第13話 ジャックを助けて

 たたかえ。


 その音が。空気の振動が、リチャードの身体に痺れに似た刺激を与えた。

 言い知れないほどの寒気に襲われる。


 その刹那。

 どくり、と心臓が力強く血液を身体に流した。


 熱い奔流が指先まで伝わる。

 冷感を駆逐した。

 脳の奥底で、昔の記憶が震えた。揺れた。覚醒した。


 たたかえ。


 それは、最初に組み込まれた指示。


 同時に。

 視界が奪われる。


 目の前が真っ暗になった。


 時を同じくして。

 音が消滅する。


 無音。


 ぴりり、と。

 服から露出した肌が刺激を送る。

 ささくれができたまま、塩水に手を浸したような痛み。


 リチャードは腕に抱えていたジャックを、そっと床に横たえる。


 ぎゅ、と靴の中の足指に力を込めた。片膝立ちになる。


 顎を上げる。

 方角はあちらだ。

 見えない。


 だが敵は、あそこにいる。


 どくり、と。

 身体中に力が満ちるのがわかる。


 脳天からつま先へと血流が流れ、その熱が力をたぎらせた。


 懐かしい。

 気づけばリチャードは片頬を歪め、牙を剥いていた。


 今ならわかる。


 そうだ。

 まだ名前もなく、ただ、『戦え』という命令のみをがむしゃらに実行していたあの頃。


 自分は、のだ。


 喉元辺りに刺激を覚え、リチャードは身体をねじって横転する。数秒もたがわず、爆風が右からきた。すぐに立ち上がり、すん、と空気を鼻から吸う。


 あっちだ。

 濃密な白檀の香り。


 リチャードは素早く印を結ぶ。決められた手法通りに指を曲げ、絡ませ、離し、握った。


 そうして唸る。

 契約を履行せよ、と。


『お呼びですか、ご主人マスター


 懐かしい声は脳内に直接響いてきた。

 今となっては、性別のわからぬ声だ。精霊とはそういう存在なのかもしれない。


『お前、目はあるか』


 後転をする。とんっと手のひらで床を跳ね、連続攻撃をかわす。空気の動きと匂いで堕天使の位置を探りながら、リチャードは唸り声を上げた。


『ございます。ひとつ目ですが』

『かまわん。寄こせ』


『かしこまりました。権限をマスターの右目に委譲いたします。ただし、感覚器を重複して委譲することはできません』


 言い終わるや否や、リチャードの右目に衝撃がきた。


 慌てて踵に力を入れ、踏ん張る。危うく転倒するところだったと、舌打ちする。


 すぐに右目から視覚情報が脳へと流れ込んでくる。


『……これが、お前の視覚なのか?』 

 思わず口をへの字に曲げた。


『このように見えるのですが、ご主人には違和感が?』

『ありありだ』


 吐き捨てる。

 人間として獲得した視覚とはだいぶん違う。


 まず、色が乏しい。


 世界は白と黒。それから深緑しかない。

 光を反射したものが白く浮かび、それ以外は、黒だ。そして、動くものは深緑色の微粒子をまとっている。


『権限を引き下げますか?』

『いや、利用する。聴覚援護をしろ』


『かしこまりました。目下、ご主人の敵は真上でございます』


 リチャードは顎を上げる。

 右目に強い光を感じて目を細めた。片手で光を遮る。


 堕天使との攻防に建屋自体が耐えきれなかったらしい。屋根が半壊し、朝陽がなだれ込んでいる。


『来ます。3、2……』


 梁から堕天使が漆黒の翼を広げて急襲しているところだった。いつの間に取り出したのか、長槍を縦に構え、矛先でリチャードを貫こうとしていた。


 リチャードは舌打ちをし、後ろに飛びすさる。


 床にサイモンの姿はない。天界に戻ったのだろう。男たち数人は爆風で壁へと飛ばされていた。


 建物自体が揺れる。

 堕天使が羽ばたいたのだ。


 音がなく、視覚情報だけだと、まるで眩暈を起こしたような感覚になる。


(ジャック。ジャックは……っ)


