スキルを全て奪われて転生させられた俺。やり直し条件は〝良い子〟になること⁉ 果たして二十歳までに原状復帰できるのか!  

武州青嵐(さくら青嵐)

序章

第1話 〝それ〟が名前を獲得するまで

〝それ〟にとっての世界とは。

 薄ぼんやりとしていて、静かで。明瞭な形をもつものではなかった。


 最初に命じられたのは『戦え』ということ。それはいまも覚えている。


 教えられてもいないのに、その命を自分に下しているのが庇護者だということを〝それ〟は知っていた。


 庇護者からの命令は止むことが無く、脳内で執拗に繰り返された。

 その指示に突き動かされるように、〝それ〟は暴れまわった。


 『戦え』と言われても、自分の身体を切り裂き、害をなそうとするものが一体なんなのか全くわからなかった。


 攻撃は突如として始まり、その攻撃から、痛みから、苦痛から逃れるためだけに〝それ〟は牙を剥き、爪を立て、暴れまわった。


 〝それ〟にとって、世界は「快」か「不快」しかなかった。


 庇護者からの命令は常につきまとっていたが〝それ〟は次第に、戦いから逃げるようになった。暗がりに逃げ込むようになった。そこが〝それ〟にとって「快」だったからだ。


 そして暗がりから引きずり出し、「不快」を与える者には、噛みつき、叩き潰し、力づくで消し去るようにしてきた。


 そんな状況なので仕方のないことだが、〝それ〟はいつもひとりぼっちだった。


 庇護者は別として、〝それ〟と意思疎通を行えたのは、いくつかの精霊たちだ。


 当初精霊たちは〝それ〟に不快を与えるものであったため、屈服させ、消滅させるのを赦す代わりに使役した。


 そうして。

 自分にとって「快」である状態を保ってきた。

 そうやって、いままでなんとか生き延びてきた。


 だが現在。

 〝それ〟は、拘束され、ねじ伏せられ、首を上から押さえつけられている。

これは〝それ〟にとって、不快であり、激しい怒りを伴うものであった。


「見よ、あれを。なんと下劣な姿か」

「牙を剥きよるわ。おぞましい」


 頭に直接響いてくる塩辛声に、〝それ〟は歯を剥き出し、威嚇のために打ち鳴らして見せる。返ってきたのは、呆れた笑い声だ。


 〝それ〟は、怒りに身体を熱くし、もがき続けた。


 自分を捕らえるものが何かは分からないが、自由を奪われた苛立ちが血流に乗って全身を駆け巡る。


 この状態は嫌だ、潰してやる、噛みついてやる。

 〝それ〟は転げまわり、喉を震わせて吠えた。


「腹立だしい。こいつのせいで、天使がいくつ殺されたか。早う始末せよ」


 ひと際大きな声に、嘲笑を交えた声が追随する。


「まさにそうじゃ。わしが手塩にかけた天使が……。口惜しや」

「誰ぞ、早う」


 頬に、首に。

 感じる熱感に、〝それ〟は本能的に悟る。


 殺されることを。


 〝それ〟は身体をのたうたせ、ふと、気づいた。

 手首は動かないが、指が動く。


 奴らは、自分の手首や脚、胴や腕はいましめているが、指にはなにもしていない。


 〝それ〟は、笑った。いや、哄笑した。


 ぴたり、と。

 脳を揺さぶる不愉快な声が止む。


 〝それ〟は、両手の指を素早く動かした。


 親指を立て、人差し指同士を絡め、その次には、右の薬指を折って、左の小指を伸ばした。


 精霊を呼び出してやる。


〝それ〟は指を使って合図を送ることで、今までいくつかの精霊と契約を交わしてきた。使役してきた。


 奴らに命じればいいのだ。

 こいつらを皆殺しにしろ、と。


「こやつ……。まさか召還術を……?」

「魔法陣が……っ!」

「詠唱をせなんだぞ⁉」

莫迦ばかな………。こんなもの、見たことがない……っ」


 慌てる者どもに、〝それ〟は、ざまあみろ、と雄たけびを上げた。


 波動を感じる。

 魔法陣が完成しつつあった。


 そうして、正しく、手順にのっとり、粛々しゅくしゅくと指で文字を綴る。


 もうすぐだ。

 あとふたつ。


 左手の親指を伸ばし、右手の人差し指を……。


 だが、そこで、〝それ〟は手首に一瞬、冷たさを感じた。


「……?」


 わずかに首を傾げると同時に、壮絶な痛みが全身を貫いた。


