第28話 応戦

(くそ……っ)


 だああん、と。

 ぴったりと身を寄せていた木の幹が激しく振動した。


 リチャードは根元にうずくまるようにして、革手袋を外す。


 右掌を開いた。

 サイモンが焼き付けた魔法陣が、薄く発光している。


(精霊を召喚して応戦……)


 


 一瞬、たじろいだ。

 二十歳まであと少し。


 おそらく、ここで射殺されたとしても、シエルはリチャードの生前の行いを鑑み、‶良い子〟だったと認定してくれるだろう。


 そしてリチャードの力を取り戻し、天使として再び迎え入れてくれる気がする。

 だが。

 いまここで生きるために応戦し、エイダを取り戻すために、禁じられた精霊を召喚するのは、〝善い行い〟なのだろうか。


 ばちり、と枝が弾丸を受け止めて折れて砕ける。

 その音に、リチャードは覚悟を決めた。


 自分の善行のためにエイダを見殺しにするわけにはいかない。


 そもそも。

 エイダのいないこの世界で、リチャードはなんのために生きるのか。


 いくら善い行いをし、良い子だと言われたところで。

 それを褒め、誇りに思い、ともに歩む人がいなければなんの意味もない。


 リチャードは爆ぜて折れた小枝を拾う。その先端で思い切り右掌の魔法陣を引き裂いた。


 痛みと出血は同時で。


 それに伴い、圧縮された空気がぶつかってくるような衝撃を受けてリチャードは呻いた。


 思わず閉じた瞳を開く。

 そこには闇しかない。


 いままで聞こえていた風の音もしない。


 いきなり振動が身体に伝わって来て、頭上からになにか降ってくる。


 視覚と。 

 聴覚を失う。


 本来の自分だ。


 右耳が火であぶられたように感じた。白檀の香りが鋭く巻き付こうとする。


 狙われている。視線と殺意を感じる。

 敵の方角と位置が知れた。


 リチャードは片頬を歪ませる。牙が唇からこぼれた。


 視覚と聴覚からの情報より原始的なこの感じがいまでもしっくりくるのはなぜだろう。


 リチャードは素早く印を結ぶ。決められた手法通りに指を曲げ、絡ませ、離し、握った。


 そうして唸る。

 契約を履行せよ、と。


『お呼びですか、ご主人マスター


 声は脳内に直接響いてきた。リチャードは答えたが、聴覚を奪われているので、自分の発声が正しいのか不安だ。


『敵がいる。お前の視覚をおれにうつせ。援護しろ』

『かしこまりました。視覚を移譲します』


 精霊にはちゃんと伝わっているらしい。


 どん、と。

 いきなり右目になにかが飛び込む。


 振動のせいで眩暈を感じたが、頭を振ってゆっくりと目を開いた。

 数年ぶりの視界は、以前よりも違和感を覚えない。


 むしろ、暗闇だというのに月光がまばゆくなるほど周囲が白く浮かび上がっている。


 ひょっとして暗視に特化した視界を持つ精霊だったのかもしれない。だからこそ、暗闇にずっと潜んでいた前世のリチャードと遭遇したのだろう。


『右上方。敵、ライフル発射』


 精霊の声に弾かれるように、リチャードは木の陰から飛び出す。


 ぐ、と。

 肩甲骨を背中の中心で合わせるようにすると、バンッと背中で勢いよく翼が広がるのを感じた。


 だん、と。

 発射音なのだろう。空気が細かく振動する。数秒後、弾丸が自分のすぐ脇を通過した。


 リチャードは助走をつけながら、素早く指文字で風を操る精霊を呼び出す。


『飛ぶ! フォローしろ!』

『カシコマリマシタ。マスター』


 リチャードは駆けだし、翼をはばたかせる。

 外堀へと足を踏み出した。


 ぐいっと足裏が沈む。堀を流れる水しぶきが、頬を叩いた。足を素早く動かすが、くるぶしまで川面にドボンとはまる。


 落ちる。

 そう感じた直後。


 水面から風が吹きあがった。


 リチャードの翼が風を受け、ギシギシギチギチと音を立て、大きく広がる。


 ふわりと身体が宙を舞った。

 鳥のような飛翔ではなく、帆を張った帆船が海路を行くようだ。


 視界は黒と白。ただ、動きのあるものは緑色の鱗粉を散らしているように見える。

 屋敷の二階。バルコニーでライフルを構える執事長を見つけた。


 驚愕した表情でこちらを茫然と見ていたが。

 すぐにライフルを構えなおした。


ご主人マスター。左へ回避してください』

 精霊の声に応ずるように身体をひねる。


 ばさり、と。

 風を受けた翼骨がギギギギギッと軋み音を鳴らす。


 すぐそばを弾丸が通過した。


 身体をよじらせたせいだろう。羽毛の無い皮膜のような翼が視界の隅をかすめる。


