第23話 エイダside だってそのお兄ちゃんが邪魔するもん!
屋敷内のロランの自室に入ってすぐ、彼は得意げに絵本を取りだした。そしてエイダをきらきらした瞳で見つめると、すぐさま朗読を始める。
幼いながらもなかなかのものだ。発音にはまだ難があるが、単語を理解し、文法を把握しているからこそ、違和感はない。
「すばらしいです」
読み終わったあと、エイダは彼に対して拍手を送る。
ロランは、ぱっと顔を笑顔にすると、絵本を放り出して椅子に座るエイダに抱き着いた。
「帳面も拝見しましたが、字もしっかりしてきましたね」
柔らかな黒の髪を撫でてやりながら、エイダは褒める。
ロランが子犬のように顔を押し付けて左右に振るからくすぐったくってかなわない。
彼のまだ小さな手が時折、エイダの背中や胸に当たる。笑い声をあげて身をよじろうとした途端、ひょい、とロランの身体が宙に浮いた。
「ほーら、たかいたかーい」
リチャードだ。
背後からロランを抱え上げるや、いきなり宙に放り出すから、ロランよりも何よりもエイダが悲鳴を上げた。
「なにをなさるの、リチャード!」
真っ青になって叱るが、さすがにリチャードも〝放りっぱなし〟ではなく、しっかりと受け止めて床にロランを下すから、身体から力が抜けた。
「なにって。ご褒美に」
リチャードは悪びれずに言うと、若干動揺しているロランに笑いかけた。
「もう一回してやろうか、たかいたかい」
「ううん。ありがとう。もういいよ、おにいちゃん」
「おろす前に言っておくが、子どもだからって女性のどこをさわってもいいわけじゃないぞ」
「なんのことかわかんない」
「だったらわからせてやるがどうする」
「ううん。大丈夫」
ふふふ、あははは、とふたりは顔を見合わせて笑っている。
「……まったく」
仲が良いのか、悪いのか。
額に手を当てて漏らした吐息に、雷鳴が重なった。
エイダは窓を見る。
カーテンは開けられており、一枚ものの豪華な窓ガラスは、しとどに濡れていた。まるで滝だ。透明度が高いはずなのに、雨のせいで窓の外が歪んで見える。
「酷い雨……。馬車は大丈夫かしら」
話しかけると、リチャードも心配げに眉を曇らせた。
「風もひどいしな。……授業が終わったのなら、早めに戻ろう」
促されて、エイダは頷いた。椅子から立ち上がり、ロランが床に放り出した絵本を拾おうと腰を屈める。
だが、エイダの指が触れる前に、素早くロランが取り上げた。
「ありがとう、ロラン坊ちゃん」
にこりとほほ笑むが、ロランは不満を隠そうともせず、むっつりと口をへの字に引き絞った。絵本を抱きしめると、ぶんぶんと首を横に振る。
「だめ、エイダ」
「なにが?」
腰を屈め、首を傾げて見せる。この子がこんなに強情な顔をするのは初めてだ。
「エイダ、きっと帰ったらもう来ないもの」
「そんなことないですわ」
エイダは笑った。なんだ、寂しくなってしまったのか。手を伸ばし、ロランの頭を撫でてやる。
「また、たくさんのご本を持ってやってきます。その時、たくさんお話をしたり、遊んだりしましょう」
「いやだ! エイダはここにいるんだ! ぼくと一緒にずっと!」
つるりとした眉間にしわが寄るのを見て、エイダは狼狽した。
「また来ますわ。だって、ロラン坊ちゃんの家庭教師でしょう?」
「でも、邪魔しようとしてるもん、あいつ!」
甲高い声で口早に言われる。落ち着かせようと膝をついて、彼の小さな肩を両手でつかんだ。
「ロラン坊ちゃん」
だが、ロランの若葉色の瞳はエイダを見ていない。
どおん、と雷が近くに落ちた。肩を震わせ、拍子に背後を見る。
そして知った。
ロランが見ていたもの。
それは自分の背後だ。
リチャードを睨みつけているのだ。
「だって、そのお兄ちゃんが邪魔するもの! 嫌な奴! どっか行け!」
声に目だけ向けると、まだ幼い指でリチャードをはっきりとさしている。
「邪魔なんてしないわ。ねえ、リチャード。そうですわよね」
慌ててそう促すが、リチャードは人の好い笑みは浮かべて見せるが、頷きはしなかった。
(どうしてそんな意地悪をするのかしら)
相手は3歳の子どもだというのに。
エイダは憤然と立ち上がり、抗議をしようとしたとき、扉の向こうが急に騒がしくなってきた。
「失礼します、エイダ様。リチャード様」
ノック音と同時に姿を現したのは、執事長だ。返答もないのに扉を開けた非礼を詫び、エイダとリチャードを見上げた。
「天候が心配です。奥様より今日のところはお帰り下さい、と。馬車を用意しますのでどうぞご準備を」
「エイダ、帰っちゃヤダ! もう少し居てよ! すごろくとか……そうだ! 独楽もあるんだよ! もっと一緒に遊ぼうよ!」
ロランが金切り声で地団太を踏む。
「ロラン坊ちゃま」
執事長が言い聞かせようと腰をかがめる。そのとき
腹に響く重低音にロランが小さく悲鳴を上げて執事長に抱き着いた。なにもロランだけではない。エイダだって呼吸さえ止めて硬直した。
そんなエイダを引き寄せたのはリチャードだ。
「大丈夫だ。おれがいる。なんの心配がある」
そう言って微笑むと、いつものように頭を撫でてくれた。
不思議だと思う。
どうしてこんな単純な言葉と仕草だけで、幸福感に包まれるのか、と。