 〝それ〟は喉を逸らして絶叫する。


 痛い、痛い、痛い、痛い。


 のたうち、あがき、悶えた。


 指が動かない。

 いや。

 掌がない。

 指がない。


 壮絶な痛みと感覚に、手首から先を切り落とされたのだと知る。


「騒々しくて構わぬ。さっさとほふれ」


 頭の中で、わんわんと塩辛声が反響する。


 痛い、痛い、痛い、痛い。

 頬をとめどなく伝うのは涙なのか。顎を濡らすのは涎なのか。


 〝それ〟は、ただ、苦痛から逃れようと動き回るが、それさえもままならなくなり始める。


 血が、流れ過ぎたのだ。

 息を一生懸命吐き出すのに、入ってこない。


 身体中が熱くなる。苦しい。


 〝それ〟は、必死に顎を上げた。

 そのさまを見て、いくつかの嘲笑が〝それ〟を包む。


仕留しとめよ」

 断罪の声が響く。〝それ〟は死を覚悟した。


 だが。


「お待ちください。裁可をいただきました」


 凛とした声が〝それ〟の頬を打った。

 びくり、と肩を震わせた拍子に〝それ〟は気づく。


 痛みが、消えたことに。


 脳天から足のつま先までを貫くような苦痛はかき消え、いつの間にか呼吸も楽になっている。


「なにをしに来た、シエル」


 塩辛声が問う。


天主てんしゅに裁可をいただきました。今から、こやつは、わたしのものです」


 凛とした声が応じる。シエルとはこの声の主のことらしい。


 〝それ〟は、大きく呼吸を何度も繰り返し、様子を窺う。

 なにがどうなっているのかはわからないが、苦痛から解放された。これは、良いことだ。


 逃げなければ。

 咄嗟に、指を動かそうとしたが、やはり手首から先の感覚がない。


 〝それ〟は、吠えた。

 身体をねじらせ、なんとか拘束を解こうともがく。


 だが、今度はぴくりとも身体が動かない。


「お前も変わったやつじゃな。そんな知恵もない半端ものをどうするのじゃ」

堕天使天使味方もわからぬ愚か者ぞ?」

「天使殺しじゃ。潰してしまえ」


 矢のように放たれる言葉を、シエルが砕く。


「それは、こやつのせいではありません。いくつかの偶然が重なった予期せぬ結果であることは、皆様も承知のはず」


 続くのはあきれたような嘆息と、突き放すような無言だ。


「わたしは、こやつにもう一度機会を与えようと思っています。この個体は非常に興味深いではありませんか」


「与えてどうする。どうにもならぬわ。それは単なる失敗作」

 吐き捨てられた。


「見ろ、この野獣のごときふるまいを。知性すら感じられぬ」

「世界を知らぬからです」


「知らぬのではない。理解できぬのじゃ」

「できます」


 凛とした声は強情に言い張った。


「それで? シエルよ。ぬしは、こやつをどうするつもりじゃ」

 淡々とした塩辛声には、冷たい無関心が秘められている。


「わたしの声が聞こえていますね?」


 シエルが声を向けたのは、〝それ〟に対してだった。


「わたしはシエルと言います。あなたの庇護者となりました。よいですか? 今からあなたは、もう一度下界に降ります」


 下界。

 今まで、自分がいたところだろうか。


 庇護者。

 それは知っている。

 気づいたとき、庇護者は命じたのだ。


『戦え』と。


 だから、〝それ〟は必死になった。

 自分の命を守ろうとがむしゃらになった。


 この〝世界〟で戦い続けた。


「そうです。今度は、人の子として生まれるのです」


 ひとのこ。

 なんだろう、それは。


「お前は両親を得、そこで名を貰うでしょう。慈しまれ、育ちます」


 りょうしん。

 聞いたことがない言葉だった。


 だが、〝名前〟は知っている。

 精霊から奪い、意のままに操るために利用してきたものだ。


 そんなものはいらない。

 知られたら厄介だ。


「いいえ。必要なのです。みな、名前を持つのです」


 頑迷に言われ、〝それ〟は牙を剥いて見せたが、相手は譲らなかった。


 まあ、いいだろう。

 〝それ〟は思った。


 名前を持ったところで、奪われなければいいのだ。自分にはそれだけの力がある。


「残念ながら、お前に与えられた力は、わたしが預かります」


 なんだと!