 異様だと自分でも思った。なぜ自分にはサイモンのような白銀の翼がないのだろう。緑の軌跡を引きながら、翼は風を孕み、リチャードの身体をさらに上空へと舞い上がらせた。


 視覚も聴覚もなく、背中には醜い翼が生えている。

 これでは堕天使どころか悪魔だ。


 わずかに空気が揺れる。 


 見れば、バルコニーにいる執事長がライフルの弾を装填しているところだった。


 リチャードは指文字をつづり、また精霊を呼び出す。

 眼前に現れたのはランタンの光のような小さな橙色の光だ。


『お前の権限を委譲しろ』

『かしこまりました』


 その小さな光は縦に細長く伸びたかと思うと、見る間に一本の剣に姿を変えた。


『射程内です』


 精霊の声が脳に響く。

 リチャードは右手で剣の柄を握り、ポケットからコインをつかみ取る。執事長めがけて親指でコインを弾いた。


『加速!』

『カシコマリマシタ』


 執事長が引き金を引くより早く、コインは彼の額に打ち込まれた。


「ぐぅ……っ!」


 うめき声を漏らし、執事長はライフルを取り落とすと、眉間を両手で抑えてうずくまる。


 リチャードはバルコニーの欄干に着地した。

 剣を抜きはらい、鞘を捨てる。その音に呼応するかのように執事長はバルコニーに落としたライフルに手を伸ばしたが、上から見下ろすリチャードの剣先が彼の額にぴたりと向けられていることに気づき、動きを止めた。


「おれの剣があなたの額に突き刺さるのと、あなたがライフルを拾うのと……。どっちが速いだろうね」


 欄干の上で両膝を曲げ、リチャードは小首を傾げて見せる。


 ばさり、と。

 意識はしなかったが皮膜の両翼を広げたせいで、執事長の顔に影が落ちた。


「ばけものめ」

 やはり音は聞こえないが、唇の動きでわかる。


『伝えましょうか?』

 精霊の声に苦笑いを漏らして首を横に振る。


「人の妹を監禁しているのは人でなしだろ? さて。ばけものと人でなし。どっちが極悪なんだかね」


 剣先を額につきつけたまま、リチャードは目を細める。


「エイダを迎えに来た。どこにいる?」

「あの方は、ロランぼっちゃんの花嫁になりうるたったひとりの方です。返すわけにはまいりません」


 即座に言い返されたが、リチャードは一瞬呆気にとられる。


 うっかり突き立てた剣先を下ろすところだった。

 一瞬、自分の声さえ聞こえない状態なので、ひょっとしたら自分は発音を間違えて変なことをこの執事長に言ってしまったのだろうかとさえ思った。


 そこで精霊に『いま、こいつなんて言った?』と尋ねたのだが、精霊はリチャードが読唇術で読み取った内容と同じことを伝えた。


「……ロランぼっちゃんは3歳だよな?」


 慎重に、ゆっくりと口を動かす。リチャードの背翼の影を受けてはいたが、はっきりと執事長は笑顔を作った。


「もう十年もすればロランぼっちゃんとて一人前となりましょう。そのとき、エイダお嬢様は二十九歳。子どもも十分産めます」


 精霊が繰り返そうとしたから、止めさせた。想像しただけで汚らわしい。吐きそうだ。


「それは、カーミラ伯爵夫人の考えか」

「さようでございます。伯爵夫人は、ロランぼっちゃんのことを一番に考えられるお方。この世で唯一ロラン坊ちゃんのお子を産めるのは……」


「エイダじゃなくてもいいだろう!」


 執事長が眉根を寄せたところを見ると、自分の声はひっくり返り、素っ頓狂な音程だったのかもしれない。だが、すぐに執事長は感情を消す。


「一度命を失い、ふたたびから魂を吹き込まれたロラン坊ちゃんには、エイダ嬢しかいらっしゃいません。あのお嬢様は……」


『新たに敵接近の足音あり。部屋内侵入。バルコニーに近づく模様。ご主人マスター、ご注意ください』


 精霊が警戒を促す声に、一瞬気を取られた。

 視力は右目しかない。

 あのお嬢様は、の続きが読み取れなかった。


(もう一度……)


 問いただそうとしたが、火で炙られたかのような視線に鳥肌が立つ。


 執事長に向けていた剣先を下ろし、バルコニーと室内を遮る扉に顔を向ける。

 ガラス扉の向こうは闇に沈んでいる。


 リチャードの目であればなにかが潜んでいることがわからなかっただろう。

 だが、精霊の目を委譲したいま、そこに人がいることがはっきりとわかる。


 緑色の鱗粉を散らせながら、女がひとり、こちらに向かって歩いている。


 いや。

 動きを止めた。

 何かを構えている。

 狙いは。


(おれか……っ)


『射程内です。ご主人マスター、避けて』

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