第10話 ジャックの村

 次の日。

 ジャックとリチャードが屋敷を出たのは、まだ日が昇り切らない夜明けごろだった。


 見送りに出たのはエイダだけで、伯爵夫妻はまだ寝室だ。一声かけようかとも思ったが、ジャックが恐縮すると判断してそのまま出発することにした。


 あれだけ男兄弟はむさくるしいと言っていたジャックだが、帰省はやはり心躍るようだ。


 両親や兄弟。特に一番上の兄のことを語るジャックは、こちらが見ていても嬉しくなるほど、喜色に溢れていた。



 そんなジャックが異変を口にしたのは、馬車が村に入って数分も経たないころだった。


「馬車を止めてくれないか!」

 

 咄嗟にリチャードは客車の扉を開けた。

 薄い朝日の中でも、はっきりとジャックの顔が青白んでいるのがわかったからだ。

 ぎょっとしたのは馭者だ。


「危のうございます! 坊ちゃん!」

「ごめんなさい! 馬車を止めて!」


 鋭い叱責を飛ばされ、リチャードは口早にそう言って扉を閉めた。

 寒風が吹きこんだせいだけではなく、ジャックは身体を強張らせて椅子に座っている。


「どうしたんだい? なにがあったんだ?」


 馬車の速度がゆっくりと落ち始めるのを確認し、リチャードは向かいの席のジャックに首を傾げて見せた。


「変だよ。だって村に入っているのに、どこにも人がいない。煙突から煙も上がっていないなんて……」


 窓に張り付くようにして外を凝視しているジャックの顔は、どんどん不安の色が濃くなる。


 リチャードも戸惑いながら、窓の外を見た。


 村の名前が記された標識を通過すると、平屋の家が道沿いに点在している。そのほかは、小麦畑ばかりの風景だ。


 ジャックが言うように、確かに麦畑に人影はなく、家々の扉も窓も閉じられたままだ。時間的にはまだ早朝に分類されそうな頃なので、そんなものかと思っていたが、住み慣れたジャックには違和感しかないらしい。