 〝それ〟は吠えた。身体を折り、跳ねるようにして力いっぱい喚いた。

 頭には塩辛声の嘲笑がいくつも木霊したが、それは構わなかった。


 力を奪われれば、死ぬだけだ。


 「戦え」ない。

 歯をかち鳴らせ、首を振った。感覚もないのに、指で文字を綴ろうと躍起になった。


「落ち着きなさい。お前が二十歳になれば返してやりましょう」


 はたち……。

 はあ、はあ、と荒い息で〝それ〟はつぶやいた。


「そうです。下界で人間として二十年暮らしなさい。そうすれば、お前はきっとどの天使にもできない任務をこなすことができるようになるでしょう」


 にんむ。

 それも、知らない言葉だ。


「ただし、良い人間になるのです」


 よい、にんげん。


「そうです。誰もがお前を敬い、可愛がり、そしてお前自身もたくさんの人を愛するのです。そうして、二十歳になるのです。そうすれば、力を返します」


 〝それ〟には、ほとんど意味が分からなかった。

 ただ、力を返す、という部分に惹かれて、頷いた。


「人を殺めたり、騙したりしてはなりません。動物もそうです。無用な殺生を禁じます。そんなことをすれば、力は返しません。人として死になさい」


 やはり、〝それ〟にはほとんど意味がわからなかったが、死ぬ、という言葉を恐れ、本能的に首を縦に振った。


「素直なことは良いことです」


 声はようやく穏やかさを含ませた。


 ふわりと頭の上をなにかが、さする。〝それ〟にとっては、初めての感覚だ。

 快か不快か、といえば、快だ。


 〝それ〟は目を細め、自分にふれるものに、頭をすりつけた。


「笑顔は良いことです。みなに与えなさい。そして、お前がみなを笑顔にするのです」


 えがお。

 それも知らない言葉だ。


「お前にはつらい思いをさせました。この世はお前が思っているようなものではないのです」


 快か不快。

 うすぼんやりとした世界と、真っ暗な世界。

 静寂か、苦痛か。


〝それ〟が知る世界は、それだけで成り立っていた。


「違うのです。もっと世界は多様で、複雑で、興味深いのです」


 声には悲哀が滲んでいたが、〝それ〟には感じ取れなかった。

 なぜなら、そんな感情にふれたことが初めてだったからだ。


「ああ……。そうですね。下界で生活するうえで、お前自身の生命が脅かされることもあるやもしれません。監視者をつけましょう。天使サイモン。行きなさい」


 はい、と誰かが返事をした。


「そして、もし『今のお前』と同じ状態になれば……。危機的状況になれば、力を返してあげましょう。魔法陣を使うことも許します」


 いまの、おまえ。

 なんのことだろう、と〝それ〟は、首を傾げる。


「その時がくれば、わかるでしょう。ああ、そうだ。人間の世界には、神具や魔法陣があります」


 魔法陣。

 ぴくり、と〝それ〟は肩を震わせた。


 なら、やれる。力が無くとも戦える。


「いいえ。使ってはなりません。もし、使ったらその場で終了です。人の子として死になさい」


 途端に、〝それ〟は肩を落とす。

 ふふ、と、シエルは、〝それ〟が聞いたことのない声を漏らした。


「お前は表情豊かなのですね、知りませんでした。案じることはありません。お前は人の子として、正しく、良い子であればいいのです。それは決して難しいことではありません」


 頬を何かで包まれた。

 あたたかい、と、それは目を閉じる。


 快か不快か、と言われれば。

 快だった。


「さあ、行きなさい。人の子として」


 その言葉を最後に〝それ〟の意識は、粘着質な睡眠に絡めとられ、一気に沈み込んだ。

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