第3話 エイダとの出会い
◇◇◇◇
それからの数年間は、リチャードにとって、ひどく曖昧なものだった。
起きているより眠っている時間が多いからかもしれない。
記憶は断片的で、連続的ではない。
ほぼ感覚を頼りに生きていた。
不快であれば泣き、快になれば笑い、うまくいかないことにぶつかれば、ひどく怒りもした。
そんなさまをときどき、あの天使サイモンが覗きに来て、無様だな、と嗤うのがなにより嫌だった。
だが、来るなとも言えない。
両親の都合などにより屋敷の外に連れ出された時、敵の気配を感じるからだ。
そして決まって翼の黒い男たちが自分を害しようと近づいてきていた。
堕天使だ。
黒い羽根を散らしながら、堕天使たちはリチャードに緩慢に尋ねた。
『お前に殺された同胞の○○を覚えているか』
と。
いずれもリチャードには覚えのない名前ばかりだった。
『知らない』
正直に応じると、堕天使たちは無言で、だが、怒りを体中からほとばしらせながら襲い掛かってきた。
力も、精霊もいない。
ましてや、ぐにゃぐにゃと柔らかく、二本足で立つことさえおぼつかないリチャードが応戦できるわけもない。いつも間一髪で助けに入ってくれるのは、天使サイモンだ。
圧倒的な強さで、翼の黒い堕天使を消滅させてくれる彼はリチャードにとって頼もしい存在でもあった。
しかし、彼の方はどうかというと、そうではないようだ。
むしろ助けておきながら「死ねばいいのに」という目つきで傷だらけのリチャードを見て、つまらなそうに鼻を鳴らす。そして「また様子を見に来る」と言っていつも消える。
リチャードは、なぜ自分がこんなにも彼から嫌われるのか全くわからない。
時折傷を負って血まみれになるリチャードに両親や使用人たちは仰天し、教会に助けを求めた。
神父たちは『これは悪魔に襲われたのだ』と断じた。
おびえる両親たちに『だが彼は守護天使に守られている。誕生の折に天使が祝福したのはその証』と説明をされた。
両親は心配したが、神父の言う通り命に別状はない。
教会への信仰を強く持つと同時に守護天使への祈りを毎晩行い、使用人たちには『常に目を光らせておくように』と伝えるだけにとどめた。
そんなことを何度も繰り返し、リチャードは四歳になった。
継続した記憶を保持し、時間軸を把握して、感情を言葉として表現することができ始めた。
そして五歳になったある日。
両親と共にとある教会に赴いていた。
教会の門の前で馬車を降りると、一台の馬車がすでに停車していた。格式が高そうなのはその客車を見ればわかったが、リチャードたちが乗ってきた馬車のように家紋が描かれていることはない。
リチャードと手をつないでいた母が、馬車を一瞥して小さく吐息を漏らす。
「心配することはない。きっと良い子だよ」
父が母の肩を抱き寄せて額にキスを落とすのを見て、リチャードは内心小首を傾げる。
(きっと良い子、とは?)
そのまま一緒に教会の門をくぐり、敷地内に入る。
教会までの小道は整備され、白い塀で囲われた中庭には手入れされた芝生とハーブの生垣が続いていた。
「伯爵」
がちゃりと教会の扉が開き、神父が顔をのぞかせた。リチャードの知らない顔だったが、父とは既知であったらしい。会釈をし、母を促す。
「リチャードはしばらくここで待っていなさい。ただし、敷地からは出てはいけないよ」
てっきり一緒に教会内に入るのかと思ったが、リチャードは待機らしい。
「はい」
素直に頷き、母とつないだ手を離した。
両親に従う。それが‶良い子〟というものだろう。
その判断を裏付けるように父は嬉し気に目を細めてリチャードの頭を撫でて、母を伴って教会内に入って行った。
(さて)
再び両親が教会から出てくるまで、自分はいったい何をしているのが最適解なのだろう。
そんなことを考えて中庭を見回す。
ふと、目に留まったのはあざやかな黄色の花弁だ。
(たんぽぽ)
ハーブの裾辺りに群生している。
数日前に屋敷の庭に咲いているもので、メイドたちが花冠を作って見せてくれた。あれを作ってみるのはどうだろう。
(この指でできるかな)
視線を自分の手に落とす。
やり方は見て覚えたが、意のままに指を動かせるかというとそれはまた別問題だ。
この身体に生まれ変わり、そして成長と学習はしているが、なかなか前世の時のように使いこなせない。まだ、身体が幼すぎるのだ。
(まあ、時間はある)
母は喜ぶかもしれない。そして母を喜ばせれば、父はリチャードを〝良い子〟だと思うことだろう。
それは自分にとって良いことだ。
リチャードがたんぽぽに向かって足を向けた時。
首や頬、服から露出した肌が、炎で炙られたような痛みを感じた。
鼻腔が粘着的な甘さを嗅ぎ取る。
(堕天使……っ!)
