第19話 エイダの秘密

□□□□


 その日の晩。

 自室で、礼状を書いていたリチャードは、百合に似た甘い香りにペンを止めた。

 次いで、ホヤの中の灯が揺れる。


 顔を上げると、サイモンが立っていた。


「何の用だ」

「お前に用があったわけではない」


 腕を組み、つまらなそうに鼻を鳴らされた。一瞬、きょとんとしたが、すぐに気づく。


「ああ、エイダの……」


 背後に視線を向ける。

 カーテンをひいた向こうにはバルコニーがある。隣はエイダの自室兼寝室で、そこにも同じようにバルコニーがあった。


 いま。


 きっと天使が窓ガラスに手を添え、エイダの寝室を覗こうと張り付いていたに違いない。


 サイモンはそれを追い払ってきたのだ。


「おれが王都にいる間も、ずっとこうだったのか?」


 リチャードはペンを置き、椅子の背にもたれた。凝りのせいか、ひどく肩甲骨まわりがだるい。ゆるく可動域に沿って動かしていると、サイモンはさらに不機嫌な顔を作った。


「おい。別にわたしは、あの娘の守護でもなんでもないぞ」

「それはわかっているよ。エイダに寄って来る天使を追い払っているだけなんだろう?」


 呆れて応じると、心底嫌そうな顔で眉間にしわを寄せる。


「堕天しかねない勢いだぞ、あいつらは。なんなんだ」


 それはリチャードの方こそ知りたい理由だ。


 エイダに天使が近づいて来る。

 そのことに気づいたのは、アリステス校を辞めてしばらくのことだった。


 堕天使から受けた傷も癒え、実業家として動き始めたものの、まだ王都に伝手つてはなく、屋敷にいて出来ることから手を付け始めていたころ。


 夜になると天使がバルコニーにやってきて、エイダの様子を窺っていることに気づいた。


 当初、エイダの寿命が尽き始めて、天界から迎えに来たのかと仰天したが、どうやら違うらしい。


 天使たちは。

 ただを覚えているようなのだ。に。


 しかも一体ではない。

 数体が、かわるがわるやってきているのだ。


 その態度は、かなりあからさまなものだった。


 リチャードが見てもわかる。

 彼等は好意を、いや、好意以上の色欲でもってエイダを見ているのだ。


『信じられない』


 サイモンなど唾棄すべき行為だと言わんばかりに嫌悪感を露にしているが、リチャードには危機意識しかなかった。


『襲われたらどうするんだ! どうにかしてくれ!』


 ああ穢らわしい、と顔をしかめるサイモンを焚きつけ、自分でもエイダに集まる天使をひっ捕まえて説得を試みたことがある。


『堕天してまで、行為に及ぼうとは思わない』


 天使たちは、首を揃えて言う。

 人間と情を交わすのは堕天の行為にあたる。彼らもその一線は理解しているようでリチャードは安堵し、サイモンはつまらなそうに鼻を鳴らした。


 そして、天使たちは一様に言うのだ。


『自分でもどうしてあんなに執着するのかわからない。あの娘は特別なのだ』

 サイモンはただ、冷たくそんな同胞に言い放った。


『では近寄らぬことだ。配置換えを申請してやろう』


 そうして、天使たちは次々とこの区域から離れるのだが。

 新たに赴任してきた天使がまたエイダに執着するのだからたまったものではない。


 サイモンなど、最早リチャード付きなのか、エイダ付きなのかわからなくなっている。


 というのも、いまとなってはリチャードに害を及ぼそうとする堕天使が、ほぼいなくなっているからだ。


 理由は明白だ。

 サイモンがほふったからだ。


 もともと堕天してまでリチャードの命を狙ったのは、前世のリチャードが彼らの同胞を殺害したからに他ならない。


 転生後は天使に害を加えることもなかったので、数自体は増えることはない。


 リチャードが十代半ばになるころには、命が危ぶまれるようなことは無くなっていた。


 そのせいか、サイモンがリチャードの元に現れるのは定期観察と嫌味を吐きに来るぐらいになっていた。


 入れ替わるように、新たに出てきたのはエイダの問題だ。


 堕天使は見つけ次第殺害しているサイモンだが、同胞が堕天するのは見逃せない。サイモンとて、元同胞を喜んで殺しているわけではないのだ。


 未然に防げるのであればいくらでも手を貸すつもりらしく、誰に命じられるでもなく、エイダに集まる天使たちを散らしていた。


「なんだろうなぁ……」


 さらに深く背もたれに上半身を預けると、ぎしりと椅子が鳴った。

 なぜ、エイダに天使が執着するのか。


「サイモン自身は、エイダに興味はないのかい?」

「わたしをその辺の雑魚ざこと一緒にするな」


 鼻にしわを寄せて叱られた。


