第9話 エイダのもとへ真夜中に訪問するもの

 片方の翼を大きく広げ、伸びをするように右腕を伸ばす。

 几帳面に一本ずつ白い羽根を整えながら、ちらりとアイスブルーの瞳でリチャードを見やる。


「休暇か。気をつけろ、お前は敵が多い」


 リチャードは返事もせずに、立ち上がる。眉根を寄せて睨みつけた。

 幼いころは、随分と大きな男だと思っていたが、自分の身体が成長するにつれ、その身長差は縮まりつつあった。


「寄宿舎はいいな。あそこの教師の大半は、司祭か神職だ。堕天使たちは近づけない。この屋敷もいい。わたしとシエル様が、守りを万全にしているからな」


 ばさり、と羽音を立てて、もう片方の翼を広げ、またつくろいはじめる。


「だが、外は気をつけろよ。危険がいっぱいだ」

「それを言いに来ただけか?」


 淡々とした声で尋ねた。

 サイモンは片頬を吊り上げていびつに嗤うと、顔を近づけてきた。

 リチャードは動かない。


 じ、と。

 鼻先が触れ合う距離で、ただ睨みつけてやった。


「お前の成長を、シエル様は大層満足なさっている。このまま順調にいけば、お前の力は戻され、わたしの部下となって働くことになるだろう」


 サイモンの唇が動くたび、冷気のような呼気が睫毛を揺らす。


「せいぜい、励め」


 言うなり、ばさりと両翼をはためかせる。

 巻き上がった空気は、リチャードの身体をしたたかに打つ。揺らぎそうになる足に力を込めたものの、暴風に思わず腕で顔を覆った。


「……あいつ……っ」


 風が止み、室内が元に戻ったころには、サイモンの姿はもうなかった。


 咄嗟に足元のジャックを確認するが、彼は穏やかな寝息を漏らしている。


 安堵したものの、このままベッドにもぐりこんで眠る気にはなれなかった。


 リチャードは舌打ちし、ベランダに通じる観音扉にまで近づく。

 その際、スツールの上に放り出したままの厚手のカーディガンに手を伸ばし、羽織った。


 扉の金具に触れると、その冷たさに一瞬、手を離す。

 室内は寝衣でも問題ないほど温められているが、扉一枚向こうの世界は随分と冷えているらしい。


 リチャードはカーディガンの襟元を掻き合わせ、そっと外に出る。


「……それほど、でもないか……」


 風がないせいか、石造りのベランダは冷えるには冷えたが、想像するほどではなかった。


 リチャードは手すりにもたれ、空を見上げる。

 三日月だ。

 風がないせいで夜空には雲が広がり、星さえも姿を消している。だが空気は澄んでいた。


 明度が少ないこんな夜の世界に身を置くと、自分が生まれ変わる前のことを思い出す。


 世界はうすぼんやりとしていて、なにもかも曖昧だった。

 闇が怖いと同級生のゴードンなどは泣くが、リチャードは逆に安心する。

 すべてを隠してくれるからだ。


 思えば自分はいつも暗い方へ暗い方へと逃げていた。


 前にいた世界は音もなく、〝声〟というのは直接脳に流れ込んでくるものだった。


 その、声が追ってくる。「戦え」と。

 だから自分は必死で抗い、精霊をねじ伏せ、戦ってきた。


(文字……)

 ふと、自分の指を見る。


 この世界に生まれ、初めて〝文字〟というものを目にした時、その便利さに愕然としたことを覚えている。


 まだリチャードに名前が無く、戦いばかりに明け暮れていた頃、精霊と契約を結ぶのは、指を使ったしるしだった。


 アリステス校は神学校でもある。

 授業の中で、魔方陣を使った防御方法や、除霊の仕方などを学ぶ特別授業もあった。


 魔方陣を使っての攻撃はシエルに禁じられているが、防御は問題ないらしい。リチャードは興味津々で授業を学んだ。


 生まれ変わる前のリチャードは、完全に独学だった。


 決められたパターンを使って精霊を呼び出し、使役していたのだが、文字を使えば手っ取り早く、そしてやり取りのすべてを記録できることにリチャードは、ひたすら感動した。


(あの世界は、ここじゃないんだろうか……)


 不思議に思うことがある。

 シエルは、『、あなたは下界に降ります』と、言った。


 だが、今自分が感じている世界と、昔いたはずの世界はまるで違う気がしてならない。


(敵は……。同じなんだよなぁ……)