 風圧に耐えながら、片目で探す。

 ジャックはリチャードが横たえた位置にいたままなのを確認し、ほっと頬を緩めた。


 だが、彼が男たちのように爆風で吹き飛ばされなかったのは、胸を貫通した梁の先端が床板にひっかかっているだけなのだと気づき、再び絶望した。


ご主人マスター。来ます』

 精霊の静かな声に、リチャードは目を転じる。


 目の前だ。

 堕天使は、槍をまっすぐに繰り出した。


 風の動きが先立ち、リチャードの頬や首を撫でる。


 半身になって躱すとともに、掌底を撃って槍の軌道を変えた。そのまま、後転して間合いを確保する。


 その間を縫って、堕天使が槍を反転させ、柄の方でリチャードの首を打ち据えにくる。


 一歩、大きく右に避け、床を蹴って上へ飛ぶ。


 ばさり、と。

 がした。


 これもリチャードには懐かしい感覚だ。

 そうだ。、サイモンのように。堕天使のように、


 まだ名前が無かったあの頃。

 確かに、自分の背には空を飛ぶための翼が。


 追撃しようとした堕天使が動きを止め、愕然としたように宙に浮かぶリチャードを見る。


 訝し気に目を細めた先で、堕天使が口をぱくぱくと開閉した。


(音が……)


 聞こえない。


『おい。堕天使はなんて言っている』


 表情から察するに、リチャードの背翼を見て驚いているらしい。


『その翼はなんだ、と』


 リチャードは首をねじり、自分の背後を見る。


 見て。


(これが、おれの翼……?)


 己でも茫然とする。

 今まで視覚がなかったからか、初めて


 それは、誰とも違う翼だ。


 天使サイモンのように純白でも。

 堕天使のように漆黒でもない。


 そもそも。

 羽毛がない。

 まるで、蝙蝠こうもりのようだ。


 薄い灰色の皮膜が背中から伸び、翼骨を覆っている。

 半壊した屋根から漏れいる朝日を受け、血管が透けているのさえ見えた。まるで標本だ。


 ばさり、と。

 宙にとどまるために羽ばたくそれは、なめし革のようだった。

 あまりにも異質。あまりにもほかのものと違いすぎた。


『来ます』


 精霊の声に、慌てて背をのけぞらせる。その紙一重を、槍の穂先がかすめた。


 急な動きのせいか。

 それとも、自分でも醜悪だと思ったためか。


 翼は消え、リチャードは床に転落する。


 したたかに右半分を打ち付けながらも、両手で素早く印を結ぶ。口を大きく開け、吠えた。


『お呼びですか、ご主人様』


 なんだか舌足らずな声が脳に直接響いてきた。最初にリチャードが獲得した精霊だ。


『権限を委譲せよ!』


 部屋中央に白銀の光を放ちながら魔法陣が現れ、ふわり、と細身の刀身を持つ剣が現れる。

 あの精霊の魔力は薄弱だったが、見事な刀剣を守っていたのだ。


 リチャードは剣をつかみ取ると、堕天使に向き合う。


「ジャックの命を返せ。まだ、お前が持っているんだろう」


 牙を剥き、凄む。

 耳が聞こえないせいで、自分の発声さえおぼつかない。


 ただ、ぎらぎらと睨みつけた。


 この堕天使は、もともと魂を天界に運ぶ役目を担った天使だったはずだ。

 であるならば、マックスの魂もジャックの魂も、こいつが持っている可能性がある。


(間に合う。いまならきっとまだ間に合う)


 大きな梁の木片で身体を貫かれ、絶命している親友を見た。額から流れ出る汗を、首を振って飛ばし、両手で柄を握りこむ。


 堕天使の唇が動くが、聞こえない。


『ちくしょう! あいつはなんて言ってるんだっ』


 怒鳴った瞬間、穂先が動く。

 リチャードは間合いを取り直し、再度構え直す。


『悪いが声が聞こえない! 話し方を変えてくれ!』


 だが、堕天使が精霊のように直接脳内に語り掛けることはない。


 申し出を拒否するように、唇をぱくぱくと動かすばかりだ。

 リチャードは必死にその口の動きを読んだ。それも片目ではみづらい。


「その子は、マックスと共に天界に行くんだ」


 唇はそんな動きをしている。

 堕天使は槍を構え直すと、膝を曲げて腰を落とす。紅玉石の瞳が、揺るがない意志を宿してリチャードを見据えていた。


「行かない。行かせない。ジャックは、この世界に必要な人間だ!」


 この発声方法では、自分自身の声さえ聞こえない。


 ちゃんと話せているのか。

 ちゃんと伝わっているのか。


 伝わっているのに。

 なぜ、理解してくれない。


 返せ。

 返してくれ、ジャックの魂を!


