第12話 力を戻す、戦え

 リチャードが見上げる先で、堕天使はルビー色の瞳を見開き、牙を剥いた。


「父から暴力を受けて瀕死の幼児なのに……! その男たちはこの子を売買するために引きずって行こうとしたのだ! 信じられるか⁉ それだけじゃない! 髪をつかまれて、泣き叫ぶその子を見ても! 村の奴らも何もしようとしなかった! 助けてやらなかったんだ! いつもそうだった! 見捨てたんだ、同胞を! こんな幼い子を!」


 怒声は屋内を揺るがし、粗末な建屋全体を振動させた。

 茫然と立ち尽くしていたジャックは、肩を震わせてリチャードを振り返る。


「死……、死んでるってどういうこと⁉ あの男の人たち、眠ってるんじゃ……。 え! この風はなに⁉」


 建屋が揺れるのを暴風のせいだと思っているらしい。ジャックはマックスを庇うように上に覆いかぶさった。白い羽根が舞い、霧のように揺れる。


「証文……。この子、売られる予定だったのか……」


 男たちの首元に触れたとき、リチャードは懐に入っていた紙に気づく。

 素早く抜き取り、視線を走らせた。


「売られる? マックスが?」


 ジャックが目をまたたかせたが、すぐにその顔が沈む。


 そんなバカな、と否定などできない。

 ジェイコブも言っていたではないか。

 今年、この村は不作だったのだ、と。


 村人がたくさん売られる。

 困窮しているジュードなど、早々に子どもを手放したかったに違いない。


「この子が生まれた意味はなんだ! 痛みや苦しみを味わうためだけに、天主てんしゅは命を与えたもうたのか!」


 漆黒の翼を震わせ、堕天使が慟哭どうこくする。紅玉石の瞳から涙があふれ、リチャードは言葉を失った。


 今まで。

 なんの疑いもなく堕天使というのは〝悪〟だと思っていた。


 実際、天使サイモンはそう言っていたし、慈悲も許しもなく、滅してきた。


 彼等はリチャードを明確に標的にしており、『人の皮をかぶった、罪悪人め』と、怒りに目を燃やして襲い掛かってきた。


 その理由など。

 考えたこともなかった。


 なぜ堕天したのか。

 そんなこと、想像したこともなかった。


 堕天にはいろんな理由がある。


 無益な殺生。

 天使殺し。

 創造主の命に背く。

 人間と交わる。


 いまさらになって気づいた。


 リチャードの命を狙う堕天使は常に『覚えているか?』と聞き覚えのない名前を尋ねていた。


 きっと過去に。

 前世で、リチャードがなんらかの形で危害を加えたのだ。


 誰かの命を、奪ったのだ。


 その誰かの命は、別の誰かにとって、とても大事な人だったのだろう。

 堕天してでも復讐をしたかったのだろう。


 あの時のことは、ほとんど感覚でしか覚えていない。

 戦えと命じられ、やみくもに戦った。


 そして。

 彼等は、恨み、憎み、執着した。


 加害者リチャードに。


 報復を誓ったのだ。

 そのために、堕天したのだ。


天主てんしゅに命を与えられたのではない」

 サイモンは静かに淡々と応じる。


人間そいつらは自然繁殖したのだ。我らのように主から命を吹き込まれたわけではない」

「では、この子の命に意味はないと⁉」


 堕天使は怒鳴る。サイモンはうんざりしたように口をへの字に曲げる。


「ならば豚や羊はどうだ? 彼等は生まれ、そして人に使役され、食われて一生を終える。それと同じではないか」


「違う!」


 ばさり、と暗闇を塗りこめた翼が空を撃った。旋風が巻き起こる。

 建屋自体が大きく傾ぎ始めた。内部から噴き上げる風に、常にみしみしと不穏な音を立てる。


 ジャックが悲鳴を上げ、マックスに抱き着く。天使や堕天使が見えない彼は、状況が分かっていない。ほぼ恐慌状態だ。


「動物はたとえ人に食われたとしても、他の生物を生かしたのだ! その死は無駄ではない! 次へと……。次の生へとつながっている! だが、この子はどうだ!」


 ジャックが抱きしめるマックスを、鉤爪の指で指す。


「親の不満のはけ口に生かされただけではないか! その生すら、望まれてはいなかった! 疎まれ、殴られ、そして病と飢えを得ただけだ! 誰からも助けてもらえず、手にしたのは絶望だけだった!」


 ぐ、と引き絞った唇から、鋭い歯の先端が覗く。


「無関心は罪だ。だから村人は眠らせた。そのまま飢えるまで眠ればいい。緩慢な死を与えてやる」


「すべてを救えるのも、罰を与えるのも天主だけ。思いあがるな」


 サイモンが突き放す。

 堕天使はしばらく彼を凝視していたものの、不意にその瞳をジャックに向けた。


「この子は……。ジャックは良い子だ。辛い日々を送るマックスに安らぎと温かさを与えてくれた……」


「おい……」

 リチャードは、思わず声を上げた。


 ぴりりと肌が痛みを感じた。

 不穏な気配がする。


 雲行きが怪しい。

 こいつは何を言おうとしているのか。


「ジャックが寄宿舎に行ってしまうと、もう誰もあの子を守ってくれなかった……。マックスが救いを求めても、村人は迷惑そうに振り払って……。ジャックは、本当に良い子だった」