 堕天使と呼ばれる翼の黒い男たちが放つ気配や感情は、まさに自分が戦った相手でもあった。


 ふう、とリチャードは息を漏らす。

 それが真綿のように闇に浮かぶ。


 手すりに両肘をつき、見るとはなしに闇に沈む屋敷の庭園を眺めていると、不意に金属音が近くで鳴った。


 音のする方に顔を向ける。

 隣の部屋に設えてあるベランダ。そこの扉が開き、エイダが飛び出して来た。


「どうしたんだ」


 目を丸くする。

 彼女も寝衣を身にまとい、寒さ対策のためか、毛糸で編んだショールを肩に羽織っている。


「リチャードこそ、どうしてベランダに?」


 訝し気にエイダは問いながらも、視線はせわしなく移動しており、明らかに何かを探しているようだ。


「眠れなくて」


 その理由は、嫌味な天使と会話をしたからなのだが、そんなことは言えずにリチャードは肩を竦めるにとどめた。


「エイダこそ、どうしたの?」

「その……。おじさまやおばさまには内緒にしてくれる?」


 上目遣いなエイダに、リチャードは不穏な気配を感じつつも頷く。


「なんだい。どうしたの」

「最近……寝てると、誰かにこの窓からのぞかれているような気がして」


「大変じゃないか! そんなの……」


 両親に即刻相談すべき内容だ。泥棒でも困るし、エイダによこしまな感情を抱いているやからだとなお危ない。


「気のせいだと思うの。だってこうやって確認しても誰もいないし……。その、ほら」


 取り繕うようにエイダは笑うと、急にしゃがみ込んだ。


「エイダ?」

「ほら、たぶん。鳥、かな」


 エイダは立ち上がり、こちらに向かってそれを差し出して見せる。

 リチャードは思わず立ちすくんだ。


「それ……」


 白い羽根。


 ハトやセキレイのような小動物ではない。

 あきらかに大型の鳥のもの。


「きれいでしょう? このところ、いつもバルコニーに落ちてるの」


 にこにこ笑っているが、リチャードは顔が強張って声が出ない。


 天使のものだ。


 どうして。

 どうして、天使がエイダの寝室を覗きに来るのだ。


 天の国から迎えに来たのだとしてもおかしい。

 見たところ、エイダに体調の変化はなさそうだ。

 はっきり言えば、死にそうではない。それに迎えに来たのだとしたら、なぜすぐに魂を連れて行かないのだろう。


「ねえ、リチャード」


 名前を呼ばれて、はっと我に返る。天使のことはまたサイモンにでも聞いてみよう。


 そう思って我に返る。そういえばサイモンはなんのために来たのだ?

 たったあれだけの伝言で?


「リチャード?」


 再び名を呼ばれて、慌ててとりつくろう。


「な、なに……?」

「そっちのお部屋に行ってもよろしくて?」


 首を傾けると、下ろしたままの銀髪が星屑に似た光を散らしながら肩口を流れていく。


「だめだよ。ジャックもいるし」

 きっぱりと断ると、エイダは落胆して眉を下げる。


「残念ですわ。いろいろとお話をしたかったのに」

「話なんていつでもできるじゃないか」


「今がよかったのです」


 エイダは子どもじみた口調で口を尖らせる。

 手に持った羽根をくるくると回し、リチャードをはすかいに見やった。


「朝にはまた別のことをいろいろお話したいのですから」

「なにが聞きたかったんだ」


 身長といい顔立ちといい、久しぶりに会った妹は随分と成長したというのに、中身は相変わらずらしい。なんだか安心して、リチャードは頬を緩めた。


「ジャックさまと何をお話しされてたのか、とか。休暇中、どこに行きますか、とか」


 ショールを掻き合わせ、もう片方の指を折って、つらつらとエイダは続ける。


 たわいもないことだなぁとあきれていたら、今度は頬を膨らませて上目遣いに睨まれた。


「今、たわいもないことだなぁってお思いになって?」


 どうして彼女はこうも自分の考えも読むんだろうと、たじろぎながらも、ぎこちなく笑みを浮かべて見せた。


「そんなことないよ。ジャックとは今後の話をしたし……。休暇中はエイダの行きたいところに一緒に行くよ」


 てっきり、『まあ、嬉しい』というのかと思いきや、エイダはさらに眉間のしわを深くした。


「学校ってそんなに面白いところですの? なんだかジャックさまがずるいわ。リチャードを独り占めして」


「別に独り占めしているわけじゃあ……。明日からはエイダと一緒じゃないか」

「でも休暇が終わったら、また学校に戻って行かれるのでしょう?」


 エイダは手すりから離れ、ふう、とため息を吐いた。

 それが白く煙り、彼女の周囲を取り巻いて、雪のように消える。


「リチャードはきっと遠くに行ってしまうのに……。それなのに一緒にいる時間ばっかりが減っていくんですもの」


「……なんで遠くに行くって思うんだ?」


 言葉の意味を測りかね、リチャードは慎重に尋ねる。


 大学に行く、という意味なのか。

 そのあと伯爵位を継ぎ、しばらくは王都に住み続けるという意味なのか。


 それとも。

 そんな未来などなく、二十歳になるとこの世界からいなくなるという意味なのか。


 まさかなと思いつつ、何故だかリチャードの頭の中には、この妹が何もかも知っているような気がしてならない。


「リチャードは、今でも天使が見えるのでしょう?」


 エイダは自分の指に呼気を吐きかけた。さらに白く呼気が煙る。手がかじかんでいるのか彼女は指をこすり合わせた。


「見える、けど」


 静かに答えると、エイダはわずかに首を横に傾げた。さらりと星の光を集めたような銀罰が梳き流れる。


「天使が側にいる人は……。遠くに行ってしまうんですもの」


 リチャードの胸に今になってひとつの疑念が沸く。


 どうして。

 どうしてこの妹は、この屋敷に来たのだったか、と。


 初めてエイダを屋敷に連れてきたのは、父だった。


 当初は召使たちが父の不貞を疑い、隠し子ではないかと訝しんだのだが、日を追うにつれてその誤解は解け「訳があって預かった女の子」という扱いに変わった。


 父は「妹だ」とリチャードに言ったような気がしたが、今から思えば、「妹のような子だ」と説明したような気もしてくる。


 そんなことよりも、エイダを可愛がれば「良い子」と言われる方が嬉しく、今まで何も気にすることはなかった。


 だが、どう考えても変だ。


 どんな理由があって、伯爵家に預けられるのだ。

 実子扱いとして。


 両親や家族と引き離され。

 どうしてエイダはここにいるのだ。


「リチャード」


 知らずに凝視していたらしい。

 視線の先でエイダがほほ笑んだ。


「おやすみなさい。明日、ジャックさまをお送りしたら、早く戻ってきてくださいませね」


 長い髪を揺らし、くるりとエイダは背を向けた。

 そのまま足音もなく室内に消える。


「おやすみ、エイダ」

 彼女が残した呼気の白さが消えるのを眺めながら、リチャードは呟いた。

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