第8話 天使サイモンの訪問

 その日の晩。

 ゲスト用のベッドにもぐりこみ、羽根枕にぐりぐりと後頭部を押し付けて寝位置を整えているジャックに、リチャードは声をかけた。


「明日、ちょっと早いけど……」

「いや、そんなの本当に全然大丈夫。っていうか、リチャードも来なくてもいいんだよ?」


 仰向けに寝転がったまま、ベッドに腰かけているリチャードを見上げる。


 ここはリチャードの私室だ。

 本来は、ゲストルームに宿泊する予定だったのだが、ジャックが妙なところでまた遠慮をし、『そのへんの床で寝る』と言いだしたのだ。


 馬車で送ってもらう上に、夕飯や風呂まで世話になった。これ以上はもう無理とかたくなに固辞し、困惑する執事長を見て、父親は笑った。


『寄宿舎ではいつもふたり一緒だから寂しいんだろう。簡易ベッドをリチャードの部屋に運んでやりなさい』


 ということで、執事数人で簡易ベッドをリチャードの部屋に運び込み、ジャックは床より少し高い場所で寝ることになったのだ。


「おれはジャックの育ったところが見てみたいんだ。ただ、それだけ」


 リチャードのベッドよりも、簡易ベッドの方が大分低い。

 ちょっとだけ見下ろす形でリチャードは言い、羽根枕を抱えた。


「なんもないところなのに。変わったやつだな」


 ジャックは笑う。彼の黒色の瞳を眺めながら、リチャードは素直に理由を口にした。


「どんな場所で育ったら、そんな風に〝いい子〟になるのかなって。ずっと不思議だったんだ。だから」

「いい子? ぼくが?」


 きょとんと眼を丸くしてみせるから、そっちの方が不思議だ。彼は自分が良い子だという自覚がない。


「まあ、でも。ぼくも、どんなところで育ったら君みたいな子になるのか、ずっと不思議だったんだ」


 今度はリチャードが驚く番だった。


「おれ?」

「そう。今日、ご家族とお会いして、屋敷を見て、なんか納得した」


 軽快に笑うから、首を傾げて見せる。


「君のお父さんもお母さんも、ぼくのことを、息子の友人だと思ってくれている。不思議なお人だ」

「君はおれの友人じゃないか!」


 素っ頓狂な声が口から飛び出た。


「いや、ぼくだって君のことを友人だと思っているよ」


 ジャックは横向きになり、ひじで頭を支えて苦笑する。


「パブリックスクールの重要なところは、生涯にわたる人脈を作る処であるということだ」


 おずおずと頷く。

 寄宿舎の同級生は、同じ釜の飯を食う仲間だ。


 数年間に渡って一緒に暮らし、競い合い、喜怒哀楽を共にする。

 その関係性は卒業してからも続き、仕事や社交の場で活かされると聞く。


「貴族や、豪商ならともかく……。平民なうえに司祭になるような男と友達になったって、なんの利益も産まないじゃないか。普通の両親ならぼくなんて嫌がるもんだ」


「そんな、もの……、だろうか……」


 リチャードは、例えばアンリのことを思い浮かべてみた。ジェイコブは論外だったからだ。


 彼だって、ジャックの友達だ。

 だが。

 一緒の馬車で帰ろう、と提案して実行したのはリチャードだ。


 彼だって「お金を貸そうか」とは言ったが、「おれんところの馬車に乗れ」とは言わなかった。


「なんというか……。君って、誰に対しても対等なんだよ。それって、あのご両親と同じだよな」

「対等?」


 んー、と小さく唸り、ジャックは今度はうつぶせになった。


「相手の身分がどうであれ、困っていたら助けるし、間違っていたら訂正しようとするし……」

「それはジャックも同じじゃないか」


「ぼく? とんでもない」

 ジャックは大笑いをする。


「君はぼくを買いかぶり過ぎだよ。ぼくは見て見ぬふりをしたことだってあるし、聞かなかったことにしたことだって山ほどある」

「君が?」


 信じられない、と目を丸くする。


「ぼくは卑怯だから。他人に気づかれないように、こっそりそんなことをしてるんだよ」


 ジャックは自嘲気味に笑ったあと、表情を引き締めた。


「だけど君は違う。足をとめたり、わざわざ戻ってまで助けたり、悪いことを正したりする。ぼくはね、そんな君を尊敬しているよ」


「それこそ、買いかぶりだよ」


 リチャードは深い息を吐き、抱きしめた羽根枕に顔をうずめる。


 自分が〝良いこと〟をしているのは、二十歳になったときに力を返してほしいからだ。


 本音を言えば、良い子になんてなりたくないし、良い子がなんなのかもよくわかっていない。


 ただ、ジャックの真似をし、人が喜びそうなことをしているだけだ。


「ぼくはね、アリステス校に来てよかったと思っているんだ」

 柔らかな声音に、リチャードはそっと枕から顔を上げた。


「リチャードと出会えた」


 にこり、と顔全体で笑う。

 まるでそこだけ温かい日差しが差し込んだようで、見ているリチャードの心まで清らかな温かさに満たされる。


「ぼく、司祭になるとか、そんなのはどうでもよくて……。勉強がしたかったんだよね。それで、奨学金を受けてアリステス校に来て……。で、君と同室になって、いろんな話をしたり、君のことを見たりして、やりたいことができたんだ」