咄嗟に振り返る。
そこには。
男がひとり、立っていた。
銀色の髪を短く切りそろえた白皙の肌を持つ男。リチャードに向けられたルビー色の瞳からは憤怒以外の感情は感じられず、闇を凝らせたような漆黒の翼を背中に持っていた。
「ヤヌスを覚えているか」
低く、空気を怒りで震わせてリチャードに問う。
問いながら、腰の刀を堕天使は抜いた。
「……知らない」
抜き身の剣が光を乱反射させている。
リチャードは目をすがめ、身を低く屈めた。
慎重に生垣との距離を測る。もし奴が襲い掛かってきたら、生垣に飛び込むつもりだ。
「ならば死ね」
どう、と空気の塊がリチャードの身体にぶつけられた。堕天使が羽ばたいたのだ。
呆気なくリチャードは吹っ飛び、芝生の上を転がり続ける。
必死に地面に爪をたて、うつ伏せから素早く四つ這いになる。
立ち上がらねば。
逃げねば。
そう思った次の瞬間には左目が光を捕らえた。
すぐ真上。
日が陰る。
堕天使が漆黒の翼を広げ、振り上げた剣をリチャードの脳天目がけて打ち下ろそうとしている。
「く……っ!」
リチャードは四つ這いのまま、つま先で地面を蹴った。
無様だと思いながらも獣のように両手両足で地面を走る。
ざくり、とすぐ背後で剣が地面に刺さる音がする。
ほっとしたのもつかの間だ。
振り返る間もない。
すぐにまた、羽ばたきによってリチャードの身体は芝生の上を転がされた。
二回横転し、手を伸ばして地面を掴む。
その手の甲に鋭い痛みが走った。
「ち……っ!」
舌打ちし、素早く腕を抱え込んで蹲る。
掌が濡れた。見なくてもわかる。剣で斬られたのだ。
「地獄でヤヌスに詫びろ」
低い声が間近で聞こえる。
顔を上げた。
暗い。
堕天使の翼が日を遮っているのだ。
ルビー色の瞳がリチャードを射抜く。
「死ね」
堕天使はリチャードの首に狙いを定め、剣を振り下ろす。
いや。
正確には、振り下ろそうとした。
その寸前で。
光がはじけたような気がした。
煌びやかな白光が堕天使の背後で炸裂し、リチャードは顔をそむけた。
「もう終わった」
聞き覚えのある平坦な声。
知らずにリチャードは目を固くつむっていたらしい。
おそるおそる開くと、目の前に立っていたのは堕天使ではなく、天使サイモンだった。
手にしている湾刀を一振るいすると、勢いよく血しぶきが芝生の上に散り、赤い花弁のようだ。
「……ありがとう」
リチャードは礼を言うが、サイモンは表情すら動かさない。斬られた堕天使は消滅したのか、もう影も形もなかった。
リチャードはゆっくりと立ち上がり、じくじくと痛む手の甲に視線を落とす。
ほっとしたことに傷はそう深くない。両親に「どうしたのか」と問われれば、「ハーブの枝をひっかけた」といえば信じそうな傷だ。
続いて自分の姿に視線を向けて
芝生まみれの上に、土汚れがついてしまった。
「そこの生垣の側で転んでけがしたことにすれば大丈夫かな」
サイモンに聞いてみたが、彼は無表情で何も答えない。
「ねえ、どう思う?」
再度そう尋ねてみたとき、教会の扉が不意に開いた。
リチャードは肩を跳ね上げ、慌てて傷を負った手の甲を背中に隠す。
「まあ、リチャード! その格好はいったい……⁉」
父と神父に伴われて出て来た母は、目ざとくリチャードの姿を認めて素っ頓狂な声を上げた。
「あ……あの。その……お母様……。これは、あのたんぽぽで」
駆け寄って来る母親に向かい、しどろもどろになりながらリチャードは説明する。母は芝生に両膝をつくと、バッグの中からハンカチを取り出し、パタパタと芝生をはたき落としていく。
「いったい何をどうしたらこんな……っ。まあ! あなた、手もケガしているじゃない!」
「た……タンポポでおかあさまに花冠を作ろうと思ったら、そこで転んで……」
「嘘をつくとは悪い子だな」
サイモンがニヤリと嗤って言うものだからまた、腹が立つ。
こんな男のどこが天使なのだろう。なにか文句のひとつでも言ってやろうかと思っていたら。
サイモンが、すっと表情を消した。
なにかを見ている。
リチャードは母に叱られ、傷の手当てをされながらもサイモンの視線を追う。
父と神父が連れ立ってこちらにやって来ている。
そのふたりの間に。
女の子がいた。
くまのぬいぐるみを抱いた、リチャードと年の変わらない子だ。
銀色の長い髪をふたつに結んだ子で、真っ白な肌は、まるでいままで外になど出たことがないようだ。ワンピースから出た脚も、くまのぬいぐるみを抱える手も細い。華奢を通り越して折れてしまいそうにリチャードには見えた。
