第30話 エイダside 今度こそ……

♧♧♧♧


 急激に意識が浮上するのを感じ、エイダは身体を震わせて目を開く。


「え……?」


 驚いた声が漏れたのは、視界にはいってきた部屋が自分のものでもなければ、見慣れたものでもなかったからだ。


 手をつき、身体を起こす。ふわりとした掌の感触に瞳を巡らせると、どうやら長椅子らしい。


 鼻先をかすめたのは紅茶のフレーバーと、焼き菓子のふくよかなバターの香り。


「エイダ、起きた?」


 その空気をまとって駆け寄ってきたのは、ロランだ。

 長椅子に横座りした姿勢のエイダに抱きつき、胸に顔を埋めてくる。


「あ……。まぁ、すみません。わたくしったら……。とんだ失礼を」


 ようやく思い出した。

 今日、突然ミルトン伯爵から呼び出しを受けたのだ。


 ロランがエイダに会いたいといって聞かない。もしなにも予定がないようであれば、カーミラ伯爵夫人がお茶会を開くので、参加してもらえないだろうか。


 そんな手紙を持ってハルフォード伯爵家に遣いがやってきたのが、午前10時ごろだった。


 あの可愛らしいぼっちゃんがかんしゃくを起こしているのね、とエイダは苦笑し、義両親の許可を得て、侍女と共にミルトン伯爵邸にやってきた。


 そしてカーミラ伯爵夫人とロラン、それからと共にお茶会に参加したところまでは覚えているが。


(ロランぼっちゃんとお話をして……。紅茶を……)

 半分まで飲んだところで急激に眠くなったのは覚えている。


「まだ夜明けまで時間がある。ゆっくりされてはどうかね」


 低い声に顔を向けると、ソファから男性が立ち上がったところだった。

 広い肩幅に、リチャードと変わらない高身長。黒髪と、この国では珍しい赤い瞳をもつ30代に見える男性だ。


 当初、エイダはこの男性こそミルトン伯爵なのだと思っていたが、当人が苦笑して首を横に振る。カーミラ伯爵夫人は畏れ多いとばかりに「この方はわたくしがお招きした高名なお方なのです」と言っていたので、学者か何かなのかもしれない。


「夜明け……。とんでもありません! 失礼しました、すぐに屋敷に戻らなくては……っ」


 義両親が心配しているだろうし、なによりリチャードが大騒ぎしていることが予想されて焦る。


 自分に抱きつくロランをそっと押し戻し、床に足を下した。立ち上がろうとしてわずかに眩暈めまいを感じ、慌ててまばたきを繰り返す。どうしたのだろう。なんだか変だ。


「帰らなくていいんだよ、エイダ」

 顔を向けると、きょとんとした顔でロランが自分を見ていた。


「エイダは今日からぼくと一緒にここに住むんだもん」

「……え?」


 意味が分からないままに、ロランを見た。目が合った瞬間、ロランは満面の笑みを浮かべる。


「エイダはぼくのお嫁さんになるんだ。ぼく、はやく大人になるね!」

「お嫁さんって……ロランぼっちゃん、あのね」


 エイダは混乱を押し隠して強張った笑みを浮かべた。

 ソファに座ったまま、ロランと視線を合わせるために腰をさらに曲げようとして。


 ぎょっとする。


 身長。

 ロランと視線が合う。


(この子……)


 こんなに背が高かったか? 


「お母さんとぼくとエイダと。みんなで一緒にここに暮らすんだよ。結婚式はね、ぼくが大人になってからだからまだまだ先だけど……。エイダはそれまでゆっくりしていたらいいからね。あ。お母さんはさ、エイダの年齢のことをすっごく気にするんだけど、もし意地悪なことをしたらぼくに言って。ぼくがお母さんに抗議コーギするから」


 胸を逸らし、堂々と宣言するロランを横目に見て、男はくすくすと笑った。


 大人ぶったその様子が微笑ましい。

 そんな表情でティーポットからカップに茶を注ぐ。


 また、紅茶の香りが濃くなる。


 だが。

 幸せな気持ちにも、お茶を楽しむ気持ちもエイダにはわかない。


(どうして……こんなに饒舌じょうぜつにしゃべるの……)


