第17話 十九歳のリチャードはエイダが心配
「エイダ嬢、久しぶりですね。お元気でしたか」
悪童の面影などすっかり消した彼は、人のよさそうな笑みを浮かべてエイダに話しかけている。
ジェイコブ・ビギン。
大学には進学せず、父の伯爵位を継いだ彼は、アリエステ校時代の取り巻きたちと共に数年前から社交界に顔を出すようになった。
別にそれは構わない。
家柄以外は取り立てて目立つものをもっていない彼は、リチャードにとって意味はない。関わらないようにしていれば今後ずっと顔を会わさずに生きていける。
それなのに、ジェイコブの方から近寄って来るのだ。
エイダを目当てに。
「はじめまして、エイダ嬢。これはジェイコブが執心するのがわかる美しい令嬢だ」
男たちはエイダを挟むように両脇に立ち、にこにこ顔で話しかけていた。
「なにしろハルフォード伯爵家の
「秘されたものほど美しいとは、本当のことなのですね」
エイダは困ったように目線を下げ、「ご冗談を」と薄く笑んでいた。
「今度、ぼくら一緒に観劇に行くんですよ。どうです、一緒に?」
「それはいい。行きましょう」
勝手に話しを進めようとするジェイコブとその友人に、エイダは首を横に振って見せた。
「そのようなお約束をここでするわけにはいきません」
「いいではないですか。あなたの兄はぼくにとってアリエステ校時代の親友ですよ」
いけしゃあしゃあとジェイコブが言っているのを耳にして、リチャードは怒りを通り越して呆れた。
あれだけジャックと自分のことをいじめ倒していて、よくもそんな嘘がつけるものだ。
(ああ、そうだ。こいつは悪い奴だった)
改めて思い直すと、妙に醒めた。
リチャードはスーツを整えながらも近づき、こほん、と咳払いをする。
「そういうことは、まず身内の男を通して申し込みをしていただきたいものだな」
ジェイコブとエイダの間に割って入り、リチャードは冷たく言い放つ。
「やあ、リチャード。久しいな、元気だったか?」
両腕を広げるジェイコブに一瞥だけくれる。ハグなど誰がするか。
「君とおれはそんな仲ではなかったろう? 誰かに記憶でも改竄されたのかい?」
「確かに互いに誤解はあったようだが、それも過去のことだ。水に流せよ、心の狭い男だな」
しれっとそんなことを言うものだから、かちんときた。
「君の言うとおり、おれは心が狭いんだろう。だからさっさと妹の目の前から消えてくれ」
眉根を寄せ、睨みつける。
「できれば金輪際、エイダに話しかけるな」
一切の言葉を寄せ付けないリチャードの態度に怯えたのは、ジェイコブの連れの男のようだ。ジェイコブの袖を引っ張り、「行こう」と小声で促すが、ジェイコブは微動だにしない。
リチャードの目を見返し、逆に睨みつけてくる。
「人が下手に出てやっていればいい気になりやがって」
「ほら見ろ、本性を出しやがって」
鼻を鳴らすと、ジェイコブが一歩踏み出してきた。だがリチャードも下がらない。自分の方が頭ひとつぶん大きい。上から睥睨してやる。
「ぼくがお前の妹なんかに本気になるわけないだろう。社交界でちやほやされているからそれにあわせてやっただけだ」
「ああ、そうかい。だったら他の女のところに行けよ」
リチャードが言い放つと、ジェイコブは片方の唇だけを吊り上げるようにして嗤った。
「お前の妹、私生児だっていうじゃないか。いくら外見がきれいでも、父親が分からなくっちゃなぁ」
ジェイコブがちらりとリチャードの背後にいるエイダを見て吐き捨てる。
「母があばずれなら、子もそうだろうし。せいぜいハルフォード伯爵の名を穢さないように気をつけろよ」
反射的にジェイコブの襟元を掴み上げ、右こぶしを握り締めた。
ジェイコブの連れが悲鳴を上げ、リチャードがその拳を叩きつけようとした矢先、ぱしゃり、とジェイコブの顔に液体が浴びせられて動きを止める。
「ハルフォード伯爵家を侮辱するなら許しません」
凛とした声が聞こえて、リチャードは視線を移動させた。
エイダだ。
グラスのシャンパンをジェイコブに浴びせたらしい。
紫色の瞳に怒りを宿し、睨みつけている。
