第22話 エイダside こんにちは、ロラン坊ちゃん
♧♧♧♧
タラップを踏んで馬車から降りたリチャードを見て、ミルトン伯爵家の執事長は驚いたようだった。
「ああ、申し訳ない。エイダの義兄のリチャードだ」
リチャードが自己紹介をし、執事長が恭しくなにか返答をしているのが聞こえる。
エイダは苦笑いをしながら、鞄を手に持った。
結局、リチャードは行くと言って聞かず、エイダと共にミルトン伯爵家に来てしまった。
連絡をする暇もなかったので、ミルトン伯爵家になんと説明しようかと思案していたが、彼自身で対応してくれるらしい。
エイダは馬車を降りるべく中腰で、客車扉をくぐる。
予想以上の曇天だ。
じっとりとした湿気が首筋にまとわりつき、エイダは顔をしかめて天を見上げた。
垂れこめている灰色の雲は膨らみ、遠くの方で白く光るのは雷かもしれない。
「エイダ」
馬車の外ではリチャードが手をのばして待ってくれている。その背後では、ミルトン伯爵の執事長が深々と腰を折っていた。
「ご連絡が遅れて申し訳ありません」
リチャードの手を取ってタラップを降りると、執事長が背を伸ばし、首を横に振る。
「とんでもございません。そもそも、我が
エイダはほっと頬を緩ませてリチャードを見上げる。
隣で肘を差し出す彼は、片目をつむって見せる。「な? 大丈夫だったろう」とでも言いたげで、エイダはまた苦笑いを漏らした。
「さ、お屋敷の方に。ロラン坊ちゃんがお待ちです」
屋敷の正面玄関に白手袋を向けて執事長が頭を下げる。
御影石でできた階段を数段上ると、樫木製の重厚な扉が見えた。
表面にいくつか
そして、客の馬車はこの正門をくぐれない。
治外法権と言われればそうなのだが、門から内側はあくまでモリアシュ王国だとしめされた気分になる。
エイダとリチャードは一旦、家門の馬車を降り、それからミルトン家が用意した馬車に乗り変えてここまで来ている。侍女は馭者とともに馬車に待機だ。
そして、広大な庭を移動し、馬車廻しで降ろされた。
初めて訪れた時は、慣れないしきたりや、屋敷自体の仰々しさに驚いたのだが、女主人から『やはり、わたしたちは外国人ですから』と言われて口をつぐむ。外交官ならではの危機意識があるのだろう。異国人としては当然かもしれない。
リチャードの腕を取って歩きながら、ふとその硬さにエイダは気づく。
もともと筋肉質で細身のリチャードだが、服越しにもわかるほど彼の腕が硬い。
(緊張しているのかしら)
だが、どうして。
義兄であり、ひとつ年上の彼はエイダの知る限りにおいて人見知りというものをしない。初めて会った時からそうだが、だれに対しても人懐っこい態度で平等に接する。それは外国人だろうが幼児であろうが一緒のはずだった。
エイダはそっとリチャードの様子をうかがう。
端整な顔立ちの青年だ。
きれいに切りそろえられた金色の髪。深い藍色の瞳は長いまつ毛に縁どられている。すっと伸びた鼻筋は高く、肌の白さも相まってまるで彫刻のようだ。
社交界デビューしてからエイダのところには縁談が舞い込むが、そもそもリチャードへの縁談のほうが格段に多い。彼と縁を結びたいと思う貴族の子女や夢みる庶民は山ほどいる。
(それなのにまったく見向きもしないんですものね……)
気づかれないようにそっと吐息を漏らす。
リチャードの頭の中には仕事のことしかない。
両親はあえて口にしないが、それには彼の親友の死がかかわっている。きっと彼の中ではまだ消化しきれない傷となっているのだろう。
そんなことをつらつら考えていると、がちゃりと扉が開く音がした。
「エイダ!」
舌足らずな甘い声で名前を呼ばれた。
リチャードともに階段を上がりきると、ロランが待っていた。
白い絹のシャツに、
「こんにちは、ロラン坊ちゃん」
鞄を置き、腕を広げて見せると、前のめりに抱き着いてきた。
おや、とエイダは目を細めた。
「随分と背が大きくなったのですねぇ」
ひと月前はエイダが膝を曲げないと抱き寄せられなかったのに、今は普通に立っていても、腹部のあたりに顔がくる。
幼児期などは、少し見ない間に成長するというが、本当らしい。
ロランは、ぎゅとエイダの服にしがみついたまま、顔だけ上げて笑った。
「うん。もっと、もっと。おっきくなる」
大きな瞳や、あどけない表情にこちらまで顔が緩む。
「まあ、そうですか。楽しみですこと」
ロランがはしゃいだ声を上げたのだが、それはリチャードの咳払いに消えた。
「あ、ロラン坊ちゃん。こちらは」
そうそう。今日はひとりじゃなかった、とエイダは笑みを浮かべたまま、顔を上げた。
わたくしの義兄の、リチャードです。
紹介しようとした言葉は喉の奥で潰える。
冴え冴えとした、凍てた視線に気づいたからだ。
リチャードは、睥睨するようにロランを見おろしている。
エイダの知る彼の瞳は凪いだ海のような色をしていた。口角はいつも緩やかに上がり、目元には優しい光が宿っているような。
そんな瞳だ。
天使に祝福された子。
天使の加護を受けた青年。
