第18話 リチャードの将来
「それでは、今後も義妹と仲良くしてやってください」
リチャードは朗らかに笑うと、エイダの背に手を添えて歩き出した。
「またね、エイダ」
「おやすみなさい」
シルビアとライラに会釈をし、エイダはリチャードに伴われて会場を扉に向かって歩く。
「エイダ」
耳に口を寄せて名前を呼ぶと、エイダは驚いて背をのけぞらせた。端整な顔をゆがめるから、むっとする。
「腕を取れ。ちゃんとエスコートがいることを会場内に知らしめないと、またエイダに近づこうと、よからぬ有象無象が……」
がるがると唸らんばかりにリチャードはせわしなく周囲に視線を走らせた。
「あれがエイダ嬢か」
「秘された珠とはよくいったものだ」
会場の青年たちの声が聞こえて、やきもきする。
「……わたくしへの視線よりも、リチャードへの熱視線の方がはるかに多いでしょうに」
エイダはため息をつく。
確かに、淑女たちの興味本位な視線には気づいているが、別にどうってことない。笑顔で無視をしていればいいのだ。
エイダは肩を竦め、リチャードの腕を取る。
それだけで満足だった。
翼の中に雛を囲った猛禽類のような顔でリチャードは会場を闊歩する。
「楽しかったかい?」
会場を抜け、玄関に向かう廊下を歩きながら、リチャードが尋ねる。
「そうですわね。もう少しリチャードの到着が遅ければ」
そっけなく言い放つから、リチャードは藍色の瞳をぱちぱちとさせた。
「まだ友人たちと話し足りなかったのか。まったく、ジェイコブは……!」
確かに女子というものはいつまでもいつまでも飽きずに話をしては茶を飲み、菓子を食うものだ、とリチャードは理解している。
きっと時間不足だったのだろう。ジェイコブがちょっかいをかけたりしてくるから熱心に話ができなかったのかもしれない。
「……昔から思っていましたけど、リチャードって、なんかずれてますのよね」
はあ、とエイダはため息を吐き、すれ違う貴婦人に丁寧に礼をした。
貴婦人の隣にいた娘がリチャードを認め、きゃあと小さく悲鳴を上げる。
慌てて口元を両手で押さえたが、リチャードが微笑んで会釈をすると、卒倒しかけて壁にもたれかかる。よかった。静かになった。
「リチャードは? 楽しかったのですか?」
リチャードの腕を取って歩きながら、エイダが尋ねる。その口調に咎めるような色が滲んでいて、リチャードはきょとんと眼を丸くした。
「楽しかったって、なにが」
視線の先でエイダは口をすぼめ、もごもごと言う。
「会食とか……。どうせ、どこかの令嬢が同席されていたのでしょう? さっきだって、夜会会場に入った途端、あの騒ぎだし……」
普段は寄付金や、財団の知名度を上げるために、国中を走り回っている。
いわば仕事だ。あまり楽しくはない。
連れて来られていた豪商の娘も、会食に花を添えるために呼んだだけだろう。深い意味はないに違いない。
「別に。同席されたご令嬢は、服飾に興味がおありなんじゃないかな。おれの服をやけに褒めていたから。あ、でも、店の食事はおいしかったな。今度、家族で行こう」
このところまとまった休暇が取れていない。明日は妹と美味しい料理を食べに行くのもよさそうだ。
そう思って誘ったのに、そういう意味じゃない、とばかりにため息をつかれた。
(なんなんだよ、もう)
せっかく迎えに来てやったというのに、と思う一方で、リチャードが笑いかけようが、食事に誘おうが、いつもと同じ態度のエイダが好ましくて仕方ない。
他の婦女子のように「きゃあ」と悲鳴を上げるでもなく、肉食獣のような目でリチャードを見るでもない。その態度が心地よい。
ただ、腕に絡むエイダの手を見て、少し寂しい。
昔は自分の名前を呼びながら、いつも体当たりするようにまとわりついていたのに、と。
ふたりで玄関を抜け、馬車廻しに向かうと、まだ冬の気配を色濃く残した風が吹きつけて来た。エイダが身体を震わせるので、リチャードは慌てて上着を脱いで肩にかけた。
「いいですわ。リチャードが寒いでしょう?」
驚いたようにエイダが目を瞠るから、リチャードは笑って首を横に振る。
「おれは大丈夫。それより、客車の中は温かいから、急ごう」
そう言い、エイダの手を握って小走りに駆けだした。
こうやって手をつないで走っていると、小さなころのようで、心の奥がこそばゆい。
「待たせたね」
口から出た呼気が白く煙る。リチャードは、馭者に声をかけた。
「とんでもございません、坊ちゃん。おかえりなさいませ、お嬢様」
馭者が恭しく頭を下げる。
「ただいま。待たせて申し訳なかったですわ。風邪などひかないといいのだけど」
エイダがひとことふたこと馭者に声をかけると、古参の彼は満面の笑みを浮かべた。寒さで鼻が赤くなっているが、他の馭者に対して誇らしげに胸を張り、客室の扉を開ける。
