第21話 物わかりの良い兄

 夜会の次の日の朝。

 外出の支度を終えて部屋から出たリチャードは、廊下でエイダとばったり出くわした。


「あれ。どこかに出かけるのかい?」


 見たところ、エイダは外出するようだ。

 よそ行きのドレスに手袋。彼女が小さなころから付き従っている侍女は、外出用の大きな革鞄を持っていた。


「今日はミルトン伯爵のお屋敷に。リチャードもどこかに?」


 エイダは首を傾げる。

 リチャード自身も、帽子さえ頭にかぶればいつでも外出できる格好だ。昨晩の商談を終えれば、数日は屋敷でゆっくり過ごす予定だった。なにより現在は休暇中だ。


 だからエイダと共にどこかに行こうかと準備をしていたのだが。


「いや……、君と一緒に動物園でもどうかな、と。そのあと食事とか……。今から誘おうと思っていたんだ」


 苦笑いして顎を掻いた。


「動物園!」

 素っ頓狂な声は、エイダの背後から聞こえてくる。視線だけ向けると、侍女だ。


「およそ淑女をお誘いするところとは思えませんが……」


 ぼそりとこぼした声は、明らかにリチャードに向けられている。なんだよと思わずたじろいだ。だって昔からエイダは動物園が好きだったじゃないか、と。


「動物園……っ」

 エイダが呟くので、おそるおそる彼女に視線を向ける。


「嫌いだったかい?」

「いいえ! すっっごく、行きたいんですけど!」


 目をきらきらさせてエイダは前のめりになったが、侍女に咳払いをされて、しょぼんと肩を落とした。


「今日は用事がありますの。明日ではいけませんの?」

 悲し気に提案するエイダに、リチャードは大きく頷いた。


「もちろん。休暇はまだいっぱいあるからね」


 ほうら、エイダの好みはおれが一番知っているんだ、とばかりに侍女を見やるが、侍女の方はあきれ返ってリチャードとエイダを見ている。


「まったくお嬢様。あなたはもう、幼子ではないのですよ?」


 つらつらと説教じみた言葉を並べる侍女に、エイダはさらに眉を下げる。


「お茶会かなにかかい?」


 助け舟を出そうと、リチャードが話を断った。


 上着を右ひじにかけたまま、リチャードが藍色の瞳を向ける。スラックスに合わせたベストは身体にぴたりと沿っており、ぴんと張った背筋や意外にしっかりとした胸筋が服越しにもわかる。


『あれだけ会合や文書作成に追われているというに、お前はいつ鍛えているんだ』と同僚の貴族には不思議がられているが、いたって普通の生活を送っているに過ぎない。


「お嬢様はひと月前から、乞われてミルトン伯爵家で家庭教師をなさっておいでなのです」


 侍女がしかめっ面で応じる。

 なぜ名家の娘が労働をせねばならんのか、とその顔には書いてあった。


(そういえば、父上が昨晩、そのようなことを……)

 リチャードは顎をつまみ、ふとエイダに問う。


「ミルトン伯爵、というのは……? ちょっと聞き覚えが無いんだが」


 若いとはいえ実業家として名をはせ、かつ、ハルフォード家自身も伯爵位を有している。それなのに知らない家名ということにいろいろ不安を覚えた。


「モリアシュ王国の、駐留貴族なのだそうです」

 エイダが答えた。


「ああ、外国の……」

 そうだ。父は、外国人貴族の子弟相手に、家庭教師をしていると言っていた。


「外交特権を持つ貴族だそうで……。おじさまを通じて、『自分の子にこの国の言葉を教えてやりたい。ついては、ハルフォード家のご令嬢にお願いするのは失礼だろうか』と申し出られたそうです。ほら、リチャードが教育施設を経営しているでしょう? それをどこかで聞いたらしくて」


「なるほど。それでは伯爵と聞いても知らないのは無理はないか……。そのご子息に国語を?」


「ええ。まだ、2回しか会っていませんが、話し言葉は全く問題ありません。母国語もこの国の言葉も話せるのですが、書くのが難しいそうで……」


「……え。ちょっと待て。その子、何歳で性別は?」

 口早に尋ねると、エイダの背後ではため息が聞こえた。


「3歳のご令息です。エイダ様のお相手になるには、まだまだ条件が整わないのではないでしょうか」


 侍女が渋い声を出し、エイダは笑いだす。リチャードは自分の頬が熱くなるのを自覚しながらも、咳ばらいをした。


「どんな教科書や本を使っているの? うちの施設が使っているようなもの?」


 つっけんどんに手を伸ばすと、エイダはまだ笑みを含んだまま、侍女を振り返った。


 今では老女といって差し支えない彼女は、革製の鞄をエイダに差し出す。ミルトン伯爵の長男のために使用している本や帳面、筆記具がそこに入っていた。


「音読用にはこれを。そこから単語を拾って、帳面に記入しておりますが……。まだ三歳ですからね。文字を書くといっても、まだまだ」


 エイダは鞄を右ひじにかけ、左手で一冊の絵本を取り出した。

 この国では知らぬものはない昔話を記したものだ。


 受け取ろうとして。

 自分の肩が、びくり、と震える。


(え……?)