「やりたいこと?」

 つい、身を乗り出して尋ねた。ジャックは、うん、と笑った。


「リチャードは? 大人になったらやりたいことはあるのかい?」

「おれ?」


 面食らった。


「いつかはお父様の跡を継ぎ、伯爵位を受けて……。なにがしたい?」

「おれは……」


 つい、口ごもる。


 この肉体が二十歳になれば。

 きっと、元の力を取り戻し、ここじゃないどこかに行く。そして、本来の使命を果たすのだ。


 また、戦うのだ。


 ジャックの言うように、伯爵位など継がないし、そもそもこの屋敷にはいないだろう。


「ぼくは、司祭になって教会で勉強を教えようと思う。子どもに」

「子どもに?」


 話を追及されずに、リチャードはほっとして尋ねる。


「そう。男の子も女の子も。両方」

 もぞり、とジャックはまた仰向けに態勢を変えた。


「この前、リチャードと話をしたじゃないか。妹が生まれなくてよかったって」


 おずおずとリチャードは頷く。

 もし妹だと売られる先はひとつだ、という話だ。娼館しかない、と。


「でもね、文字を覚えたり、計算ができたりしたら、きっと違うと思うんだ。商売屋で働けるし、どこかのお屋敷のメイドにだってなれるかも。自分を売るための手段が増えると思うんだ」


 熱を帯びたジャックの言葉に、リチャードも頷く。


「そう……、だよね。今は名前すら書けない子もいるから……。手っ取り早く、身一つで稼げるところに行かされるから……」

「他に選択肢があるってすごいことだと思わないか?」


「だけど」

 リチャードは口をすぼめる。


「それ、ジャックのいる教会に行かなきゃできないことだろう? ほかの教会にも働きかけてやってもらうのかい?」


「最初は誰だってひとりだよ。その誰かひとりが、やり始めなくちゃならないんだ」


 ジャックは笑う。


「そうすると、何か面白いことをしているってみんなが気づき始めて、真似をするのさ。だから最初はぼくがやる。だけどね、これのすごいところはね」


 重大な秘密を打ち明けるように、ジャックは声を潜めた。リチャードはベッドに腰かけたまま前かがみになる。


「子どもはいつか、大人になるってところさ」

「……うん?」


 意図するところがわからず、きょとんとしていると、ジャックはまた笑った。


「ぼくが字や計算を教えるだろう? その子はずっと子どもじゃない。いつか大人になる。ひょっとしたら、自分の意志とは違うところに働きに出るかもしれないけど。その子が、誰かと出会い、結婚をして子どもを作る。そしたら、今度はこのお父さんやお母さんになった子たちが、自分の子に字や計算を教えられるんだ」


 おお、とリチャードは声を上げる。


「なるほど、そうしたら……!」

「そうなんだ。教会になんて来なくても、どんどん文字や計算ができる子がこの世に増えていく。そしたらいつか男女関係なく、誰もが仕事を選べるようになるんだ」


 ジャックは、ふふ、と眩しいものを見るように目を細めた。


「ぼくが教えた子たちが、ほんの数人だったとしても……。その子たちが、自分の妹や弟に教えて……。それから、お母さんやお父さんになったら、自分の子に教えて……。ほら。どんどん増えるだろう?」


「すごいな、ジャック」

 リチャードは感嘆の息を漏らした。


「おれ、そんなこと考えたこともなかったよ。すごいと思う」

「ありがとう。でも、そのためには君にも助けてもらいたいことがあるんだ」


 嬉し気にジャックは言ったものの、不意に大きな欠伸をした。


「おれに?」

「ああ。社交界でもこの話を広めてほしい……。リチャード。ぼくたち、大人になっても……、友達でいような……」


 最後は、とろんとした眠気に濁った。


「ジャック?」


 唐突に眠り込んだジャックをいぶかしみ、リチャードは立ち上がる。

 様子を見ようと一歩足を踏み出したのだが。


「……ジャックに何をした」


 突如姿を現した人物に対して、低く唸る。

 ゆっくりとしゃがみ、ジャックの顔に掌を近づけた。安定した呼気は感じる。


「眠らせただけだ。その子がいると、君と話せないだろう。リチャード」


 そこにいたのは、天使サイモンだった。

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