その子は、父と手をつなぎ、神父に付き添われてリチャードの傍までやって来る。
(あれ……。この子……)
リチャードは訝る。
父と神父は、自分と母を見ているが。
女の子は、リチャードというより。
その、隣を見ている。
サイモンを。
見ている。
「……気味の悪いガキだ」
サイモンが吐き捨てるように言葉を残し、姿を消す。
そろり、と。
リチャードは視線を女の子に戻した。
彼女はもう自分のすぐそばに立っている。
目が合った。
途端に、紫色の瞳に涙の粒が盛り上がり、水晶のような光を湛える。
「……死んじゃうの?」
「え?」
まっすぐ目を見て問われるから、リチャードはたじろいだ。だが、女の子は繰り返す。
「お兄ちゃん、死んじゃうの? わたくしはまた、ひとりになる?」
女の子の震える声に、リチャードはなんと返せばいいかわからない。
視線を両親に彷徨わせると、父が片膝をついて女の子の目の前で首を横に振って見せた。
「大丈夫。これぐらいのケガでは人は死なないよ。君はひとりぼっちじゃない」
勇気づけるように頷いて見せる。その隣で神父もいたましげに女の子を見降ろしていた。女の子の表情は不安そうなままだが、再度リチャードに問いかけることはない。
それを、「納得した」と捕らえたのだろう。父は片膝をついたままの姿勢で、今度はリチャードに顔を向けた。
「この子の家族はみんないなくなってしまったから、うちで引き取ることになったよ。ひとりぼっちなんだ」
「ひとりぼっち……」
繰り返して呟くリチャードを、手当てをし終えた母がぎゅっと抱きしめた。
「そうよ。今日からこの子はあなたの妹。エイダというの」
妹。
リチャードは改めて女の子。エイダを見た。
小さく、か弱く、もろく、儚げな女の子。
素直に「守ってやりたい」と思えた。
大事に大事に扱わなくては、壊れてしまう存在なのだと理解した。
「わたくし、もうひとりぼっちにならない?」
ぐすり、と鼻をすすり、エイダはぬいぐるみのくまに顔を押し付けてリチャードに尋ねる。
「ならないよ。君は、もうひとりぼっちじゃない」
励ますように、リチャードはエイダに応えた。誰よりもリチャードは孤独の辛さを知っていた。守ってやりたい。素直にそう思った。
その日を境に、ハルフォード伯爵家には家族が増えた。
もちろんそれは、エイダのことだ。
母から生まれたわけではないため、当初は、召使たちが父の不貞を疑い、屋敷内がぎこちない雰囲気に包まれたのだが、母親は事情を知っているらしい。
実子と分け隔てなく育てる様や、義兄となったリチャードが妹の相手をする姿を見るにつれ、次第に屋敷内の空気が緩み始めた。
特に、まだ幼いリチャードが、ぎこちなくも必死に世話をする様子に、誰もがリチャードを、「良い兄上ですね」とほめそやした。
リチャードはこのころ、「良い子」であることを過剰に意識しはじめていたので、「良い子ですね」と言われる行動を強化させていた。
そうか、こうすることも「良い子なのか」と、リチャードは学んだ。
とにかく、妹は、かわいがるものなのだ、と。
このふわふわとしてか弱く、時に尊大で、時に愛らしく微笑む人間の子を大事にしさえすれば、周囲の大人は「良い子ですね」と目を細めてくれる。
おかげで、すっかり妹のエイダは〝お兄ちゃん子〟というものになってしまった。
屋敷の中では常にひっついて歩き、『ご本を読んで』『お歌を歌って』『一緒に踊って』と口やかましい。
(面倒くさいな)
そう思って、隠れていると、泣きながら自分を探す。
そんな妹を見ていると、なんだかひどく自分が悪いことをしているような気がして、仕方なく姿を現し、「どうしたの。ここだよ」と彼女を抱きしめるのだ。
エイダは涙の残る顔のまま笑い、「いなくなっちゃったのかとおもった」と言うのが常だった。
リチャードに対しては、自由にふるまうエイダだが、両親に対しては全く違った態度を見せた。
分をわきまえ、必要が無い限りは、「父上」「母上」とは呼ばない。「おじさま」「おばさま」と口にし、決してわがままは言わなかった。
ただ。
リチャードが十三歳になり、アリエステ校の寄宿舎に入ると知った時は、エイダは聞き分けもなく暴れまわり、大変だった。
その一方で。
リチャードは、エイダから離れられる環境に、非常にほっとすることになったのである。
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