第24話 ミルトン伯爵

◇◇◇◇

 

 それから十日後。

 リチャードはモノリー子爵が主催する夜会会場にいた。


 執事のひとりから受け取ったシャンパングラスを片手に、旧友を探そうと会場を歩く。だが女性たちに次々と声をかけられ、道を阻まれていた。


 今も『以前チャリティ会場でお会いしましたよね』と親し気に近寄ってきた若い女性とのやり取りに内心うんざりしていたところだった。


 リチャードの記憶では、彼女の父親はかなりの資産家で、多額の寄付をしてくれた覚えがある。むげにはできず、かといってあまりにも丁寧に応対しすぎると、『脈あり』ととられて見合い話に発展する恐れがあるので要注意だ。


(やっぱり、クラブかパブで会うんだった……)


 今晩で何度目かのため息を飲み込み、必死に笑顔を取り繕っていたリチャードの耳に、懐かしい旧友の声が聞こえてきた。


「受付名簿はチェックされているのに姿が見えないからさ。探したぞ」


 振り向くと、懐かしい顔がそこにあった。随分とのっぽのイメージだったが、数年ぶりに会ってみると身長差はほぼない。


「やあ、ハウスキャプテン。良い夜だね」


 呼びかけると、ダレンは相好を崩して笑った。


「相変わらずぼくは君を探して回る役らしいな」


 軽く手を挙げるので、ぱちりと叩く。ダレンは快活に笑うと、さっきまでリチャードにご執心だった女性に恭しく頭を下げて見せた。


「レディ。申し訳ないですが、数年ぶりの再会なのです。彼を譲ってもらっても?」


「もちろんですわ。それではまた父とお会いしましょう」


 女性はリチャードに丁寧に礼をして侍女を連れて離れて行った。


「随分とモテるようになったじゃないか、あの暴れん坊が」


 ダレンは近くの執事に合図をしてグラスをひとつ受け取ると、からかうように目を細めた。


「君はなんだか背が縮んだようだね」

「生意気なのは変わらずか」


 ダレンは手を伸ばし、ぴんとリチャードの額を指で弾く。


「急に連絡して申し訳なかったね。会ってくれてうれしいよ」


 グラスを差し出すと、ダレンは自分のグラスとかち合わせた。ちん、と澄んだ音が鳴る。


「ぼくもさ。君の噂は聞いていたが、元気そうでなによりだ」

「君もね」


 リチャードはグラスのシャンパンを一口飲む。細かい炭酸が喉を通過する時、じわりと熱を持った。それが胸まで落ち、心が温かくなる気がする。


 頼もしい上級生。その記憶がとても懐かしく、愛おしい。


「大学は?」

 尋ねると、ダレンは肩を竦めた。


「おかげさまで去年卒業。いまは父の事業を手伝っている」

「ミルトン伯爵はいま父と話をしている。終わり次第こっちの会場に来るはずだから、もう少し待ってくれ」


「待つのは全く問題ない。というか、調整してくれて本当にありがとう」


 リチャードが頭を下げると、シャンパンを飲んでいたダレンが盛大に顔をしかめた。


「よせよ。君が思うほどたいしたことはしていない。ぼくはただ、うちの夜会に参加する予定のミルトン伯爵に会わせたい人がいる、って父に伝えただけなんだから。だけど」


 ダレンは小首を傾げて今や同じぐらいの身長になった後輩を見た。


「外国の駐留貴族に君が何の用だい? 寄付でも募るのかい」

「ミルトン伯爵のお子さんのところに、義妹が家庭教師として伺っていてね。なんだかその経緯が納得できなくってさ。義妹に白羽の矢を立てた理由を聞いてみたくて」


 リチャードの言葉に、ダレンも目を瞬かせた。


「ハルフォード家のご息女が、ミルトン伯爵のお家に行儀見習いに行っている。……のではなく?」

「違うよ。うちのエイダが、ミルトン伯爵のお坊ちゃんに国語を教えているんだ」


「なんで」

「そりゃこっちが聞きたいよ」


 力なく笑い、シャンパンを飲み干す。


「しばらくぶりに実家に帰ってみたら、エイダがいそいそと出かけるからさ。一体何だと尋ねたら、『家庭教師をしている』って言うじゃないか。それもうちの父上に声がかかって、エイダをご指名だ」


「そりゃあ、君。見合いじゃないのかい? ミルトン伯爵のご子息との」


 くくくと笑うダレンに、リチャードは顔をしかめて見せる。口内ではじけたシャンパンのさわやかさが一気に消えた。


「それが3歳のぼうやだ。いったいどういうつもりなんだと思う?」

「3歳。そりゃあ……なんだろうな」


 ダレンも訝し気に呟き、視線を天井あたりに彷徨わせる。シャンデリアの光が彼の瞳をつるりと撫でるのを一瞥し、リチャードは小さく息を吐いた。若干自分の呼気がアルコール臭い。