 匂いが、したのだ。

 あの甘ったるい匂い。 


 喉の粘膜に絡み、いがらっぽくさえ感じる独特のあの匂い。

 堕天使の、匂い。


「どうしましたの?」

 気づけば、不安そうにエイダが自分を見ていた。


「年齢的にも教材としては問題ないと判断したのですが……」


 リチャードの反応を見て、戸惑ったらしい。

 これを国語のテキストとして使用することは間違いだったろうか、とエイダが無言で尋ねている。


「……いや、結構。そうか、三歳の幼児ね。いいんじゃないか?」


 リチャードは取り繕うように微笑んだ。だが、絵本を手に取ることも、中身を確かめることもしたくない。


 似ている、と思った。

 あの。

 ジャックの命を奪った堕天使の匂いに。


「ええ。ミルトン伯爵のご令息ロランです」


 エイダは絵本を鞄に戻しながら、繰り返す。

 そのとき、ふわりと、開口部からまたあの甘ったるい匂いが立ち上る。


「ねえ、エイダ」


 気づけば、そう呼びかけていた。

 もう、鼻腔にも鞄からも匂いは消えている。


「おれも一緒に行っていいかな、その伯爵家に」

「………は?」


 エイダは侍女と声を揃えて尋ねた。


「いや、ほら。そういえば、外国人に国語を教えるって、なかなか面白い試みだなっておもってね。うちの施設だってそういった子を引き受けることもあるじゃないか、今後。後学のために重要だと思うな、うん。見ておきたいし、エイダが教えてるところも見てみたいし」


 まさか堕天使が関与しているから気になる、とは言えない。

 つらつらと説明をしてみたが、侍女とエイダから冷たい視線を向けられ、大変不本意だ。


 どうも三歳のこどもに嫉妬した、と思われている。リチャードは口を尖らせた。


「……父上からの紹介なら安心かもしれないが、おれはまだ会っていない。安全かどうか確認したい。それだけだよ」

「相手は三歳ですよ」


 侍女があきれている。


「年齢は関係ない」


 リチャードは言うなり、肘にかけた上着を広げた。これ以上話しても無駄だ、と行為で示してみせる。


 ばさり、と、羽音に似た音を立てて羽織り、ふたりに背を向けて歩き出す。ついでに手のひらの魔法陣が見えないように手袋をはめた。


「行こう、エイダ」

 返事も聞かずに廊下を歩きだすと、エイダの笑い声が追いかけてきた。


「もう、リチャード」

 声と一緒に、どんっと勢いよく後ろから抱き着かれた。脚だけ止めて、振り返る。


「なに」

 エイダはリチャードの背に、ぎゅっと顔を押し付けていた。


「わたくしに嫁に行ってほしいのですか? それとも行ってほしくないのですか?」


 尋ねるエイダは、決してこちらを見ようとしない。


 抱き着かれたときよりも。

 エイダのその問いの方が、心に衝撃をもたらした。


 嫁になど行って欲しくない。

 咄嗟にそんなことを言いかけたからだ。


「……エイダをひとりにしたくないだけ」 


 随分と長い沈黙の後、ようやくリチャードはそう返した。

 エイダが一瞬だけ強く、リチャードの背にしがみつく。


「ひとりにしないために、誰かをあてがうんですか」


 エイダの震える声は、リチャードの心臓を凍らせた。


 そうじゃない、そうじゃない。

 首を振って説明をしたい。


 本当はエイダの側に誰も寄せ付けたくはない。おれがずっとそばにいてやりたい。


 だけど。


 だけど、おれには時間がないんだ、と。

 君の側にいられるのは、あと一年しかないんだ、と。


 だから。


 だから、おれが安心して……。全幅の信頼を置けるやつに、君を守ってほしいんだ。

 おれの代わりに、君のそばにいて欲しいんだ。


「ほら。……あんまりくっついていると、また侍女に小言を言われるよ」


 誤魔化すようにリチャードは陽気に笑い、自分の腰に回るエイダの手を、ぽんぽんと叩く。


 物分かりの良い兄に見えただろうか、と思いながら。

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