第15話 ジャックの夢

「確かに不幸なことが重なり、お前が幾人かの天使を殺したことは事実です」


 火照った頬をシエルの掌が包む。

 親指でそっと涙を拭ってくれた。ひやりとしたその感覚が血液を通じて身体に伝播し、リチャードの心臓を冷やす。


「お前のような個体は、から出てくる前に、本来であれば消滅させられるはずでした。事実、そのようにされているのですから」


 静かに自分を見つめるアイスブルーの瞳を見つめ、リチャードは涙声で言う。


「おれは生まれるはずじゃなかったってこと? だったら……」


 その場で、殺せばよかったじゃないか。

 殺してほしかった。


 呟くリチャードを、シエルはしばらく無言で見つめていた。


「実際、他の創造主はそう言いました。お前も覚えているでしょう? 捕らえられ、断罪されたあの場を」


 リチャードが頷く。

 押さえつけられ、捕縛され、両の手首を切り取られたときのことだ。


 シエルはリチャードから離れ、また椅子に深く腰掛けた。


「お前はこの個体わたしを見て、サイモンかと尋ねましたね。その通り、天使の容姿というのはどれも似通っているのです。似通った個体しか生まれないように調されているのです」


「だったら、どうして……」


 自分は、生まれたのだ。


 耳も聞こえず、目も見えない。

 翼さえ、誰とも違う。あんな状態で。


「わかりません。わたしたちは、銀色の髪とアイスブルーの瞳。白い肌に長身痩躯の個体が生まれるようにプログラミングし、その際、をしていました。おなじように、禁忌を破ると人間たちに可視化され、羽根が黒くなり、目が赤くなるようにも仕組んだ。もしそのような個体が下界に出現したら駆逐するよう、駆逐専門の天使も組織しました」


 シエルは静かに続ける。


「本来、お前は生まれるはずではなかった。しかし生まれた。そして禁忌を犯してもお前の羽根は黒くならず、目も赤くならない」


 シエルの声は淡々としていたが、リチャードを見る瞳には、堅く剛い芯のようなものがあった。


「お前は生まれたのです。そして生きている。生物とはなんとで、多様性に満ちているのか、とわたしは驚嘆しました」

「生まれなければよかった」


 リチャードは嗚咽交じりに言葉を吐きだした。包帯の巻かれた両こぶしで目を覆い、呻く。


「生まれなければ、誰も殺さなかった。ジャックだって、死ななかった」

「生物は、いつか死ぬのです」


「じゃあ、おれが代わりに死ねばよかったんだ!」


 怒鳴りつけたつもりだったのに、声は喉でつぶれ、慟哭どうこくに変わる。


「ですが、お前は生きています」


 シエルは声に力を込める。


「お前は今後も〝良い子〟として生きねばなりません」


 どれぐらい泣いていただろう。

 喉が枯れ、瞼が腫れて、頭に血が上ったようにぼんやりとした状態で、リチャードはシエルの凛とした声を聞いた。


「残念ですがジャックは死にました」

「………ジャック……。彼は良い子だったのに」


「そうですね。彼は、彼が果たしたかった夢をかなえることはできませんでした。大事に抱えていた未来を、彼は道の途中で落とすことになったのです。それはつらいことです。ですが、お前は生きている」


 力なく拳を下ろすと、濡れた視界にはシエルが映る。

 アイスブルーの瞳が、穏やかにリチャードを見つめていた。


「お前は、ジャックとかけがえのない時間を過ごしました。彼と共に道を歩んできた。お前がなすべきことは、ジャックが落としてしまった夢や未来を、代わりに運ぶことではないのですか? 次世代へとつなぐことではないのですか?」


