2章
第16話 十九歳のリチャード
◇◇◇◇
五年後。リチャードは十九歳になっていた。
彼を乗せた馬車はようやくとある子爵の屋敷に到着したところだった。
リチャードは馭者が扉を開けるのももどかしく、客車から飛び出す。
「すぐに戻って来るから」
ネクタイを整え、片手をあげて伝えると、古参の馭者は苦笑いを浮かべて恭しく頭を下げた。
リチャードは馬車廻しを足早に進む。
たくさんのかがり火が焚かれているため、視界は悪くない。屋敷からこぼれ出る様々な光も相まってかなり明るい。
服装に乱れはないかどうか、リチャードは、ざっと自分の姿に目を走らせた。
身体にぴたりと沿ったジャケットとスラックスは、先月購入したものだ。
アリステス校にいたころは、毎年のように服のサイズが合わなくなっていたが、それも十六歳までだ。十九になった今、身長はそんなに変わらないが、筋肉は目に見えてしっかりとついたような気がする。
母の背丈はとうに超え、気づけば父を見下ろしている。
天使サイモンとも視線の高さは同じで、それに気づいたとき、彼は心底嫌そうにわざわざ顔を顰めて見せた。
成長期が終わると、服は単純にステイタスを表す道具になった。
その場その場に合わせた服を用意し、家門を汚さぬよう。そして、相手に恥をかかせないためだけに身に着けている。
ジャックの一件後、リチャードは学校を退学し、現在の肩書は実業家だ。
『ジャック・ハーパー財団』を立ち上げ、女子のための就学施設を寄付金だけで設立した。
今後、その庶民のための就学施設を運営・継続するためには事業を行わなければならない。ここ数年はその慈善事業のために国内を奔走している。
施設はまだ運営して四年しか経っていないが、初の卒業生たちが有名大学に進学したり、今まで男性しかいなかった建築士になるなど、多方面で活動をしている。
つい先月、その慈善事業の功労を称え、国王よりナイトの勲章を授けられたばかりだった。
(そういえばあのときも、着る服が大変だったな……)
つい顔を顰める。
王室から服装指定はないと言われたが、それなりに値の張る衣装で来い、と暗に伝えられた。
面倒くさい話だ。こういうとき、学生は制服があるから羨ましい。
リチャードは、ジャケットのボタンをしめながら、小さく嘆息をする。
この服も、テイラーが着こなしを絶賛していたが、自分としては動きやすいから愛用しているだけだ。
さっき会食に参加していた豪商の娘は、しきりにリチャードの容姿を褒めていた。ということは似合ってもいるのだろう。
自分ではよくわからない。エイダや母からは特になにも言われなかったが、テイラーの回し者かと思うほど、あの令嬢は高評価ぶりだった。
(まったく父上ときたら……。初めから迎えをおれに頼むつもりなら、仕事の会食など入れなかったのに)
ふん、と鼻から息を抜く。
正面玄関へと続くアプローチへ進むと、目ざとく執事のひとりが姿を認めた。
「これはこれは、リチャードさま」
恭しく礼をされるので、営業用の笑みを浮かべた。
「妹のエイダが父と共に来ていると思うんだが……」
足を止め、小さく首を傾げて見せる。
執事の隣で、まだ年若い青年が参加表に目を走らせ、頷く。
「ですが、ハルフォード伯爵はもうお戻りに……」
「そうなんだよ。用事を思い出したとかで……。信じられるかい? おれにあとは任せたって連絡だけよこしてきて、妹の迎えをよろしくって言うんだぜ?」
執事たちは顔を見合わせ、お愛想の笑みを浮かべた。
「それはリチャードさま、さぞかしご心配であったことでしょう」
「エイダさまは、ハルフォード家の
リチャードは肩を竦めて、サリエル子爵の屋敷の中に入った。
(夜会会場は、奥か……)
廊下は音楽で満ちている。
子爵の母上の誕生を祝して開かれた夜会だ。
招待されたのは父であったが、子爵の令嬢シルビアは数少ないエイダの友人ということもあって、母ではなくエイダを伴ってやって来たらしい。
聞いた時は、見合いでも兼ねているのかと疑ったのだが、どうやら違うらしい。そこで、安心してリチャードは大口の寄付を期待できそうな豪商との会食を入れたというのに。
(独身男がうろうろしていそうなところに、エイダを置き去りにするとは)
考えるだけで、不安で仕方がない。
リチャードにとっては時折厄介でうっとうしい存在だったが、貴族社会ではエイダの可愛らしさは有名だった。
これは社交界デビューが楽しみだ、という声が聞こえてくるたび、リチャードは苦々しく思っていた。
有象無象の男たちが好奇心や色欲の目でエイダを見るのがおぞましく、反吐が出るほど嫌悪していた。
