第26話 戻ってこないエイダ
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「ああ、待っていたのよ、リチャード!」
ハルフォード家に到着し、馬車を降りて馭者にねぎらいの言葉をかけていたリチャードの耳に、母の声が聞こえてきた。
玄関扉を自ら押し開け、メイド長を引き連れて駆けてくる。
珍しいとリチャードは率直に思った。普段は貴婦人らしく悠然としているというのに。
「いかがいたしました、母上」
時刻はもう夜の八時を過ぎている。防犯目的のかがり火はたかれているが、それでも視界は悪い。そんな中を、長い裾のスカートをさばきもぜずに階段を下りてくる。足元が危なっかしく、リチャードも足早に彼女に近づいた。
「エイダが……っ」
リチャードの両腕をがっしりと捕まえ、母が涙を浮かべた顔でリチャードを見上げる。
「エイダが戻ってこないのです!」
「戻ってこない、とは」
困惑したままリチャードは母と、その後ろでこちらも泣き出しそうな顔のメイド長を交互に見る。
「ミルトン伯爵家より急な呼び出しがありまして……。お嬢様はいつも通り侍女を連れてご訪問されたのです。ですが……! いつもでしたら五時にはお戻りになりますのに、この時間になってもまだ……っ」
メイド長はそこまで言ってから、両手を胸の前で組み合わせた。
「道中、馬車に何かあったのでしょうか。それともミルトン伯爵邸でお嬢様になにかが……っ」
「父上は? なんとおっしゃっておいでです」
ガタガタと震えだしている母を緩く抱きしめ、リチャードはできるだけ優しい声で尋ねる。
だが心の中では不安と不穏が渦を巻き始めた。
「あのひとは今日、王宮にいます。外交官の方々と賓客のおもてなしをなさるそうで、帰りは明日になる、と。ああ、リチャード。どうしましょう」
母はリチャードの胸に顔を押し付けてさめざめと泣く。
「エイダを送った馬車と侍女も帰ってきていないのですか?」
ミルトン伯爵邸でなにかあれば、使用人たちが判断を仰ぐために戻ってきそうなものだ。
「いいえ。まったく。エイダお嬢様も侍女も……。馬車もです」
メイド長の言葉を最後まで聞かずにリチャードは声を上げた。
「執事長!」
「はい、ぼっちゃま」
屋内にいるのかとおもいきや、執事長は随分近くで控えている。
「馬に鞍を乗せてここに連れてきてくれ」
「馬でございますか?」
「馬車より早いだろう。ミルトン伯爵邸に様子を見に行ってくる。その間に、至急誰かを王宮に。父にこの状況を伝えてご指示をあおいでくれ。その返事をおれのところに」
「かしこまりました」
執事長が素早く動き出す。
「誰か拍車と乗馬用靴を」
リチャードの声に屋内から執事が飛び出してくる。その足音に母の金切り声が混じった。
「リチャード! あなたまでどこかに行くのはやめて! せめて、あのひとからの返事が来るまで屋敷で待っていてちょうだい!」
震える母の肩を撫で、リチャードは笑顔を向けた。
「大丈夫です。ひょっとしたらすぐにエイダを連れ帰れるかもしれませんしね」
「リチャード……っ」
それでも胸にしがみつく母に、リチャードは再度「大丈夫」と言って聞かせる。
ちらりとメイド長に視線を送ると、心得たとばかりにそっと母に寄り添った。
「さあ、奥様。お身体が冷えます。ここはリチャードぼっちゃまにお任せして、屋敷内で旦那様の返事をお待ちしましょう」
メイド長が母の背中を優しくなでる。
「それが伯爵夫人のお務めだとおもいますが」
そういわれては母としてもこれ以上何も言えないのだろう。ぐずぐずした様子ではあるものの、リチャードから手を離した。
その間に執事が用意した乗馬靴を履き、拍車をつけていると厩務員が馬を連れてやってくる。
「それでは留守を頼みます、母上」
厩務員の助けなしに
「父上からの指示があれば、だれかおれのところに来るように」
手綱を握り、執事長を見下ろす。「かしこまりました」と執事長は頭を下げ、つづけた。
「いってらっしゃいませ、ぼっちゃま。どうぞご無事にエイダお嬢様とお戻りなさいますように」
「行ってくる」
リチャードは馬に拍車を当て、闇の中一路、ミルトン伯爵邸に馬を走らせた。
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