エイダにとってのリチャードのように。
自分はリチャードに、これほどの安らぎを与えられているのだろうか。
「どうぞ、嵐になる前に」
執事長の静かな声が鼓膜を撫で、エイダは慌ててリチャードから離れた。そうだ。ここはハルフォード家ではなかった、と頬を熱くして俯く。
だが、首筋のあたりをちくりと刺すような視線を感じる。
その視線に引き寄せられるように顔を向ける。
「ロラン坊ちゃん……」
唇から言葉がこぼれ出た。
執事長に抱き上げられた男児が、冴え冴えとした瞳をエイダに向けている。
いや。
エイダじゃない。
やはりあの子が見ているのは、リチャードだ。
「それでは退席させていただこう」
リチャードが静かに伝える。その語尾に落雷の音が重なった。
腹に響く重低音に、今度はロランもエイダも怯えはしない。ロランは刺すような視線をリチャードに向けているし、エイダはその意味をつかみかねて困惑していた。
エイダの知るロランは、まるでミルクと蜂蜜で作られているかと思うほど、甘くあどけない表情をした幼児だったはずだ。
それなのに。
この表情はなんだ。
「どうぞ、こちらにございます」
新たに入室して来た執事に声をかけられ、エイダはびくりと身体をおののかせた。
「さぁ、エイダ。帰ろう」
リチャードの手が背中に添えられる。服越しに伝わる彼のやさしさに、ぎこちない笑みを浮かべてエイダは執事長とロランに会釈をした。
正確には執事長に、だ。ロランの顔がなぜだか恐ろしくてまともに見られる余裕はなかった。
もごもごと退席の挨拶をし、リチャード共に廊下に出る。
数メートル先を執事が先導し、エイダはリチャードの肘をとって歩いていた。
ぱたり、と。
背後で扉が閉まったはずなのに。
まだ棘を帯びたような視線を感じ、エイダは知らずにリチャードの腕にしがみついた。
「この家庭教師の依頼の件だけどね」
そんなエイダに、リチャードが顔を寄せて小声で尋ねる。
「ええ。なにかしら」
応えた声がわずかにかすれ、エイダは咳ばらいをしてから意識して両方の口角を上げた。
「父上に依頼があったんだよね? おれのしている教育事業に興味があって……」
「ええ、そうお聞きしたわ。リチャードの教育事業の成功を知って、ぜひうちの子に教育を、と」
「だったらなぜ、おれのところに直接依頼しに来ないんだ?」
柳眉の寄ったリチャードの顔を、ぽかんと見上げる。
「え……? それは……。リチャードがお忙しいとお思いになったのでは? だからおじさまにお願いして……」
「父上にお願いするにしても、『ご子息の噂を耳にしまして、ぜひ一度お会いできる場を用意していただけないか』という風に、まずはおれにコンタクトをとりそうなものだけど……」
エイダは幾度かまばたきをし、それから当時のことを思い出しながら慎重に唇を開いた。
「おじさまから、『リチャードの噂を耳にしたらしくてね、エイダ、お前に家庭教師をしてほしいと先方が仰ってるんだ。三歳の男の子で』と……。言われてみればそうですわね……。あれかしら。リチャードが女子教育に力を入れていると聞いて、わたくしもなにかかかわっていると考えられたのかしら」
言いながらも、自分自身でもなにかちぐはぐしたものを感じる。
指摘されてみればそうだ。
貴族の子女が家庭教師をすることは珍しいことではないが、どちらかといえば家計的に少々苦しい家が行うことが多い。
(リチャードが事業をしているから、お金に困っていると思ったのかしら)
いや、それもおかしい。事業に失敗しているならともかく、リチャードは成功している。
そしてその噂を聞いて「我が子に指導してほしい」と依頼してきたはずだ。
(だったらどうして……。やっぱりわたくしを指名してきたのかしら……)
金属音がし、エイダは瞳を向けた。執事が玄関扉のノブに手をかけ、閂を外したところのようだ。
重々しい音を立てて扉を押し開ける。どおおおおん、と落雷の音がなだれ込んできた。
それと共に湿りを帯びた風が吹き込み、エイダはおもわず顔をそむける。
風は、湿気だけではなく、様々な臭いもまとってきた。馬車がすでに準備されているためか、馬のにおいや水を多分に含んだ土砂のにおいがなだれこんでくる。
その中で。
やけに甘ったるい匂いが鼻先をかすめ、通り過ぎていく。
(……なんの香りかしら)
訝しんだエイダの隣で、リチャードが足を止める。
「……リチャード?」
固い表情でとある一室を見つめる彼に、そっと声をかけた。
(あそこは……。確かサロンね)
この屋敷に招待された最初の日に通された覚えがある。
接待用の家具や異国情緒あふれる調度品が飾られた部屋で、エイダがロランを指導している間、彼女はここで待機しているはずだ。
「急ごう、エイダ。この屋敷を出よう」
柔らかな声に導かれるように彼を見上げる。
そこには、最前まであったような緊張感はない。おだやかで、エイダのほんの少しのわがままをいつも許してくれるような優しい笑みが口元に滲んでいた。
「ええ、リチャード」
エイダも頷き、ふたりはミルトン伯爵邸を後にした。
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