一生屋敷の中に囲っていたい、デビューなどしなくてもいい。
そんなことは口にはしないものの、態度には現われていたのだろう。いつの間にか「ハルフォード家の御子息はシスコンだ」などと根も葉もないうわさが立った。
だが、月日は誰にとっても平等に流れる。
エイダが社交界に十四歳でデビューをした途端、見合いの話がたくさんハルフォード伯爵家の元に舞い込んだ。嘘か本当かはわからないが、とある国の皇太子からもあったという。父に確認したが、はぐらかされた。
エイダは、整った顔だちだけではなく、長い手足や透けるような白い肌。絹糸のような銀髪が魅力的な美人に育った。
養女といえど伯爵家が後ろ盾になっている。血はつながっていないものの、実業家として成功した兄のリチャードもいる。また、エイダ自身も聡明で、その美声やピアノの腕前は宮廷内で知らぬものはなかった。
高位の貴族はこぞって縁談を申し込んだのだが。
それを、いろんな理由をつきつけて「義妹にふさわしい相手ではない」とはねつけているのは、やっぱりリチャードだった。
『女の子というのは、いつかは嫁にいくのですよ』
母は呆れてリチャードに諭す。
『いい加減にしないか。行き遅れたらどうするきだ』
父は苦笑いを通り越して、苦虫をかみつぶしている。
解っている。当然だ。年ごろの娘というのは、十代後半で結婚するものだ。
だいたい。
リチャードだって、二十歳までしかこの世界にはいられないのだ。
だからこそ「彼こそ義妹にふさわしい」と思う男の元に嫁いでほしい。そうして彼女の一生を守り、寂しさなど感じさせぬような愛情で包んでやって欲しい。
そのために、リチャードは家族の誰よりも、いや、世界中で一番厳しい目で義妹に近づく男たちを
「これは、リチャードさま」
夜会会場前で、執事長が頭を下げた。
「こんばんは。素敵な夜ですね」
笑顔で挨拶をし、会場に入る。
音の奔流がリチャードの身体を囲み、そして通り過ぎていく。
(エイダは……)
ざっと見る限り、年配者が多いようだ。さもありなん。子爵の母の誕生日だ。招待客も自然と高齢になるというものだろう。
リチャードは、ほっと詰めていた息を吐く。
自分の感じていた「エイダ貞操の危機」は杞憂だったのかもしれない。父も、この年齢層ならばエイダを残して離れても大丈夫だと踏んだのだろう。友人同士、楽しませてやろうと思ったのかもしれない。
リチャードがきょろきょろと会場を見回したら、華やいだいくつもの声が聞こえた。
咄嗟に顔を向ける。
北側の壁の近くだ。
三人の娘たちが、くっつきあってはしゃいでいた。
そのうちのひとりが、エイダだった。
「よかったわね。幸せに」
そんな声が聞こえて、リチャードも『ああ、誰か婚約したのか』と思った。
会場にいる参加者たちもエイダたちがはしゃいでいる内容がおおよそ想像ついたのだろう。中年の女性たちはほほえましく目元を緩ませ、中高年の男性たちは興味を失くして、ふたたび額を突き合わせ、宮廷の情勢について話し続ける。
リチャードは、義妹たちの方に近づこうと足を向けたのだが。
「まあ、リチャード様! よい夜ですわね!」
「ごきげんよう! わたくし、以前お会いしたことがありましてよ!」
「きゃあああああああ。なんて麗しいお姿なのでしょう!」
気づけば、色とりどりのドレスを着た淑女たちに取り囲まれる羽目になった。
「こんばんは。本当によい夜で……。ええ、よく覚えておりますよ、レイチェル嬢。ああ、ありがとうございます。貴女のお姿こそ、素晴らしい。すみません、ちょっと前を……」
どけ、散れ、近づくな、と言うわけにもいかない。
この令嬢たちの背後には、巨万の富を持つ両親がいるのだ。
その両親たちが、いつなんどき、リチャードが経営する財団に寄付するかもしれない。むげにはできない。
それに〝よい子〟はきっとそんなことはしない。
淑女を敬い、丁重にもてなし、大事にするものだ。
リチャードはできるだけ紳士であろうと努めながらも、自分を取り囲む婦女子がどんどん増えていくことに若干の恐怖を覚えていた。
(あ……っ! こんなことをしている間に……っ)
気づけば、エイダの周囲にふたりの青年がグラス片手に近づいているではないか。
リチャードは、
(……しかも、あいつ……っ)
リチャードは眉根を寄せる。
いま、親し気にエイダに話しかけているのは、ジェイコブではないか。
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