1章
第2話 下界へと転生
◇◇◇◇
〝それ〟が、再び意識を取り戻した時、最初に感じたのは、強烈な光だった。
思わず目を閉じ、喉から悲鳴を迸らせた。
それが鼓膜を震わせる。
その感覚に驚き、〝それ〟は思わず口を閉じた。
「まあ、なんて元気な声でしょう」
「奥様、立派な男児でございます」
「おめでとうございます」
「誰か、旦那様を」
次に、雑多な音が鼓膜を打った。慣れない感覚に身体をよじらせて、ぱっちりと目を開く。
まぶしい、とまた大声を張り上げた。
途端に。
きょとん、と瞬きをする。
(なんだ、これ……)
声を喉から出すことは、以前と同じだ。
喉が震え、空気の流れが口から吐き出される。次に歯を剥き、唸り、ガチガチと打ち鳴らす。
そんなことは何度もやったが。
その時、鼓膜がなにかを感じたことはなかった気がする。
それを〝音〟としてとらえたことも。
「さあさあ、産湯を」
ふわりと身体が宙に浮き、なんだかわからない者に抱えられた。
肌がしわくちゃな女だ。
非難を込めて息を吐きだすと、やっぱり、『ふぎゃあああ』という迫力に欠ける音が出てくる。
バタバタと手足を動かしてみたが、身体は白布に包まれている上に、肌がしわくちゃな女がぎゅっと抱えているから、自由にならない。
「おやおや、元気な御子ですこと」
しわくちゃな女が顔を寄せて、口端を上げた。
(ここから音が出てる……)
〝それ〟は、まじまじとしわくちゃな女の口を見つめた。
あそこが開閉するたびに、音が。いや、言葉が出ている。
「さあ、綺麗にしましょうね」
不意に拘束が解かれたかとおもうと、〝それ〟の身体は湯の中に浸けられた。
一瞬びっくりしてまた声を上げてもがくが、ゆるく身体にまとわりつくのはなんとも心地よい温かさと皮膚感覚だ。
気づけば、目を細め、「ほよう」と声を漏らしていた。
同時に、室内に華やいだ笑い声がいくつも上がる。
「まあ、愛らしい声ですこと」
「生まれたての子どもって、湯につけると、独特の表情をしますねぇ」
「奥様。ほら、ご覧になって」
どの声も穏やかで、そして、聞いたことがない音域で話をしている。
〝それ〟が首をねじって周囲を見回そうとしたら、濡れた面布で顔をこすられた。
やめろ、と、〝それ〟は唸ったつもりだったが、やっぱり喉を震わせながら漏れたのは、『ふぎゃあ』という声だった。
首の後ろをしっかりと支えられているから、湯の中で自分の身体が、ふよふよと浮いている。
〝それ〟は、不思議な心持ちで、見つめた。
(この〝世界〟には、いろんな、色がある)
自分の肌は赤黒い。
湯は透明なところもあれば、薄く紅色になったところもある。
しわくしゃな女の瞳は白濁しているし、室内の壁は薄橙色だ。
〝それ〟は、鼻をうごめかせた。
もともと、嗅覚は良い。
目を覚ました当初感じた生臭さは消え、今は嗅いだことがない匂いに包まれていた。快ではないが、不快と言うほどでもない。
ただ、辟易する匂いだ。喉や鼻の奥に取り付き、〝それ〟は、ぺ、ぺ、と何度か顔をしかめて舌を突き出した。
「おや、お腹を空かせているのかも。おっぱいでしょうかね」
しわくちゃな女は言うと、湯から〝それ〟を取り上げた。
途端にぬくもりが去り、〝それ〟は非難がましい声を上げるが、しわくちゃな女は頓着せず、手早く湯をふき取った。
改めて見ると、自分の身体のなんとか弱く、小さなことか。
指を動かしてみるが、思い通りに動かいない上に、千切れそうなほど細い。
(どうなっている……)
〝それ〟は、また白布に包まれながら、思い返してみた。
自分は、うすぼんやりとした世界にいたはずだ。
