第29話 エイダの生まれた理由

 欄干の上を、リチャードは左に飛ぶ。

 重い発射音が空気を揺さぶり、ガラスが砕けた。飛散する破片が宙に散る。さっきまでリチャードがいた欄干で跳弾した。


 執事長が腕で顔を覆うようにしてうずくまる。リチャードは彼が楯になるように移動した。これなら射手も慎重になるだろう。


 だが。


『発射。ご主人マスター、動かないで』


 だん、と。

 再びの発射音が空気を震わせる。


 どう、と。

 横倒しに倒れたのは、執事長だ。


 白と黒しかないリチャードの視界の中で、執事長の頭からあふれる灰色の液体が、どんどん彼自身を濡らしていく。


(……あっさり撃つとは……)


 最早、ガラスが砕け散り、金枠だけ残した扉を開けて、ゆっくりと女がバルコニーに姿を現した。


「汚らわしい。堕天使風情が」


 カーミラ伯爵夫人はライフルを構えると、銃口をリチャードに向ける。

 その瞳にはためらいがない。無表情のまま引き金にかけた指に力を入れる。

 銃口から弾が飛び出すより数秒早く、リチャードは翼を広げた。

 宙に逃げたが、発射音と同時に熱感を背中に感じた。身体が傾く。


『被弾しました』


 精霊が冷静に告げた。

 割かれたような痛みが背中にある。首をねじって自分の翼を見ると、こぶし大の穴が開いて、そこから液体が流れ出ていた。


 身体が徐々に失速していく。

 堀に落ちるのを防がねばと姿勢を制御しようとしたら、精霊が淡々と告げる。


『二発目が来ます』


 弾かれたように、ひとつしかない瞳をカーミラ伯爵夫人に向けた。

 彼女は優雅にさえみえる手つきで銃弾を込め、リチャードに狙いを定めようとしている。


「くそ……っ!」


 ままならない姿勢を制御しつつ、リチャードは剣をやり投げのように構えた。

 カーミラ伯爵夫人に肉薄し、剣で斬りつけるには距離がありすぎる。それまでに撃たれておしまいだ。


 ならばこのまま投げつけてやる。

 当たらなくても威嚇ぐらいにはなるだろう。


 リチャードの意図するところに気づいたのだろう。


 カーミラ伯爵夫人は素早く弾こめを終えると、銃口をリチャードに向ける。

 リチャードは左右に細かく身体を揺らしながらも、カーミラ伯爵夫人に向けて剣を投げつけた。


 どぉん、と。

 カーミラ伯爵夫人が銃弾を放つのと、剣を投擲したせいで姿勢を大きく崩し、空中で数回転前転をリチャードが行ったのは同じだった。


 勢いがついたままリチャードは宙を落下していく。


「風! おれをバルコニーに!」


 リチャードが叫ぶ。縮こまりかけていた翼の被膜が風を受けた。

 墜落寸前のリチャードの身体はそこでようやく失速したが、バルコニーに投げ出されるようにして転がり、したたかにこめかみを打ち付ける。


 うめいている時間も横たわっている時間もない。


 カーミラ伯爵夫人はどうなった。

 彼女めがけて剣を投げつけたが、どうなったのか確認していない。


 掌をバルコニーの床につき、上半身を起こそうとして、ぬるりと滑る。

 自分が血だまりの中にいることに気づいた時、精霊が言う。


ご主人マスターへの制限が再開されました。最重要項目であるため、移譲した権限は失効します』


 その言葉のあと、右目に衝撃が走る。咄嗟に目を閉じると同時に、リチャードは自分の鼓膜が震え、音を感じるのに気づいた。


 外堀を流れる水音、木々を吹き渡る風の音、荒い呼吸音。


 それだけじゃない。

 濃い血の臭い、硝煙の臭いなどが淡く鼻先をかすめ、どこか精彩を無くしたように感じた。


(……なぜ……? 戻っている)