「身体が丈夫なことだけが自慢なんです。さ、お嬢様、リチャード様。どうぞ」
エイダは小さく頷いて、客車に入る。
リチャードの知る限り、こんなに身分を気にせず話す貴族というのはいない。以前、ジャックがハルフォード家は誰に対してもフラットだと言っていたが、エイダもそうだ。誰に対しても対等であり、優しい。
そう。
リチャードにだけ優しいというわけではないのだ。
なんとなく胸に痛みを感じながら、リチャードは馭者に声をかけた。
「じゃあ、出してくれ」
「かしこまりました」
リチャードが乗り込むと、扉が閉まる。
少しの振動のあと、馬車は走り出した。
「まだ寒いかい?」
客車内に光源はないせいか、暗い。
伯爵邸の敷地内を走っているせいで、ところどころ設えられたかがり火の明かりが窓ガラス越しに入るが、道路に出てしまえば、暗闇に沈むだろう。
「いいえ。大丈夫ですわ」
上着にくるまり続けるエイダは、見るからに寒そうだ。
それなのにエイダは首を横に振り、上着をきつく身体に巻き付けた。
「さっきの話ですけど」
エイダが切り出す。
「どの話?」
斜め向かいに座るリチャードは、エイダに向き直った。視線を向けると、するりと躱される。
「ライラが言ったことです。リチャードも早く身を固めてはどうか、という……」
「ああ」
リチャードは苦笑いし、脚を組む。今度は自分が顔を車窓に向けた。
「わたくしの見合いには不満がおありのようですけど……。リチャード、あなた自身はどうですの?」
「おれ? いやあ」
リチャードは言葉を濁した。
顔は窓に向けたままだ。
馬車は敷地を出たらしい。
途端にエイダが口を閉じる。
ゆっくりと。
リチャードは身体を動かさずに、視線だけ移動させた。
客車は一気に闇に飲まれ、エイダの姿は近くにいるのに朧に見える。
だが、言葉の続きを待っているように感じた。
「仕事が忙しいし……。あと一年で確実に軌道に乗せたいし……」
重い空気を振り払うようにリチャードは笑って見せた。
「その間に、おれが安心してエイダを預けられる誰かを見つけなくちゃいけないしさ。自分のことなんて考えられないよ」
「まるで、なにか急いでいるみたい」
エイダが漏らした言葉に、リチャードは凍り付く。
ジャック・ハーパーを失ってから。
リチャードはカウントダウンが始まったようにがむしゃらに動き始めていた。
周囲の大人たちは、まだ十代なのに勲章を授けられたり、事業で実績を上げるリチャードを見て、「将来が楽しみだ」と言うが。
リチャードに将来などない。
二十歳になれば。
この世界から出ていくのだ。
いや、本来の力を与えられ、開放されるのだ。
(だから、それまでに……)
それまでに、エイダを守ってくれる誰かを探さなくては。
自分の代わりに庇護し、安らぎやぬくもりを与えてくれる誰かを。
「……リチャード」
「どうした?」
気づけば上半身を傾けて、エイダが自分の手を握っていた。
「わたくし、また、ひとりになどなりませんよね?」
「もちろんだよ。なんで、そんなことを言うんだ」
リチャードは笑う。
薄暗がりの中、消えてなくなりそうなのはエイダの方に思えてならず、リチャードは必死に彼女の手を握り返した。
「だって、怖いんですもの……」
か細い声は、震えている。
「まったく、もう」
リチャードは、わざとらしくため息交じりに言うと、中腰になってエイダの隣に席を移動した。
「暗闇が怖いのは、昔のままだな」
きっと、そうだ。
互いの顔がわからない、この薄暗がりが悪いのだ。
それがリチャードを不安にさせ、エイダを怯えさせているに違いない。
手をつないだまま、もう片方の手で、緩く頭を撫でてやる。
「このまま、闇の中にリチャードが溶けていなくなる気がする」
エイダはリチャードの肩に額を寄せた。
どきり、と心臓が拍動する。
こんなに側にいたら、その音に気付かれそうだ。
「大丈夫」
強張った顔で。だけど、声だけは陽気にリチャードは言う。
「隣にいるじゃないか」
その時。
ふと、鼻腔を甘だるい香りが一瞬かすめた。
反射的に手を握りしめたのかもしれない。エイダが驚いたように顔を上げる。
同時に、馬車がわずかに揺れた。石でも踏んだのだろう。
「ごめん。びっくりして……」
リチャードは誤魔化し、また、エイダの髪を撫でる。
(また、あいつらが来ているのかもしれない)
天使たちだ。
最近、王都にばかりいたのでエイダの周辺に気が配れていなかった。今夜あたり様子を見てみよう。
リチャードは片腕でエイダを抱いたまま、馬車の窓に視線を移す。
そこには凝ったような闇が、ただ広がっていた。
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