドアノブにとりついているエイダと、それを引きはがそうとしているロランがもみ合っている。


「エイダ! 扉を開けろ!」


 怒鳴ると、エイダは顔を上げた。うなずき、ロランに両手を拘束されたまま、肩でなんとか扉を押しはじめた。


 だが。


「リチャード、後ろ!」

 真っ青な顔でエイダが悲鳴を上げる。


 その声より。

 リチャードの鼓膜は、低く重い音の方を拾った。


 ざくり、と。

 砂袋になにかを刺したような音。


「……え」


 自分の口から困惑の声が漏れるのと、足から力が抜けるのは一緒だった。

 廊下に両膝つくと、剣が無様な音を立てて廊下に転がる。


 痛い、というより、熱い。

 苦しい、というより、重い。


 ぐらん、と。

 背中でなにかが揺れる。

 ゆっくりと首をねじる。


 そこにあるのは。

 槍だ。


 背後から槍を投擲とうてきされ、それが自分の背に刺さっている。

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