 鋭敏な肌感覚や嗅覚を失うと同時に、聴覚が戻っている。


 聴覚だけじゃない。視覚もだ。 

 背中を振り返るが、当然翼もなかった。


 リチャードは右掌を見る。

 サイモンに施された魔方陣は、血で深紅に染まり姿を失っていた。


 精霊は『制限が再開』と言っていた。

 魔方陣が効力を失い、またリチャードは〝人〟に戻ったのだろう。


 ごぼり、と。

 水が噴き出すような音が聞こえて、リチャードは顔を向けた。


 砕け散ったガラス片が月光を受けて星屑のように輝く中、カーミラ伯爵夫人が仰向けに横たわっていた。


 視覚が戻ってきていたものの、周囲は夜闇に包まれていることに変わりはない。

 黒と灰色と銀色の世界のなか、カーミラ伯爵夫人の胸からあふれ出る血は異常なほどの深紅さだった。


 剣の精霊も魔法陣消失とともに姿を失ったと見える。カーミラ伯爵夫人にむかって放ったはずの剣は影も形もなかった。


「エイダはどこだ」


 リチャードは立ち上がり、ごぼ、とまた血泡を吹くカーミラ伯爵夫人を見下ろした。

 スラックスに掌をぐい、と押し付けて血のりを拭う。ちらりと視線を向けると、やはり魔法陣はそこになかった。


「あの娘は、ロランにとって大切な娘。お前のような化け物に渡すものか」


 カーミラ伯爵夫人の顔は、月明かりを受けて紙のように真っ白だ。そんな中、口から漏れ出る血液で濡れた唇がやけに赤い。


「なぜエイダにこだわる。他の娘でもいいだろう」


 しゃべるたびに背中が痛い。濡れた感覚もあるということは、翼に受けた傷はそのまま背中に残っているらしい。リチャードはゆっくりと肩を回す。可動域に問題はない。


「知らないの? 知らないのに側においていたの?」


 くくくくく、とカーミラ伯爵夫人が笑いを漏らしたが、語尾はまた血を吐く音に濁った。


「エイダのなにを知っている」


 目をすがめるリチャードの視線の先で、カーミラ伯爵夫人は唇を動かす。

 身体は微動だにしないのに、唇だけがまるで別の生き物のようにスムーズに動いていた。


「ロランは一度、魂が肉体から離れてしまった。のおかげで再び魂を取り戻すことに成功したが……。そういった者は成長しても普通の人間とは子がなせないとか」


 ぞくりとリチャードの背筋に寒気が走る。

 執事長もエイダとロランの間に子が生まれることを望んでいた。


 そして。

 そんな執着を持つ奴らを実はリチャードは知っている。


(……天使……)


 エイダが成長し、年頃になるにつれて夜な夜なバルコニーに現れるあの天使たち。

 追い払い、サイモンが威嚇してようやくエイダから離れる彼等。


「エイダは普通の娘だ。普通の人間だ」


 戸惑いを払拭するように吐き出した言葉は、カーミラ伯爵夫人によって一笑に付された。


「あの娘の母は、天使と情を交わし、子を成した。それがエイダ嬢」


 サイモンが強固に否定していたことを、あっさりとカーミラ伯爵夫人は口にする。


「エイダ嬢の身体には、母と同じ血が流れている。つまりは……」

「天使と交わり、子を成すことができる、ということか……」


 知らずにリチャードの声が震える。 

 シエルは言っていた。


『生物とは、なんとしたたかで、多様性に満ちているのか、とわたしは驚嘆しました』と。


 そして、その生物の究極の目的は。


 生き残ること。

 繁殖すること。

 子孫を残すこと。


 シエルたちは天使たちにそれをさせないようにしていたはずだ。


 それなのに。

 生まれた。

 エイダが。


(エイダだけじゃない……)


 翻れば己だってそうだ。

 シエルが言っていたではないか。本来なら「不育」状態になり、リチャードは生まれるべき存在ではない。


 翼は白ではなく、瞳はアイスブルーではない。髪だってそうだ。サイモンたちとは似ても似つかない。


 プログラムに従えば、排除され、命を奪われる存在だった。


 だが。

 生まれた。


 リチャードも。

 エイダも。


「あの娘は、ロランのために生まれたのです」

「違う!」


 リチャードは叫ぶ。

 エイダも自分も。


 誰かのために、なにかのために生まれたのではない。


 心臓が鼓動を打ったその瞬間から。

 生きる、という。

 ただその目的を成すために行動を開始したのだ。


 おのれの心臓と、おのれの意志を守るために。


「エイダ……っ!」


 リチャードは鉄枠だけ残った扉を乱暴に押し開け、バルコニーから屋敷内へと駆けこんでいった。

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