「それに義兄を挑発するようなことをおやめください。ここはサリエル子爵夫人を祝う場ですよ」
「まったくその通りですわ。どうぞお引き取りなさって」
エイダの隣に並んだのは、サリエル子爵夫人の令嬢、シルビアだ。その背後には彼女と、そしてエイダの友人であるライラも控え、凍てつくような視線をジェイコブに向けている。
彼女たちだけではない。
会場中の視線がジェイコブとその連れに向けられていた。
「ふん……っ。行くぞ」
リチャードの手から逃れ、ジェイコブは顔からシャンパンを滴らせながら連れと共に足早に立ち去って行った。
「お騒がせいたしました。もう大丈夫ですので」
シルビアが会場中に笑みを振りまくと、誰もが会釈をして再びそれぞれの会話に花を咲かせ始める。リチャードはほっと息を吐き、左胸に右手をあてて深々とふたりの令嬢に頭を下げて見せる。
「大変失礼いたしました。こんばんは、シルビア嬢、ライラ嬢」
リチャードは、エイダの友人たちに恭しく頭を下げて見せる。
「こんばんは、リチャードさま」
「良い夜ですね、リチャードさま」
シルビアもライラも、笑顔で応じてくれたのでリチャードだけではなくエイダも安堵したようだ。
「わたくしからもお詫びします」
「いいのよ、エイダ。あのひと、最近あなたに付きまとっていてわたしたちも案じていたのだし」
「お兄様が来てくださってよかったわね」
むしろ、シルビアもライラもエイダを労わってくれる。エイダは曖昧にうなずいてから、その紫の瞳をリチャードに向けた。
「今日はお仕事だとお聞きしましたけど」
朝食の席で、『多額の寄付をしてくれる豪商と会食をする』と言ったのをエイダは覚えていららしい。
「急遽、父上に予定が入ったとかで連絡をもらってな。会席を中断して、お前の迎えに来た」
「まあ。それでは、おじさま……。お義父さまはもう、会場におりませんの?」
慌ててエイダは、視線を見回した。
さっきまでは危うい空気に対応できるように紳士たちがこちらに視線を寄こしていたが、いまは淑女たちが隙あらばリチャードに話しかけようと様子を窺っている。まるでメスライオンの群れのようだ、とリチャードは感じていた。
「たぶん、エイダに出会いの場を、とおもったんじゃないの? おじさま」
「それなのに、やってきたのはジェイコブ卿で……。もうがっかりね」
シルビアとライラが扇を広げ、エイダに耳打ちをしている。
心当たりがあるのか、エイダが目を見開いていた。
(なんてことだ、父上)
リチャードだけが歯ぎしりをしていた。
父としても、エイダの婚期のことを心配してくれているのだろう。
同い年の友人が婚約したこともどこかで聞いたのかもしれない。
そこでこの夜会に連れ出し、自分はそっと立ち去ったのだ。出会いがあるようにと願って。
ただ、迎えの必要性は感じていたから、息子に「会食が終わったら、迎えに行ってくれ」と言伝をしたのだろうが。
「おれの到着が遅れてジェイコブがエイダに害をなしていたらどうするつもりだったのだ、父上は……っ」
拳を握りしめるリチャードに、エイダは呆れた。
「害をなすって……。それより、会席を中断の方が心配ですわ。それでお仕事が務まりますの?」
リチャードは真面目な顔で頷いた。
「義妹の一大事だ、と素直に伝えたら『それは大変だ』と、笑って送り出してくれた」
「信じられない。恥ずかしい……」
彼のシスコンぶりは、貴族階級だけではなく、市井にも知れ渡っているらしい。エイダは頭を抱える。
「なにがだ。妹を心配するのは普通だろう。ああ、そうだ。どうやらどなたかがご婚約されたようで。おめでとうございます」
リチャードが笑顔で
「それはきっとわたくしですわ。ありがとうございます。早くリチャードさまも身を固められ、落ち着かれますように」
「おれですか? いやあ、それはエイダが片付いてからですね」
困ったもんだ、とばかりに首を横に振るリチャードを見て、女子三人は盛大にため息をついた。
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