「車酔いですか?」


 馬車が完全に停止し、客室の扉が外から開かれた。

 顔を覗かせたのは馭者だ。ジャックが馬車に酔ったのだろうか、と心配しているようだったので、リチャードは首を横に振った。


「ジャックが村の様子が変だって言うんだ。人影もないし、煙突から煙も上がってないって」


 馭者はきょとんとしたように目を丸くしたものの、すぐに顎をつまんで唸る。


「言われてみれば……。都市部ならともかく、農村でこの時間に農作業をしていないというのも……。おい、お前は誰か村の人間をみたか?」


 もう一人の馭者に尋ねているが、返事はやはり「見ていない」ということらしい。


「ぼく、降りるよ。家までもうすぐだから」

 ジャックは荷物も持たずに、身一つで客車から飛び降りた。


「ジャック⁉」


 リチャードが慌ててその後を追い、客車から出る。


 瞬間。ぞわり、と身体中の皮膚が鳥肌だった。

 反射的に周囲を見回す。


 道のど真ん中だ。


 都市部のように石畳が敷いてあるものではなく、土が踏み固められただけのもの。道幅は広いが両脇には雑草が生い茂り、ところどころ轍の深い部分もある。


 家は点在していて、寄宿舎がある街のように密集しているわけではない。

 小屋や作業場などが家同士の間に作られ、緩いつながりを感じた。


 その、どこにも。

 の姿はない。


 だが、強烈な気配を感じる。


 いる。


 この村のどこかに使が。


「坊ちゃん。いかがなさいますか」


 気づけば馭者が困惑した顔で隣に立ち、外套を羽織らせてくれていた。腕をこする姿を見て、寒がっていると思ったらしい。


「ここで待っていてくれないか? ジャックの様子を見て来る」


 ぴりぴりした空気を払うように、リチャードはかぶりを振り、道の先を見る。

 随分遠くの方で、ジャックが一軒の家に飛び込むのが見えた。


「承知しました」


 馭者の言葉を背後に聞きながら、リチャードは走り出す。

 その足音に、ばさりと羽音が重なった。


「いるな、気をつけろよ」


 瞳だけ移動させる。

 斜め後ろを天使サイモンの姿が見えた。ばさり、と定期的に背中の両翼をはばたかせ、宙に浮いたまま移動をしていた。


 白い肌、アイスブルーの瞳。肉感的な厚めの唇。銀色の長髪。


 いつもと変わらぬ姿かたちをしているが、眉間の辺りにわずかに皺が寄っている。

 彼でも緊張することがあるのかとなんとなく意外だった。


「わかってる」


 呟き、ジャックが入った平屋の前で足を止めた。

 ジャックの遠慮のなさからたぶんここは彼の自宅だ。


 ピリピリと焼けつくような視線や気配はここじゃない。


 北から感じる。

 視線を向ける。道の先だ。


 道路わきの、斜めに屋根が傾いだ小屋のような建物から、気配はにじみ出ている。


 いや、噴き上げている。

 どす黒い感情が建物全体を包んでいた。


「なにに……、憤っているんだ?」


 黒煙のようなものが、板を打ち付けただけの屋根からあふれ出し、そこだけ影をまとったようだ。朝陽も空気も。なにもかもを拒んでいる。


 リチャードでもわかる。

 これは、怒りだ。憤怒ふんぬだ。


「くだらん。あのような感情。まるで人のようではないか」


 ばさり、と羽音がしてリチャードは隣を見た。

 天使サイモンが、口の端をわずかにゆがめている。


 視線の先にあるのは、例の建物だ。

 彼からすれば、人のように感情をむき出しにして振る舞うのは醜悪なことらしい。リチャードも常々そのことで馬鹿にされている。


「リチャード、変なんだ! ぼくの家に来てくれ!」

 ジャックが飛び出してきた。


 リチャードに駆け寄り、腕をひっつかまれて家の中に引き込まれる。


 咄嗟に気づいたのは、魔力の匂いだ。

 白檀に似た、喉や鼻の粘膜にとろりと甘くまとわりつくようなこの特徴的な香りは、主に魔力を行使した時に放たれる。


 反射的に警戒したが。

 サイモンはついてくるつもりはないらしい。


 ということは、この家に堕天使やリチャードに危害を加えるようなものはなにもないということだろう。


 リチャードはそれでも用心深く室内を見回す。


 屋内は至って簡素だった。

 玄関扉を開けてすぐは家族で食事をしたりくつろいだりするスペースなのだろう。机とイスが人数分揃っている。


 ジャックが開け放したままの扉は、その続き間になっていた。

 こちらは家族そろっての寝室スペースらしい。


 魔力の香りは、そこから色濃く出ている。


 雨戸が下ろされたままの部屋は薄暗いが、視界が効かないほどではない。

 ベッドに眠るのは、ジャックの両親らしい男女。


 床の上にマットを敷き、肘枕で眠っているのはまだ若い男だ。年齢的に長兄なのだろう。そのすぐ隣には、くっつくように丸まって眠る幼い男子がいた。


「起きないんだ!」

 ジャックはリチャードから手を離すと、ベッドに駆け寄る。


 かなり荒っぽく両親の肩を揺さぶるが、瞳を開くどころか微動だにしない。ただただされるがままで、まるで精工にできた人形のようだ。


「兄ちゃん! おっきい兄ちゃん!」


 今度はマットの上で眠る長兄の枕元に膝をついて大声を出すが、こちらも起きるそぶりを見せない。


「呼吸は? 眠っているのか?」


 リチャードが尋ねると、ジャックはようやく気付き、震えながら長兄の顔に掌をかざす。


「……ある。ちゃんと、息している」


 くずおれるんじゃないかと思うほど肩を落とし、ジャックは安堵した。


「魔法かなにかをかけられているんじゃないか?」


 リチャードは言いながら、室内をくまなく見ていく。


 呪具か神具。

 あるいは魔法陣がないかとマットの端っこをめくってみるが、それらしきものは見当たらない。


「なにか……。気になるものがあるのか?」


 ジャックがようやくいつもの落ち着きを取り戻した。立ち上がり黒瞳に強い光をにじませてリチャードを見る。


「匂いがする」

「匂い?」


 ジャックが不思議そうに首を傾げるが、何かを思い出したのか、小さく頷く。


「君が嗅覚と触覚に違和感を覚える時って、いつもなにかあるものね」

「そうかい?」


 リチャードは驚いて目を見開く。


「気づいてなかったのかい? そうだよ。君が『変な匂いがする』とか、『肌がぴりぴりする』って言ったら、たいがい何かあるんだ」


 ジャックは真面目な顔で答える。

 自分では意識していなかったが、そういえばそうかもしれない。


 堕天使の気配も、結局はだ。


(ふつうは……)


 きょろきょろと周囲を見回していたかと思うと、動きを止めて何かを窺うように耳に神経を注ぐジャックの様子を見て、リチャードは気づく。


 普通はああやって、目で見たり音を聴いたりして、敵の気配を探るのだ。


 天使サイモンでさえそうだ。

 目で見て黒煙を確認し、怒りの気配を察していた。


(なんだろう……)

 ふと、自分の手を見る。


 そういえば。

 どうして、自分は指文字などに頼っていたのだろう。


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