 腕が伸び、長い指が額に張り付く前髪をかき上げてくれた。


「生物はそうやって進んできたのです。誰かの思考をつなげ、誰かの創造性と結びつける。それが進化であり、発展であり、誰かが生きた証であると、わたしは考えます」


 濡れた視界の先で、シエルはわずかに首を傾げた。さらり、と銀色の髪が流れ、砂漠の流砂のようだ。


「リチャード。お前は良い子に育ちました。良い子のお前であれば、なすべきことはきっとわかるはずです」


 リチャードはゆっくりとまばたきをする。

 大粒の涙が頬を伝う間、シエルが言った言葉を心の中で復唱した。


 ジャックの夢。

 ジャックが大事に抱えていた思い。

 ジャックが途中で手放さざるを得なかった未来。


「ああ。あの子が戻ってきますね」


 シエルは不意に立ち上がり、扉の方に顔を向けた。


「あの子?」


 リチャードが尋ねると、シエルはわずかに戸惑いを瞳に滲ませた気がした。


「あの娘も少し気になるところがあります。注意して守ってあげなさい」

「注意……?」


 訝し気に問うリチャードを躱すように、シエルは一転、柔らかく微笑む。


「お前のことをずっと看病していたので、なかなか姿が現わせられませんでした。兄想いの良い子ですね」


 耳を澄ますと、足早に近づく音が廊下から聞こえてくる。あの足音は、エイダだ。


「手の包帯を換えに来たのでしょう。わたしはもう戻ります。リチャード」


 名を呼ばれ、リチャードはシエルを見た。


「がんばりなさい。お前は強い。そして」


 ふふ、とシエルは口元に笑みをにじませた。


「とても興味深い。励みなさい」


 それだけを告げ、シエルは姿を消した。


「……エイダ?」


 その後、はばかるように静かに開いた扉から姿を現した小さな影に、リチャードは呼びかけた。


「リチャード! 話せますの⁉」


 驚いた声を上げて駆けよってきたのは、やはりエイダだ。両腕に抱えていた藤籠を枕頭台に置くと、勢いが良すぎたのか中の包帯がいくつかベッドまで転がり落ちてきた。


「お医者様が、話せるようになるには数か月かかるって……。ああでも、よかったですわ!」


 エイダは布団越しにリチャードに抱き着き、泣き始める。


 リチャードは手を伸ばし、彼女の銀色の髪を撫でるのだが、包帯越しのせいでなんの感触も伝わってこない。それがもどかしくて、「エイダ」と名前を呼ぶ。


 彼女は涙で濡れたままの顔を上げた。瞳が紫水晶のようだ。


 桜貝のような色の唇が、わなないたかとおもうと、今度は首に抱き着いてくる。


 勢いが良すぎて喉を圧迫され、ぐふ、と小さく呻いたが。

 エイダの長い髪が頬に触れる。彼女自身の香りが鼻先をかすめ、リチャードは心のこわばりが緩む気がした。


 切実に願っていた感覚が与えられ、目元が潤む。

 だが、同時に痛烈な罪悪感がせりあがってきた。


 自分のせいでジャックは死んだというのに。

 なぜ、自分はエイダに癒されているのか、と。


「リチャードが生きててよかった」


 涙交じりの声でエイダはいい、盛大に鼻をすすった。

 抱き着いたままなので、彼女の放つ熱がそのままリチャードに伝わってくる。湿気て熱いが、不快ではなかった。


「おれは……、生きててよかったんだろうか」


 おもわず呟くと、エイダが勢いよく上半身を起こした。

 紫眼に睨みつけられる。咄嗟にたじろぎ、唇を噛んだ。


「ひとりぼっちじゃないって言ったくせに!」


 怒鳴りつけられ、記憶が揺さぶられる。


 そうだ。

 初めてエイダに会った時のことだ。


『この子の家族はみんないなくなってしまったから、うちで引き取ることになったよ。ひとりぼっちなんだ』


 父に説明されたとき、小さな小さなその幼女は、リチャードを見上げて尋ねたのだ。


『わたくしはまた、ひとりになるの?』

 と。


 あの時、確かに答えたではないか。


『ならないよ。君は、もうひとりぼっちじゃない』


「わたくしに、ひとりじゃないって言ったくせに! どうして死んで……どこかに行こうとしますの⁉」


 エイダは叫ぶと、無茶苦茶に殴りつけてきた。


「ごめん。悪かった……。ごめん」


 ぽかぽかと頭や胸、胴体を殴られながらも、リチャードは必死に謝罪を繰り返した。


 そうだ。

 自分は確かに、この娘に約束した。


 ひとりにしない、と。


「ごめん、エイダ」


 ゆっくりと上半身を起こすと、腕を伸ばして彼女の身体を緩く抱きしめる。


 エイダは抵抗しなかった。

 暴れもしなかった。

 ただ胸にしがみつき、ひたすら泣き声を上げていた。


「どうした。大丈夫か」


 騒ぎを聞きつけたのか、ナイトガウンを羽織った父親がランタンを手にして入って来る。その後ろにいるのは執事長だ。


「坊ちゃん。お目覚めになったのですか」

「なにか、飲み物を」


 父親は執事長に命じ、自分自身はベッドに近づいてきた。


「父上、お願いがあるんです」

 エイダを抱きしめたまま、リチャードは父親を見た。


「声が……。良かった。心配していたんだよ」


 エイダと同じく父親もしばらくはリチャードの声を聞くことはないとあきらめていたのだろう。安堵の色を見せると、さっきまでシエルが座っていた椅子に腰かけ、穏やかに頷いた。


「お願いとはなんだ。言ってみなさい」

「学校を辞めたいんです」


 腕に抱いていたエイダが身じろぎをする。


「辞める……とは?」

 父親が困惑したように瞳を揺らせた。


「やりたいことが、あるんです」


 シエルは、リチャードに『お前は良い子に育ちました』と言った。


 で、あるならば自分は約束通り、二十歳になれば力を再び与えられ、本来の任務に戻るはずだ。


 シエルの指揮下のもと、サイモンの配下でなんらかの任務をこなすことになるだろう。


 天使とはそういう存在だ。


 あと六年後。

 それまでに、ジャックの大事にしてきた志を果たさねばならない。


 彼が道途中でなしえなかった志。

 それを自分が代わりに抱え、進むのだ。


 そのためには、悠長なことをやっていられない。

 時間が無いのだ。


「お願い、します」

 リチャードは睫を伏せ、父親に頭を下げた。


「どうしても、かなえたいことがあるんです」


 ジャックの、夢を。

 ジャックの望む未来を。

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