第13話

   ※


 アンダーソン夫妻が王都郊外へ移り住んだのは、ゼウが生まれてしばらく経った頃のことだった。

 その身にエーテルを宿せない息子を世間から隔離したのだと周囲の人間は考えたが、ゼウの最も幸福な記憶は少年期にある。

 アンダーソン夫妻はゼウとヒナを分け隔てなく愛した。ゼウもまた幼いヒナの面倒をよく見、両親を模範し、他者への思いやりを忘れない少年だった。

 優れた容姿と勤勉な性格は、ヒルビリーという社会的欠点と相まって、学校で度々身に覚えのない因縁をつけられ、時に暴力を振るわれる要因にもなったが、ゼウはそれを気にしたことはなかった。

 幸福とは、大切な人が傍にいて、食べる物があり、眠る場所があることだ。それ以上を望む必要はない。

 ゼウの毎日の楽しみは、本で読んだ物語や、裏山で見つけた動物や昆虫についての話を両親とヒナにすることだった。

 ゼウは、好奇心旺盛な男の子がそうであるように、よく喋り、よく笑う子供だった。


〝あらぁ、今日の子、美しいわね〟

 絢爛に彩られた室内で、ゼウは虚な目で前方を見つめていた。

 女に指を鳴らされ、一歩前へ出る。裸の自分を、他の女たちが舐め回すように品定めしている。

〝いいでしょう? 今までで一番の掘り出し物だわ〟

〝あっちの方はどうなのかしら?〟

〝とっても、相性がいいみたい。この子も私のこと、気に入ってくれてるみたいだし……ねぇ?〟

〝はい……〟

 ゼウは無機質に言葉を発した。

〝ほら、笑って……彫刻のように美しい、あなたの笑顔を見せてちょうだい〟

〝はい〟

 笑みを浮かべる。

 質問をされたら、全てイエスで返す。そういう契約だった。何をされても、大人しく従っていれば、大金がもらえる。

 だからゼウは、女が上から跨ってくる時もただ言われた通りにしていた。

〝いいわ、ゼウちゃん! ほら、もっと……もっと笑ってちょうだい〟

 気持ち悪かった。

 何もかもが。

 それでもゼウは、両親が生きていた頃のことを思い出し、無理矢理笑みを浮かべ続けた。


〝おいしいねぇ、おにいちゃん!〟

 テーブルのごちそうを平らげながら、ヒナは満面の笑顔を見せた。

 ヒナの笑顔を見たのは、いつぐらいぶりだろう? 両親が死んでから、妹は泣いてばかりだった。

〝なんでそんなわらい方するの?〟

 ヒナがそう言ったのは、どれくらいの月日が経った頃だっただろう。

 ——え……?

〝なんだか、こわいよ、おにいちゃん〟

 鏡に映った自分を見て、ゼウはぞっとした。

 引きつった気味の悪い笑みを浮かべた自分がそこにいた。こすっても、鏡を壊しても、その笑みは消えなかった。

 気がつくと、ゼウは鏡の破片を自分の顔へ何度も突き刺していた。

〝だめだよ、おにいちゃん! そんなことしたら死んじゃうよぉ!〟

 ヒナが泣きじゃくっても、ゼウは自分の顔を抉るのをやめなかった。

 気持ちが悪いのは、こいつだ。

 自分自身だ。

 滴った血が、視界を赤く塗り潰していく。

〝この女に見覚えはないか?〟

 王都から憲兵がやってきたのは、数日後のことだった。

〝保護と称して子供を買うような真似をしていた小悪党でな。逮捕されたんだが、太客だった子供が王都の外れに住んでいると……〟

 ドアを開けた憲兵は、ゼウの顔を見て言葉を詰まらせた。

〝すまない、人違いだったようだ〟

 赤く滲んだゼウの瞳の奥には、なんの感情も宿っていなかった。


〝面白い奴だな、お前〟

 プコットは言った。

 レイリアから大陸を回っているという旅人。自由の徒でありながら、強く意志的な眼差しを持った女性。

〝世界は基本的にお前に興味がない。今日この場で野垂れ死んでも、これから偉大な何かを成したとしても、何事もなかったようにこの世の中は回っていく。色は空しく、喜びも怒りも、永遠のものなど存在しない。全ては空無だ。なぜ一介の旅人のアタシに教えを乞う? 誰かに……いや、世界に復讐でもするつもりか?〟

 違う。

 ただ、強くありたい。

 妹を食わせてやりたいだけだ。

〝いいだろう。お前の中には悪意がない。実に興味深いな。レイリアに戻るのもメンドくさいと思っていたところだ。お前にアタシの全てを叩き込んでやる。自分の色を見つけてみせろ〟

 

 不思議な女性に出会った。

 一年前のことだ。

 魔物に襲われ、危うく命を落とすところだったにもかかわらず、その女性——イリアは笑顔だった。

 街へ収穫物の納品に行く際、ゼウはイリアをよく見るようになった。カフェの看板娘である彼女は、いつも客や軒先を通る通行人に明るい笑い声を振りまいていた。

 彼女を見かけるのが楽しみになったのはなぜだろう?

 彼女は自分と似ていて。

 でも、違っていた。

 心を切り刻み、逃げ出した自分とは——。

〝ゼーウさん?〟

 話しかけられると、いつも目を逸らしてしまう。

〝ヒナちゃんがね、お兄ちゃんがこっちに来てる時くらい外食したいって拗ねてましたよ?〟

 ぺぺのカフェテリアから、ヒナが意地の悪そうな顔でヒラヒラと手を振っていた。

〝たまには寄っていってくださいね? ランチでも、ディナーでも、コーヒーでも。うちの自慢の料理は、食べると笑顔になるって評判なんですから〟

 口の両端に人差し指を当てて、にっこり笑ったイリアが小首を傾げる。

 ゼウは十数年ぶりに、へたくそな笑顔を浮かべた。

 恋だった。


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