 リチャードは焦りながらも、じり、と間合いを詰める。


 片目では視界が狭い。

 視覚情報も違う。色がない。慣れない。


 ちり、と右側から熱感を覚える。視線を移動させようとした矢先、精霊が告げた。


『火が放たれました』

『な……っ!』


 狼狽して周りを見回す。

 堕天使の翼から黒い羽が舞い散るたび、それは火の粉となり、室内をいぶして発火させている。


 堕天使はまた、リチャードに対してなにか言う。

 訴えている。


 だが。


「わからない、わからない!」


 リチャードは必死に首を横に振った。


「なにを言っている⁉ なぜ、こんなことをする‼ 火を消せ!」


 自分はちゃんと話せているのか?

 自分はなんて言っている?


 なぜ。

 なぜ、伝わらない。


「やめろ! ジャックが燃える! 身体が無くなる!」


 白煙にかすむ視界で、リチャードは悲鳴を上げる。


『権限を委譲しろ! 聴覚を寄こせ!』


 精霊に命じた。


『これ以上の権限移譲は、わたしの存亡にかかわります。視覚と交換しますか?』


 冷静に問われて、リチャードは咆哮をあげた。


『両方くれ‼ 両方だ‼ 時間が無いんだ!』

『できません』


 熱風がリチャードを包囲する。

 リチャードは必死で指文字をつづる。


 風を操る精霊がいた。彼を呼び出し、炎を吹き消してくれないだろうか。焦燥したまま必死にジャックを探す。


「ジャック! ジャック、どこだ!」


 悲痛な声を放ったのに。

 自分の声が聞こえない。


 そればかりか、喉に流れ込んだのは強烈な痛みだ。


 剣を取り落とし、口を両手で塞ぐ。

 発作のような咳が連続して肺から飛び出した。身体をくの字に曲げ、悶える。指文字をつづるどころではない。喉を掻きむしった。


「火を消してくれ! ジャックが!」


 涙を流し、嗚咽を漏らし、顎を涎で汚しながらリチャードは叫ぶ。


『敵、消失』

 精霊が淡々と告げた。


 同時に、刺すような魔力の気配が消えた。

 リチャードは咳き込みながら首を巡らす。


 真っ白だ。何も見えない。


『探せ! 堕天使を探せ!』

『視覚の権限は、ご主人がお持ちです』


 冷静に告げられ、リチャードは握った拳で床を殴った。その手が熱い。

 床にまで火が回っている。


(ジャックを……っ!)


 身体さえあれば。

 ジャックの魂を取り戻せば。


 ひりつく喉で喘鳴を繰り返し、リチャードは床を這う。匂いをたどろうとしても煙が邪魔をする。位置的にはあっているはずだ。ジャックの身体を。


 ジャックの身体。


 リチャードは必死に手を伸ばす。


「誰かいるのか⁉」


 急に音が戻ってきた。

 聞きなれない野太い声は、同時に木の爆ぜる音や、大勢の怒号。足音を連れてきた。


「ジャックを!」


 ジャックを助けて、と言いたかったのに、喉から搾り出たのは、か細い掠れ声だ。


「誰かいる! こっちだ!」

 白煙が動き、農夫たち数人がいきなり目の前に現れた。


「ジャック……」


 リチャードは呟くが、たくさんの腕に身体を掴まれ、持ち上げられた。移動させられながら、リチャードは何度も何度も唇を動かす。


 ジャックを、助けて。


 聴覚も、視覚も戻ってきたのに。

 今度は、声が出ない。


 瞳から滂沱ぼうだの涙があふれ。

 そして、意識を失った。

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