第2話

 瞼を閉じてからどれくらいの時間が経過しただろうか世界が暗闇に包まれてからというもの何も変化がない。とっくに鯨の怪物は私の体を丸呑みにするなりその巨軀で押しつぶすなりしていてもいい頃合いだというのに。

 最後の最後で何も感じることなく逝かせて欲しいという願いだけは叶えてくれたのかもしれないと現状を確認するため真っ暗闇に別れを告げるように目を見開いた。果たして自分が存在する場所は死後の世界か鯨の胃袋の中かはたまた別世界に飛ばされちゃったなんてこともあるかもしれないと想像するだけでも期待が膨らみ心は踊った。

 目を開いて一番に飛び込んできたのは眩い光の一斉照射であり耐えられるはずもなく思わず背後へと顔を背けてしまう。しばらくの間は光をまともに浴びてしまったことで視界が真白に染まりゆっくりと時間をかけて薄れてゆきだんだんと風景が映し出されていく。

 目の前に広がっていたのは知らない街並みや雲の上の世界などの幻想的なものではなく真夜中の森だった。森から視線を右側に九十度移動させるとまた森ががありさらに九十度移動させると途中から湖が現れ正面へと向き直ると目と鼻の先に迫力満点の鯨の怪物が存在した。

 現状を整理するなら私は生き残り現世にとどまったままということらしいが危機的状況は何一つとして変わっていなかった。しかし目を瞑る前と後で明らかな変化が起こっており、怪物と私との間には神々しい光の壁が存在し突進を食い止めてくれていた。この世に存在する何で形容したものかと頭を悩ませるほどの総重量を誇るであろう鯨の突撃を完全に無力化してしまう防御魔法など使えるはずもなくこれが私の体内に眠っていた未知なる力かと潜在能力の凄まじさを実感する。

 やれば出来る子、死の淵に立たされることで覚醒などと明日の朝刊の一ページを想像していると耳をつんざくような雄叫びが壁の向こう側から飛んできて緊張感が舞戻り身を引き締め直す。

 完全に安心してしまっていたが光の壁がこのまま突き破られることがないとは保証がないし、もしかしたら継続時間があって突然消えてしまうかもしれないのだ。であるならば取るべき選択肢は一つしかなく、今日だけでも二回目となる命拾いには生きろと言われているようなそんな気さえして神のお導きに背中を押されるように逃走を図る。

 森を走り抜けるくらいの気力は回復しているしこれなら十二分に現状を脱する算段がつくと鯨に背を向けようとしたそのとき、背後から何者かの足音が迫りつつあるのを聞き逃さなかった。

 命辛々ようやく明日を迎えられると思ったのも束の間、更なる刺客の登場に神は私を生かしたいのか殺したいのか希望は絶望に変わり心境は荒れに荒れ泣き叫びたいくらいだ。

 迫りくる人物が敵だろうが味方だろうが振り返らないわけにはいかず、救世主様であらせられますようにと祈り背後を振り返った。足音を察知してからずっと背後から近づいてくる気配を感じていたというのに確認してみると視線の先には木々の枝葉が怪しく揺れながら立ち並んでいるだけであり人も動物も何も存在しない。


「こっちだよお嬢さん」


 聞き間違い、でもそんなはずないと困惑してしまう。なんと恐ろしいことか鯨の怪物がいる方向から確かな声がかけられたのだ。喋る魔物など聞いたことがないがスケールの違う存在であればもうなんでもありかとゆっくりと身を震わせながら向き直る。つい先ほどまで怪物、壁、私だった配置が怪物、壁、謎の人物、私という新たな人物を交えた配置に変わっていた。


「誰なんですかあなたは」


 脳内の疑問は直接言葉となって口から出てしまっていた。自分が地面に座り込んでいることもあってかなりの長身に見える女性とも男性とも取れる腰のあたりまである長髪垂れ下がる背中はおそらく敵ではないと直感が告げていた。

 投げかけられた声に反応するように謎の人物は振り返ると疑問に答えるわけでもなく柔和な笑みを作るとすぐに再び正面の怪物と光の壁越しに対峙する。 

 緊迫した場面にはとても思えない余裕の表情の人物がここからどうするのだろうと次なる一手を予測していると、救世主様は光の壁に手を添えた。そこから驚愕すべきことになんと自分の体重の何十倍、何百倍、いやそれ以上の重量があるであろう怪物をいとも容易く押し返してのけたのだ。

 鯨の怪物も咆哮を轟かせ障壁を突き破ろうとするも押し返す救世主様の足は止まることなく湖畔まで辿り着き、実力の差を思い知らされたのか怪物は逃げるように湖の底へと帰っていった。

 驚異の耐久力を見せつけ光り輝いていた防御魔法も役目を終えるとあっさりと消え去り辺り一帯はまた闇夜の暗がりに包まれる。鯨の怪物は確かに恐ろしく身が竦みそうなほどだったが、その怪物を凌駕するほどの力を持つ突如現れた救世主様も恐ろしい存在だ。

 違いがあるとすれば命の恩人であるかないかであり、救ってもらっておいて化け物扱いをして逃げ出すのは失礼極まりないとすぐに思考を改め直す。

 身も心も恐怖に染まり凍りつきそうなほど恐ろしい怪物と相見えたというのに涼しい顔つきでゆっくりとこちらに戻ってこられる救世主様。さらに淡々とした様子で当たり前のように命を助けてもらっては初対面だろうがなんだろうが心は抑えようにも揺れに揺れる。空から鯨の怪物が迫る時とは真逆の意味で心臓の鼓動は早まり救世主様が戻ってくるのを大人しく待つ。


「危なかったねお嬢さん。ちょっと手を見せてくれるかな」


 お嬢さんなんて呼ばれたことが人生で一度でもあっただろうか。低くも暖かさと優しさに包まれた声音にとろけてしまいそうになりながら、怪我の心配までしてくれる救世主様にすでに身を許してしまう自分がいた。

 右手を差し出すと反対もと言われ両手を突き出しながら緩み切った表情で診察を受けていると急に手首のあたりが締め付けられた。上の空だった気分も手首の違和感に反応するように薄れ突き出していた両手に焦点を合わせると手首が拘束されてしまっているではありませんか。

 目線を手首から正面の救世主様へと移しどういうことと確かめるように目で訴えてみるも微笑みだけが返ってくるだけだった。

 騙された、私はこれから売られるんだと現状を飲み込むと恋心などといった浮かれた幻想は全て砕け散り、目の前の人物が甘いマスクをかぶった悪魔のように凶悪な存在として目に映る。もう何度目かもわからないピンチに辟易しながらもコンディションだけならこれまでのどの状況よりもマシだと逃げるための作戦を導くため思考回路が焼き切れない限界の速度で思考を巡らせた。


「往生際の悪いことはしない方が得策だよ。お嬢さんの手を拘束するそれは魔力を検知すると爆発するようになってるから。大丈夫、心配しなくていいよ。別にどこかに売り払ったり、命を奪おうなんて思ってないから。ただ聞きたいことがたくさんあってね、我々の拠点まで来てもらいたいだけなんだ」


 やはりというべきか淡々と話している間も一切笑みを崩さない救世主様でも悪魔様でもある彼は意図を説明してくれたわけだけれども、爆発するとか言われてしまったら素直に従うしかなかった。余計なことをする前に忠告してくれてよかったと思いつつ、話を聞くだけというのであれば素直に従おうと腹を決めると「わかったわ」と彼の後についていくことにした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る