 良い子。

 いつもなら心浮き立つ単語に、リチャードは不穏しか覚えない。


「ジャック。立て、逃げろ」

 リチャードは油断なく堕天使を見つめ、警戒の声を放つ。


「な……なんだって、リチャード?」


「もうすぐマックスの命が尽きる。天上の世界では寂しい思いをさせたくない」


 堕天使が膝を曲げ、座り込む。

 ぎゅ、と鉤爪が、灰に煤けたはりを掴んだ。


「ジャック、立て! 来い!」


 リチャードの大声に異変を感じ取ったのだろう。ジャックはマックスを抱き上げた。


 その真上。

 梁の上。

 そこから堕天使がジャックを見下ろしている。


「ジャックは良い子だ。きっと、マックスに付き添ってくれるに違いない」


 ばきり、と堕天使が梁を折り取った。

 先端が尖り、槍状になったそれを握りしめ、振りかぶる。


 堕天使はためらいもなく投げつけた。


 ジャックに。


「よせ!」


 リチャードは反射的に飛び出し、手を伸ばす。


 だが。

 その指先。

 ほんの少し先で。


 梁は。

 マックスを抱きしめるジャックの背中をいともたやすく貫通した。


 ぱくり、と。

 リチャードは確かに、親友の鼓動が音を止めるのを聞いた気がした。


 どさり、と。

 腕に抱えていたマックスを、ジャックが床に落とす音が聞こえる。


「……え……?」


 ジャックが小さく呟く。

 ゆっくりとリチャードを見上げ、不思議そうな瞳を向けた。


「え……?」 


 梁に胸を貫かれたまま。


 ジャックは戸惑った声を上げる。

 その声はだが、めきり、と木材をへし折る音にかき消される。


 あの堕天使。

 あれがまた、建物の何かを破壊したのだ。

 だが、そんなことはどうでもいい。


「ジャック……!」

 リチャードは名前を呼び、その肩を掴む。


「リ……」


 同室の彼は。

 友人の彼は。

 良い子の彼は。

 初めて心をゆるし、なんでも話し合えた彼は。


 最期に。 

 自分の名前を呼ぼうとして。


 そのまま、瞼を閉じる。

 つるり、と。

 水晶に似た涙がその頬を流れた。


「ジャック!」

 リチャードは悲鳴を上げる。


「離れろ、リチャード!」

 サイモンが大声を上げるのを聞いた。


 珍しい。

 いつもは動揺などしないのにと、ぼんやりと思っていると、左に突き飛ばされる。


 ジャックを腕に抱え、傾ぐ視界の先で。


 サイモンの首に、長々とした木片が刺さるのが見えた。


 吹き上がる朱は。

 血、なのだろう。


 天使の流す血も自分たちと同じく赤いのだ、とリチャードはしぶきを上げて、視界を染めるその色を見た。


「一度、天界に戻る。このままではわたしは消滅する」


 ぴくりとも動かないジャックを両腕で抱え、床に尻餅をついたリチャードの目の前。


 サイモンは淡々と言う。

 床にうつ伏せに横たわり、自分の首からとめどなく流れる赤い体液に顔の半分を濡らしながらも、彼は平然としていた。


「シエル様に報告をし、援護を頼むが……。それまでは、おのれひとりで踏ん張れ」


 リチャードには、サイモンの言葉が理解できているようで、理解できなかった。


 今、なにが起きているのか。

 飲み込むまで時間がかかり過ぎている。


 腕の中にはぴくりとも動かないジャックがいて。

 彼の背中から胸にかけては木片が突き刺さっていて。

 床には血だらけのサイモンが首を貫かれてこちらを見ている。

 その向こうに見える幼児はもうまったく動いていない。


(どうして……。なにが、どうなって……)


 朝までは。

 つい数時間前までは。

 自分はジャックと笑いあって馬車に乗っていて。

 その前にはエイダに見送られて屋敷を出て……。


 なぜ。

 こんなことに。


「しっかりしろ!」 


 サイモンに怒鳴られ、リチャードは肩を震わせてジャックに抱き着いた。


 がくり、と彼の首は揺れるが、表情は何も変わらない。瞼は閉じられたまま。


「サ……。サイ……サイモン……。おれはどうしたら……」

「いいか。今から、お前の視覚と聴覚を奪う。そうすればになるだろう」


 アイスブルーの瞳がリチャードを見据えた。

 不意に鼓膜を撫でるのは、シエルの言葉だ。


 シエルは言った。


『そして、もし、と同じ状態になれば……。危機的状況になれば、力を返してあげましょう』


 以前のお前。

 今のお前。


「やれるな」


 命じられ、リチャードは頷く。だが、それは惰性の動きだ。


 血だまりの中から、サイモンが腕を上げる。


 人差し指をリチャードに向け、十字に切った。

 爪の先についた血液が飛沫になり、宙に散り、リチャードの頬に付着する。


 ねとり、と。それは、ほのかに熱を宿していた。


「一時的に力を戻す。戦え」

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