「妙なことに巻き込まれていないといいんだが」

「ハルフォード伯爵がご健在なのにそんなことあるものか。あのジェイコブが歯ぎしりして悔しがっているんだから」


 ダレンはまた喉の奥で笑いを潰した。リチャードは目をすがめる。


「なんで奴の名前がこんなところで? この前ギャフンと言わせたと思ったのに。あいつまだエイダに執着しているのか」


「執着どころか、社交界で必死だ。いろんな手をつかってエイダ嬢と近づこうとしているようだが、ハルフォード伯爵の守りは鉄壁だ」


 ひとしきり笑ったあと、ふとダレンは真顔をになる。


「エイダ嬢は養女なんだよな? とあるところからお声がかかってハルフォード伯爵がお引き取りなさったとか」

「そう……だと、おれもきいている」


 慎重にリチャードは頷いた。ダレンは曖昧に首を縦に振る。


「ハルフォード伯爵がお引き受けなさるということは、やはりそれなりの御方がエイダ嬢の後ろにはいらっしゃるのだろうな。どうりで」

「どうりで?」


 語尾が気になり、リチャードがオウム返しに問う。


「まあ……ジェイコブのあのなりふり構わないアプローチには、確かにうんざりなところはあるんだが。とあるお方がかなり不愉快に思っておられるらしくてね。ジェイコブのお父上、ビギン伯爵がお叱りをうけたと密かに噂になっていてね」


「とあるお方」

 リチャードが促すと、ダレンは首を横に振る。


「とあるお方とはとあるお方だよ。ビギン伯爵に忠告できるほどの御方ということさ」


 リチャードは以前、父から来た話を思い出す。

 エイダの母は王家に連なる者だった、と。そちらから指導が入ったということか。


「ま。そんな御方にお出ましいただかなくとも、お前という最強のガードがいるがね」


 空気を変えるようにダレンは笑い、グラスのシャンパンを飲み干した。


「別におれだって近づく者全員をぶちのめしているわけじゃない。エイダにふさわしい男なら……」

「例えばどんな男だ?」


 空になっているリチャードのグラスもひょいと持ち上げると、近くで控えていた執事のシルバートレイに載せながらダレンが尋ねる。


「別に難しいことを言うつもりはない。彼女を一生大事に守って、幸せにしてくれる男が希望だ」

「ほほう?」


「金銭的にも身分的にも申し分なく、粗野じゃない男がいいな。あと、じじいはダメだ。好色っぽくて好かない。あ、もちろん初婚を希望する。領地はハルフォードから遠くてもいいが、タウンハウスはハルフォード家と近所がいい。エイダは最近料理に凝っているようだから、そういったことを『やめろ』といわないことも絶対条件だ。それから……」

「ストップ、ストップ」


 気づけばダレンが笑いながら手を横に振っていた。


「エイダ嬢は非常に魅力的な女性だが、君のような小舅がいるのならぼくは勘弁だな」

「別に普通のことしか言ってないだろう」


「どうだかな。そんなことなら、いっそ君が彼女をずっとそばで守っていたらどうだ」


 何気なく言われたその一言が。

 やけにぐっさり胸に刺さった。


 そんなことができればどれだけ幸せなことか。

 どれだけ安心できるか。


 自分の目の届くところで、腕を伸ばした範囲で。

 彼女の笑い声が聞こえる側で。


 ずっとエイダを慈しみ、見守っていられたらどんなにいいことだろう。


 だが。

 リチャードには限られた時間しかない。


 二十歳になれば。

 力が戻され、サイモンの配下で天使としての使命を果たさねばならない。


「ああ。ミルトン伯爵がお戻りのようだ」


 ダレンの声に我に返る。

 彼に背を押され、ともに歩き出す。会場の入り口付近。口ひげを蓄えた四十代の男がひとり、きょろきょろと周囲を見回しながら入室してきたところだった。


(彼がミルトン伯爵……)


 ダレンと並んで歩きながら、素早く観察をする。


 駐留貴族と聞いていたが、武官らしい。軍服にいくつかのメダルがぶら下がっている。部隊識別章が肩についているが、リチャードは疎かった。軍服がぴたりと胸板に張り付くほど鍛えられた筋肉を持っており、立ち姿も隙が無い。


 それなのに。

 わずかな齟齬を覚えるのは、頭髪に乱れがあることと、顎にわずかに剃りのこした髭をみつけたからだろうか。


「こんばんは、ミルトン伯爵」


 ダレンが武官の前で足を止めて声をかける。やはり彼がミルトン伯爵のようだ。


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