「今夜来ていたやつは、顔を真っ青にして『もう二度としません』と言っていたが……。若造ならまだしも、あんな中堅まで来るとは……。みんな、どうかしている」


 サイモンは腕を組み、鼻を鳴らす。

 エイダ自身も、なにか気配は感じるらしい。


 そういえば、ジャックがリチャードの部屋に泊まった時、深夜バルコニーに出てみると、彼女自身も何かを探すように出てきたことを思い出す。


 今のところ、堕天してまでエイダに手を出そうとする天使はいないが、今後もそうとは言い切れない。なにか対策を練らねば。


(人間の男もややこしいが、天使もうっとうしいな)


 しかも、その理由がわからないときている。

 がしがしと頭を掻くと、「おい」とサイモンが声をかけて来た。


「人が来る」


 姿を消すのかと思ったら、サイモンは壁際に移動しただけだ。ということは、天使が見えない人間、ということだろう。


 数回のノックが室内に響き、リチャードは返事をする。


「まだ起きているのかい」

 やって来たのは、ナイトガウンを羽織った父親だった。


「もうすぐ寝ます。これを片付けて」

 リチャードは机の上から礼状を取り上げ、微笑んで見せた。


「無理はいけないよ。せっかく家に帰って来たんだから、ゆっくりしなさい」


 廊下に出てみたらリチャードの部屋に明かりがともっているのを見て、様子を見に来ただけだらしい。穏やかな表情の父は、そのまま扉を閉め、退室しようとする。


「あの、父上」


 咄嗟にリチャードは立ち上がった。

 父は訝し気な表情をしたものの、動きを止めて息子を見る。


「エイダのことなんですが……」


 そう声をかけると、口をへの字に曲げて苦笑いした。

 扉を閉め、リチャードの方に近寄って来る。


「夜会の件かい? いや、わたしやお前がいたらあの子に声をかける男も減るんじゃないかと気を利かせたつもりだったんだが……。まさかジェイコブがいたとはね。あの子を怖がらせたんじゃないだろうか」


 エイダの側から離れ、リチャードに迎えを頼んだことを弁解し始めた父に、リチャードは慌てて首を横に振った。


「いえ、そのことでは……」

「じゃあなんだい?」


 心底不思議そうな父に、リチャードは切り出した。


「エイダは、どうして我が家に迎えられることになったんでしょう」


 ふ、と。

 父親の顔から表情が消える。


 いつものリチャードなら、ここで引き下がったかもしれない。『いえ、なんでもありません』とごまかすか、あるいは父親が自ら打ち明けるまで待っていたことだろう。


 今まではずっとそうだった。

 両親がエイダの素性について語るまで、ずっと黙っていた。


 黙っていただけで、気にはなっていた。

 なぜ、エイダは引き取られたのだろう。伯爵家の養女となって。


 それは常につきまとう疑問だったが、父は『妹のように接しなさい』と言っていたし、母はそれに倣った。


 〝良い子〟ならば、親に従うべきだ。


 リチャードは、父の言う通り、母がするようにエイダを妹として扱ってきた。


 だが、ここに来て。

 彼女の存在が不可思議でならない。


「エイダ自身がなにか言っていたかい? 悩み事とか」

 机を挟み、向かい合う。


「困り感は……、抱えているのではないでしょうか」


 あながち間違ってはいないだろう。数年前から、『誰かに視られている気がする』と訴えていたのだから。


「そうか」


 リチャードの慎重な物言いに、父は深いため息をひとつ漏らすと、手近な布張りの椅子に座る。偶然にもそこはサイモンの側で、彼は父の顔を覗き込み、片頬を歪めて笑った。


「老けたな、人の子よ」


 だが、やはり父にはその声も姿も見えていないらしい。顔を一撫ですると、足を組んでリチャードを見る。


「エイダの母親というのは、それはそれは高貴なお方でね」


 おもむろに話し始めた父に、リチャードは無言で頷いた。

 伯爵家が「それはそれは高貴」というのだ。あるいは、王族の出身かもしれない。


(……そういえば、縁談に他国の王室からのものがあったな)


 顔には出さないまでも、リチャードは内心たじろいだ。あの話にがぜん信ぴょう性が増した。


「ただ、非常にお身体が弱かった。成人するまで心臓がもたないと言われて、ご親族は泣く泣く女子修道院にお入れになったのだ。その方が、御心安らかに過ごせるだろう、と」


 父親は椅子に深くもたれ、リチャードというより、その背後のカーテンを見ているようだ。瞳は茫洋としている。


「そこで、懐妊かいにんしてしまった」

「懐妊……、ですか。女子修道院で?」


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