 

 その気づきに突き飛ばされるように、エイダはソファから立ち上がる。


「エイダ?」


 不思議そうにロランが尋ねる。執拗な眩暈を堪え、エイダは男に顔を向けた。


「すみません、本日は失礼したいと思います。カーミラ伯爵夫人にご挨拶をしたいのですが、夫人のいらっしゃる部屋にご案内していただけますか?」


 男と目が合う。

 にこりとほほ笑んだので、ほっと息を吐いたのに。


「紅茶が冷めてしまう。菓子も焼きたてらしい。一緒に楽しもうじゃないか」

 エイダの意見をまるで無視され、血が凍ったような気がする。


「そうだよ、エイダ。ほら、一緒に紅茶を飲もう? お母さんももうすぐ来るよ」


 ロランがエイダの手を握って引っ張るから、反射的に振り払った。

 しまった、と、慌てて取り繕うように笑みを作った。


「わたくしの家族が心配しているの。今日はもう帰りますね、ロランぼっちゃん」

「いやだ! エイダはここにいるんだ!」


 ロランが両こぶしを握り締め、顔を真っ赤にして怒鳴る。


「お母さんと、ぼくと、それからエイダと……っ。このおうちにずっと暮らすんだ!」

「ロランぼっちゃん……」


 なんとかなだめようと声をかけるが、それを遮り、ロランが首を激しく横に振った。


、ずっとずっとみんなで一緒に暮らすんだ!」

「ああ、そうだな。人生を楽しもう」


 男は言うと、ティーポットをテーブルの上に戻す。

 そして暖炉の側に足早に近づいた。


「こ……今度?」


 エイダは戸惑う。

 今度こそ、とはなんだ。どういうことなのだ。


「優しい母親がいて、愛する人がいて。うまい食事を腹いっぱい食べ、あたたかい家があって……。そうやって今度こそ、人生を謳歌せねば」


 男は低く、詠唱するようにひとりごちる。

 そして、火のはいっていない暖炉脇にたてかけてあった鉄の火かき棒を右手に持って振り返った。


「暴力を振るう父親も、冷たい無関心で接する村人などいらない。は今度こそ、この閉じられた屋敷で幸せに暮らすのだ」


 男の赤い瞳が、強烈な光を宿す。火かき棒を強く握りしめたのだろう、服越しにもわかるほど腕の筋肉が張る。


「邪魔する奴は、滅ぼしてくれる」


 言うなり、火かき棒を振り上げ、勢いよく振り下ろす。


 まるで空気の塊が発せられたかのように、部屋の扉が吹き飛んだ。

 蝶番ちょうつがいが千切れ、ドアが木の葉のように廊下へと舞って壁にぶち当たる。

 ものすごい音と空気の振動にエイダは耳を塞いで悲鳴を上げた。


「おいおい、随分と野蛮だな。ドアの開け方も知らないのか?」


 怯えて身を小さくするエイダの身体を。髪を。

 さらりと撫でるように。


 聞きなれた声が包む。


 エイダは両耳から手を離し、おそるおそる部屋の出入り口を見る。

 廊下から室内にはいってきたその人物を見て、エイダは駆けだした。


「リチャード!」


 抱き着くと、すぐにリチャードの両腕が自分の背中に回る。

 ぎゅ、と。

 息が漏れるほどに強く抱きしめられた。


 押し付けた胸からは拍動する彼の心音が聞こえた。


 どくどくと。

 脈打つその音はとても速い。


 きっと。

 彼が自分を探すためにそれだけ駆け回ってくれたのだと気づいて、涙が浮かぶ。


 だが。


「リチャード……。あなた、怪我……」


 血の匂いに我に返る。顔を上げると、リチャードはいつもと変わらずに優しく微笑んでくれた。


「大丈夫だ。さあ、家に帰ろう、エイダ」


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