第15話

   ※


 ハルメリアという国があった。

 魔道具の研究・生成で大陸の文化に多大な貢献をした、女王を頂点とした王立制の小国。その実情は、狂信的な魔力至上主義で成り立っていた国家だった。

 民の全ての命は、エーテルのために。

 狂った倫理観は、女王の娘——第一王女、アイシャ・レナ・シュバルツに白き魔力が宿っていたことで頂点に達する。

 史実には嘘がある。

 第一王女が死亡したのは十八年前のことではない。〝死亡〟という言葉自体に語弊があるかもしれない。

 本当は、アイシャは赤子のうちに様々な生体実験を施され、人工的に産み出された聖魔神器「ドラウプニル」の器として、白きエーテルと共に魂を移植されたのである。

 元々存在したドラウプニルの精神に白い魔力だけが移ったのか、アイシャの魂がドラウプニルと同化したのか、真相は定かではない。

 ハルメリアにとって、それは重要なことではなかった。彼らにとって重要だったのは、魔法を——特別な白い魔法を、人類で初めて体現し、コントロールする器を手に入れたという事実だった。


 イリアが第二王女として〝選ばれた〟のも、赤子の頃のことだった。

 骨格検査やストレスチェックなど、様々なテストをクリアし、選抜され、第二王女を演じるのに最も適した人間として選出されたのが、イリアだった。

 民の全ての命は、エーテルのために。

 本来は存在するはずのない第二王女が捏造されたのは、ドラウプニルのスケープゴートとするためだ。真に白魔法を使える者の存在を秘匿しなければならないほど、白い魔力は危険な力だとハルメリアの人間たちは判断した。だが、研究はしたい。未知の力を解明したい。だから身代わりをでっち上げた。白きエーテルを宿す選ばれた乙女は第二王女のクリスティーナである——と。

 イリアはそのためだけの存在だった。

 明るく、社交的に。対外的な公務の全てを、イリアは子供の頃から笑顔でこなした。

 本当の自分の親の顔は知らなかった。自分の周りにいるのは、ドラウプニルが創り出した姉と両親だけ。本当の王女でもない。

 イリアは、何者でもなかった。


〝この人はなにをしているの?〟

 物語を読みながら、イリアは傍らで本を支えてくれている姉を見上げた。

 イリアの境遇を憐れんだのか、ドラウプニルが戯れに寝室へ持ち込む本を読むのが、イリアは好きだった。

〝泣いています。大切な人が、死んでしまったから〟

〝なくって、なに?〟

〝悲しい時、目から涙が溢れることです〟

〝かなしいってなに? どうして目からお水がながれるの?〟

 ドラウプニルは、答えられない。

 人の形を模した分身を産み出せても、人の感情を深く理解することができない。

〝みんなわらっていたらいいのに〟

 ただ、ドラウプニルには、イリアの感情の一部が決定的に欠落していることだけはわかった。


 変化は緩やかだったので、誰もそのことに気がつかなかった。

 彼らはひっそりとハルメリアの中へ入り込み、少しずつ臣民たちと入れ替わっていた。

 ハルメリアの人間が異変にようやく気づいたのは、アイシャが暗殺された時だった。もとより魂を持たないドラウプニルの分身は人知れずエーテルへと溶化し、ハルメリアの高官たちはすぐに調査へ乗り出したが、すでに要職の半数以上が彼らに同化された後では、全てが手遅れだった。

 ウィザードたちは狡猾で、残忍だった。


〝なぜ笑っている?〟

 ディアーナは憐憫の眼差しをイリアに向けた。

 燃え盛る祖国を丘の上から眺めながら、イリアが口元に笑みを湛えていたからだ。

〝笑う以外の感情を教えられていません〟

〝不憫だな。お前たちもこの胸くそ悪い国家の犠牲者か〟

 女性でありながら、大国エステリアで剣聖と謳われる女剣士。ディアーナの眼光は鋭く、力強く、しかし不思議な包容力に満ちていた。

〝すまないが、お前たちをエステリアで保護してやることはできない。お前たちの白きエーテルは、国のお偉いさんたちにとってはエデンの果実だ。必ず争いの種になる。あたしは派遣されただけの兵士にすぎないし、この国を襲った連中の情報も少なすぎる。お前たちの国がそうだったように、すでにエステリアの内部に入り込んでいる可能性もある〟

〝ディアーナ様が全て駆逐されたのではないのですか?〟

〝そうだと思いたいがな。用心に越したことはない。ああいうの、魔法ってんだろ? お前たちの白魔法も含めて、この一件は闇に葬っちまった方が安全だ〟

 生きろ——と、ディアーナは言った。

〝軍資金は用意してやる。世界は広い。笑う以外の感情を見つけてみせろ〟


 不思議な男性に出会った。

 一年前のことだ。

 十六年間、父親を偽装した擬体と共に、イリアとドラウプニルは大陸の各地を転々とした後、大陸南部のダリア王国へ腰を落ち着けた。

 ディアーナとの秘密裏の友好は続いており、エステリアで情報交換を済ませた帰り道、イリアとドラウプニルは魔物に襲われた。

 安全が確保されているはずの街道で遭遇するには、あまりにも凶暴な三つ首の魔獣、ケルベロス。

 それは一瞬の出来事だった。

 身の丈を超える怪物に追い詰められ、飛び掛かられる直前、ケルベロスとイリアの間に割って入った男性の一撃で、巨大な魔獣の体は膨れ上がり、爆散した。

〝怪我はないですか……?〟

 雨に濡れるように全身へ魔力の残骸を浴びながら、ゼウ・アンダーソンは無表情で振り返った。

〝大丈夫……ですか?〟

 荷車の後ろに乗せてもらい、王都まで送り届けてもらった。王都外壁で父が門番に話をつけていた時、ゼウはバックパックから取り出したドリンクボトルをイリアに手渡した。

〝あの……自分は一度も口をつけていないので〟

 保温が効くマジックボトルだった。

 蓋を開くと甘いかおりの湯気が立ち昇った。ホットのはちみつレモンのようだった。

〝妹が持たせてくれるんです。温まると、少し落ち着きますよ?〟

 ゼウの視線の先を追って、イリアはその時初めて自分の手が震えていることに気がついた。

 いけない。

 笑わなければ。

 あれ?

 ——なんでわたし、笑わないとダメなんだっけ……。

〝すごく、おいしそう。いただきます〟

 イリアは時々、この時のことを思い出す。

 パノラマに広がる北部平原、森林地帯の奥の地平線へ沈んでいく夕陽を、ゼウと二人で眺めた。少し肌寒い風が頬をなでていくのを感じながら、甘くてすっぱいはちみつレモンがじんわりと口の中いっぱいに広がって、イリアは自分が生きていることを実感した。

〝きれいですよね。俺、ここから見る景色が好きなんです〟

 イリアが深く頷くと、ゼウはやわらかく目を細めた。

 ゼウはきっと、自分が笑ったことに気づいていない。覚えてもいないだろう。

 ふっと寂しそうに頬をゆるめて、瞳の奥にやさしさを湛えたその表情に、イリアは見惚れた。

〝ゼウさん〟

 それからずっと、イリアはゼウを見ている。

〝ゼーウさん〟

 いつかまた、彼のあの笑顔が見たい。

 笑顔だけじゃない。彼のいろんな表情や仕草が見たい。

 ゼウと話す時だけ、イリアは笑うのが楽しかった。

 恋だった。


   ※

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る