第26話 戻ってこないエイダ

□□□□


「ああ、待っていたのよ、リチャード!」


 ハルフォード家に到着し、馬車を降りて馭者にねぎらいの言葉をかけていたリチャードの耳に、母の声が聞こえてきた。


 玄関扉を自ら押し開け、メイド長を引き連れて駆けてくる。

 珍しいとリチャードは率直に思った。普段は貴婦人らしく悠然としているというのに。


「いかがいたしました、母上」


 時刻はもう夜の八時を過ぎている。防犯目的のかがり火はたかれているが、それでも視界は悪い。そんな中を、長い裾のスカートをさばきもぜずに階段を下りてくる。足元が危なっかしく、リチャードも足早に彼女に近づいた。


「エイダが……っ」


 リチャードの両腕をがっしりと捕まえ、母が涙を浮かべた顔でリチャードを見上げる。


「エイダが戻ってこないのです!」

「戻ってこない、とは」


 困惑したままリチャードは母と、その後ろでこちらも泣き出しそうな顔のメイド長を交互に見る。


「ミルトン伯爵家より急な呼び出しがありまして……。お嬢様はいつも通り侍女を連れてご訪問されたのです。ですが……! いつもでしたら五時にはお戻りになりますのに、この時間になってもまだ……っ」


 メイド長はそこまで言ってから、両手を胸の前で組み合わせた。


「道中、馬車に何かあったのでしょうか。それともミルトン伯爵邸でお嬢様になにかが……っ」


「父上は? なんとおっしゃっておいでです」


 ガタガタと震えだしている母を緩く抱きしめ、リチャードはできるだけ優しい声で尋ねる。

 だが心の中では不安と不穏が渦を巻き始めた。


「あのひとは今日、王宮にいます。外交官の方々と賓客のおもてなしをなさるそうで、帰りは明日になる、と。ああ、リチャード。どうしましょう」


 母はリチャードの胸に顔を押し付けてさめざめと泣く。


「エイダを送った馬車と侍女も帰ってきていないのですか?」


 ミルトン伯爵邸でなにかあれば、使用人たちが判断を仰ぐために戻ってきそうなものだ。


「いいえ。まったく。エイダお嬢様も侍女も……。馬車もです」


 メイド長の言葉を最後まで聞かずにリチャードは声を上げた。


「執事長!」

「はい、ぼっちゃま」


 屋内にいるのかとおもいきや、執事長は随分近くで控えている。


「馬に鞍を乗せてここに連れてきてくれ」

「馬でございますか?」


「馬車より早いだろう。ミルトン伯爵邸に様子を見に行ってくる。その間に、至急誰かを王宮に。父にこの状況を伝えてご指示をあおいでくれ。その返事をおれのところに」


「かしこまりました」

 執事長が素早く動き出す。


「誰か拍車と乗馬用靴を」


 リチャードの声に屋内から執事が飛び出してくる。その足音に母の金切り声が混じった。


「リチャード! あなたまでどこかに行くのはやめて! せめて、あのひとからの返事が来るまで屋敷で待っていてちょうだい!」


 震える母の肩を撫で、リチャードは笑顔を向けた。


「大丈夫です。ひょっとしたらすぐにエイダを連れ帰れるかもしれませんしね」

「リチャード……っ」


 それでも胸にしがみつく母に、リチャードは再度「大丈夫」と言って聞かせる。

 ちらりとメイド長に視線を送ると、心得たとばかりにそっと母に寄り添った。


「さあ、奥様。お身体が冷えます。ここはリチャードぼっちゃまにお任せして、屋敷内で旦那様の返事をお待ちしましょう」

 メイド長が母の背中を優しくなでる。


「それが伯爵夫人のお務めだとおもいますが」


 そういわれては母としてもこれ以上何も言えないのだろう。ぐずぐずした様子ではあるものの、リチャードから手を離した。

 その間に執事が用意した乗馬靴を履き、拍車をつけていると厩務員が馬を連れてやってくる。


「それでは留守を頼みます、母上」

 厩務員の助けなしにあぶみに足を乗せ、鞭を受け取った。


「父上からの指示があれば、だれかおれのところに来るように」


 手綱を握り、執事長を見下ろす。「かしこまりました」と執事長は頭を下げ、つづけた。


「いってらっしゃいませ、ぼっちゃま。どうぞご無事にエイダお嬢様とお戻りなさいますように」

「行ってくる」


 リチャードは馬に拍車を当て、闇の中一路、ミルトン伯爵邸に馬を走らせた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る