殴りつけてくる奴や、斬りつけてくる奴がひっきりなしにやってきて、噛みついたり、唸ったり。時には捕らえた精霊を使って撃退してきた。
なぜ、自分がそんなことをしていたかはわからない。
『戦え』と言われたから、やった。
ただ、殺されないために、そうやってきた。
そんなある時。
いきなり身体の自由を奪われ、あそこに連れて行かれたのだ。
塩辛声がたくさん響くところに。
『よいですか? 今からあなたは、もう一度下界に降ります』
『そうです。今度は、人の子として生まれるのです』
〝それ〟は、思い出した。
あの凛とした声。シエルが言っていた。
人の子として生まれるのだ、と。
そして、良い人間になれば、力を返してやる、と。
「おお! なんと愛らしい子だ!」
扉の開閉音と、空気が動くさまに驚き、〝それ〟はまた情けない声で、うるさい、と訴えた。
「君の声は廊下まで、いや、屋敷中に響き渡っていたよ。なんて元気な良い子だ」
いいこ。
〝それ〟は、その一言に反応した。
ぱちり、とまばたきをして睫に乗った涙を散らす。
視界にはっきりと映ったのは、まだ若い男だ。
しわくちゃな女から自分を受け取るが、慣れていないらしい。細かく震えるから、それは唸った。
落とすなよっ。
やはりその声はへなちょこな音波で、若い男は、なにが楽しいのか目元を緩めて口角を上げる。
「旦那様。笑っておられないで、しっかりとお抱えくださいませ」
しわくちゃな女が、手を添える。〝それ〟は、ほっとした。不安定で仕方なかったのだ。
同時に、学習した。
そうか、これが〝笑う〟というものか、と。
笑うことは、良いことだ。
シエルが言っていた。
「マリア、でかした。ほら、ご覧。なんて愛らしい子だろう」
若い男は、しわくちゃな女の手を借りながらも、移動をする。
今度、それを覗き込んだのは、若い女だ。
(きらきらしている)
〝それ〟は、不思議な気分で女の髪を見た。
まるでこの世界を満たす光に似た髪だ。
「君と同じ色の髪と瞳だ。きっときれいな子になるよ」
「いいえ」
若い女がおっとりと微笑んだ。
「生まれたばかりだというのに、この堂々とした風格。旦那様似でございます」
いや、君に似ている。
いいえ、旦那様に似ております。
ふたりは、なんとも甘い声で繰り返し、周囲の女たちは、ころころとよく笑った。
「そんなことよりも、両親としての最初のお役目をなさいませ」
しわくちゃな女が呆れながら言う。
りょうしん。
〝それ〟は、首を動かす。
そうだ。
あの凛とした声は、そんなことも言っていた。
『お前は両親を得、そこで名を貰うでしょう。慈しまれ、育ちます』
両親。
どうやらそれは、この若い男と若い女のことらしい。
「では、君の名前を伝えよう」
若い男は、最初よりはしっかりとした手つきで〝それ〟を抱え、顔を覗きこんだ。
緑色の瞳には、白布に包まれ、弱弱しく、赤黒い顔の自分が映っている。
「リチャードだ」
リチャード。
〝それ〟は唇を動かした。まだうまく動かない。そのせいで、ふみゃあ、と子猫に似た声が漏れ、また室内の女性たちが笑った。
「御子も喜んでおられますわ」
「良い名ですこと」
女たちが口々に言う。
〝それ〟は、首を左右に揺らし、ベッドに横たわる若い女を見た。
きれいな髪をしている若い女も、満足げに頷いていた。
「良い子になるのですよ、リチャード」
良い子。
そうだ。自分は今、名付けられた。
これから二十年かけて〝良い子〟にならねばならぬ。
そうしなければ。
「ほう、名を得たか。〝リチャード〟だな。報告をしておく」
ぬっ、と。
いきなり視界に現れたのは、ひとりの男だ。
(なんだ……?)