天使からの啓示を実行する貴族。
リチャードは周囲からの賛辞や期待に応えるように育った。
それは。
こんな目をする青年ではない。
ぞくり、とエイダが身体を震わせ、咄嗟に腕の中のロランを囲う。
おびえているかもしれない。
そう思って腕の中に視線を向け。
そしてまた、息を止める。
ロランは、エイダの身体に顔をうずめながら、片目だけをのぞかせて、リチャードを睨みつけていたのだ。
若葉色の瞳には鋭利な敵意しかなく、つるんとした眉間には深い縦しわが刻まれている。
うう、と唸り声を上げそうな。
若い獣のような顔。
「やあ、ロラン坊ちゃん」
強張ったエイダを解放したのは、リチャードのいつもの柔和な声。
彼はゆっくりと片膝をつくと、エイダに抱き着いたままのロランに顔を寄せた。
「初めまして。エイダのお兄ちゃんだよ」
優し気な声音や表情は、幼い子に向けられるべくして向けられるものだ。施設を運営し、自らも教育に携わるリチャードにとって、それはとても自然な行為で、自然な動きに見えた。
「こんにちは、お兄ちゃん」
エイダから離れ、ロランは笑顔を浮かべる。
それは、最前までの凶暴さなどみじんにも感じさせない、見事なまでのあどけなさだった。
少し上目遣いで、もじもじとしてみせる様子は、内気で恥ずかしがりやな貴族の子弟だ。
「ロラン、お客様にも先生に対しても失礼でしょう。さあ、中に入っておいで」
メゾソプラノの声に、エイダは弾かれたように顔を向ける。
開け放たれたままの扉には、三十代とおぼしき黒髪の女性が立っていた。
ミルトン伯爵家の女主人。カーミラだ。
痩躯に紺色のドレスをまとい、黒絹のショールを肩から羽織っている。色彩の乏しい衣装とは対照的に、口には深紅の紅が塗られていた。
「お母様!」
ロランは嬉し気に駆け戻る。
さっきまで、エイダに抱き着いていたというのに、今はじゃやれる子犬のようにカーミラのドレスにまとわりついた。カーミラは我が子の頭を撫でながらも、「困ったものね」と言いたげに口元に笑みをにじませていた。
「あのね、あのね。エイダがね、おっきくなったねって。ロランにね、言ったんだよ」
必死になってエイダとの会話を伝えようとしているらしい。
そんな姿を見ていると、さっきの鋭い視線や表情は見間違いなのではないか、と思えてきた。
(そう、よね……。なにか勘違いしたんだわ)
3才の子だ。あんな大人びた表情を作るはずがない。
愛らしい仕草に頬を緩ませ、エイダは地面に置いた鞄に手を伸ばす。執事長が「持ちます」と言うので、任せながら、ちらりとリチャードに視線を走らせた。
こちらも、いつも見慣れた表情だ。
エイダの視線を感じたのか、自然な様子で肘を差し出していた。
その彼の頬に、雫が跳ねる。
「あ……」
見上げたエイダの目にも、雨粒が落ちてきた。
「降ってまいりましたね」
執事長の声に頷くと、リチャードが声をかける。
「急ごう。濡れる」
リチャードの肘を取って屋内に入ると、ロランの声が間近に聞こえた。
「あのね、お母様、お母様」
一生懸命カーミラに話しかけている。
「はいはい、お話はあとで。先に先生方をお部屋に」
ちらりとカーミラが視線を寄こすので、エイダは会釈をして彼女の後に続く。
そして、ふと気づいた。
お母様。
視線を前方に向ける。
カーミラの隣で、ロランが顎を上げるようにして、何か話しかけていた。
『ママン!』
鼓膜を撫でたのは、前回訪問した一か月前のロランの声だ。
鼻にかかる声で、あの子はカーミラを呼んでいた。
お母様。
一か月会わないだけで、随分と成長したものだ、とエイダは目を見開く。
そういえば、足取りもしっかりしている。
以前は足裏を引きずるようにしてよちよちと歩いていた。それがいまやどうだ。スキップをしながらカーミラの前に回った。後ろ向きで歩いている。
(子どもの成長ってすごいのですね)
周囲にまだ小さな子がいなので、驚くばかりだ。
これなら、教材も彼に合わせてどんどん変えていかねば、とエイダは慌てて脳内でいくつかの参考書を思い浮かべた。
「ねえ、エイダ」
小声で名前を呼ばれ、エイダは目をまたたかせた。
「なに?」
尋ねると、リチャードが顔を寄せて来る。
「あの子、何歳だって?」
「3歳ですわ」
ふうん、とリチャードは言う。半眼のまま、視線は前に向けられていた。
「それより、リチャード。屋敷に帰ったら参考書をちょっと教えてくださいな」
「ああ、うん」
生返事にエイダは首を傾げる。
リチャードはいったい、何に警戒をしているのだろう、と。
「では、いつも通り指導をお願いいたします」
カーミラが最奥の部屋で足を止める。
ロランの自室だ。
「かしこまりました」
エイダが頭を下げると、カーミラは執事長を連れて去る。
「どうぞー」
ロランがドアノブにつかまるようにして扉を開け、あどけない笑みを浮かべた。
エイダとリチャードは彼とともに部屋に入っていった。
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