既視感がある。
ちくちくするような視線。鼻腔に残る甘だるい匂い。
反射的に指で文字を作ろうとしたが、うまく動かない。
「シエル様に命じられ、この世に生を受けたところを見届けに来たぞ」
片頬を歪ませて、そいつは〝笑った〟。
だが、両親が見せるような善意がそこにはない。肌がけば立つほどの悪意に〝それ〟、いやリチャードは大声を張り上げた。
歯を剥こうとしたのに。
この身体には歯がない。
愕然としたとき、その男は腹を抱えて笑った。
そのせいで、男の背に生えた真白の翼が見える。
腹をよじらせると、男の翼が揺れ、羽が数枚舞い散った。
その羽根がリチャードの頬に触れる。
途端に、吠えた。
敵だ。
こいつは、俺を殺しに来た奴だ。
「おいおい。勘弁してくれよ。まだ、誰が味方で、誰が敵かわかんないのかね。シエル様はどうせならそういうことも教えてやってほしいもんだ」
男はうんざりだとばかりに大げさに肩を竦め、片方の翼だけ広げて見せる。
ばさり、と。
その片翼は窓からの日差しを遮るほどに大きい。
「お前の敵は堕天した者だ。翼の黒い奴。そいつと戦うんだ。これは、白。な? おれは違う。覚えたか?」
目を細め、男は言った。
「おやおや。この子は何を見ているんだろう。ほら、父上はここだよ」
若い男は、リチャードを腕に抱えたまま、ゆっくりと室内を歩く。
「待て待て。まったく。おれはまだ、そいつに話があるんだ」
男はついてくるのだが。
室内の人間たちが、この男に気づいていない。
「生まれたばかりの子は、不思議なものが見えるとか」
「きっと、尊いものをご覧になっているのですわ」
女たちが若い男に声掛けをしている。
「おれは、サイモン。天使サイモンだ。お前の監視者」
かんししゃ。
「そうだ」
若い男の腕を覗き込み、男は頷く。
聞き覚えがある。そうだ。シエルがその名を言っていたような気がする。
「お前が約束を破らぬか、良い子に育っているか、命に別状はないかを見届ける」
約束。
記憶をたぐる。そうだ。シエルは、こうも言っていた。
『人を殺めたり、騙したりしてはなりません。動物もそうです。無用な殺生は禁じます。そんなことをすれば、力は返しません。人として死になさい』
『人間の世界には、神具や魔法陣があります。使ってはなりません』
わかった。
リチャードは、こっくりと頷く。
「この屋敷には結界を張ってある。この屋敷や教会の支配が及ぶ空間においては、容易に堕天使も手出しできない。よしんば襲ってきたとしても、わたしが撃退してやる」
どうやらこの男は自分の敵ではないようだ。
ほっとした矢先。
男は細く尖りがちな指で、リチャードの顎を捉えた。
「だがな、覚えておけ。おれはお前が嫌いだ。大っ嫌いだ」
また、片頬を歪ませて嗤う。
「生まれ変わろうが、知識を得ようが、経験を獲得しようが」
睨みつける視線に、リチャードは毛を逆立てて喚いた。男から逃れようと必死でもがく。だが、男は顎に爪を立てて吐き捨てた。
「お前が天使殺しであることは変わらん」
はなせっ!
リチャードが怒鳴る。
「同胞からも、袂を別かった者たちからも、お前は追われるのだ」
顔を近づけ、冷えた呼気を吐きかけられた。リチャードは、必死でもがく。
「どうしたのだ。腹が減ったのか? おしめか?」
若い男が困惑し、火が付いたように泣き出した赤ん坊をなだめようと、揺すりながら室内を歩く。
おかげでリチャードは男の手から逃れることができた。
「シエル様の命令だ。二十歳までは守ってやろう。定期的に様子を見に来てやる。お前に復讐をたくらむ堕天使からも、守ってやろう」
男は言うなり、両方の翼を広げた。
ばさり、と。
翼は、空を撃って宙に舞い上がる。
「な……、なんだ?」
風圧でカーテンや寝台の紗が揺れる。
若い男は、リチャードを守るように抱きかかえ、室内の女たちは寝台の若い女を庇うように抱きしめた。
「聞きなさい、良き人たちよ」
宙に浮かんだ男は、さっきまでの敵意むき出しの表情ではなく、穏やかで落ち着き払った笑みを顔に浮かべ、室内の人間たちを睥睨した。
「て……。天使……っ」
「御使い様……っ」
女たちは床に平伏し、若い女も寝台の上で頭を下げた。
若い男は茫然と宙に浮かぶ男を見ていたが、我に返ってリチャードを抱いたまま、両膝を床につく。急いで首を垂れた。
「おめでとう、リチャード。おめでとう、人の子。天はそなたを祝福します。ようこそ」
この世に。
白い翼を持つ男は、唇を歪ませて嗤った。
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