洗濯おばさんのちいさな心の窓
高秀恵子
洗濯おばさんのちいさな心の窓
洗濯おばさんの仕事場には窓がありません。大きめの家庭用洗濯機3台と業務用の洗濯乾燥機が、いつも大きなうなり声をあげています。
洗濯おばさんの仕事は、老人ホームでの洗濯です。
「ええっと……山本さんの洗濯物は、シャツが3枚のパンツが5枚だから下着は8枚、洋服はトレーナーにポロシャツに……名前はどこに書いてあるんだっけ?」
洗濯おばさんは今日も老人ホームの住人の洗濯物の名前を確かめ、ポケットの中を点検し洗濯台帳に名前と洗濯物の枚数を書いて、洗濯機に汚れた衣類を放り込んでいます。
「あのぅごめんなさい、洗濯おばさん。奥田マサ子さんの臨時の洗濯物をお願いします」
ヘルパーさんが多くの汚れた衣類を持って洗濯おばさんの所に来ました。
「今日の奥田さんは調子が悪いんです。お孫さんが居ないといって、タンスや引き出しの中をひっかき回して汚れ物をたくさん作りました。臨時の洗濯物ですがいいですか?」
「洗濯なら任せておいて!」
洗濯おばさんは気前よく奥田さんの洗濯物を引き受けました。
「ありがとう、林さん」
ヘルパーさんはそう言うと、洗濯室を後にしました。
洗濯室のドアが閉まると洗濯おばさんは、うんうんガタガタと機械の音がする狭い部屋で一人きりになります。
「本当にむなしい仕事だね!」
洗濯おばさんは大声でため息まじりのグチをはきましたが、その声は洗濯機と乾燥機の奏でる大きな音でかき消されました。
乾燥機が乾燥終了合図のチャイム音をならします。洗濯おばさんは乾燥機のドアを開けて洗濯ものを取り出し、大きなカゴにいれました。洗濯おばさんは乾燥を終えた洗濯物の名前と洗濯台帳を見ながら、しわけてたたみます。靴下やハンカチも洗濯ものにあるので。洗濯おばさんはイライラすることもあります。老人ホームの住人から出された洗濯物は全部、正確に持ち主のところにきれいに仕上がったものを返さなければなりません。
洗濯おばさんは奥田さんの洗濯物にとりかかりました。奥田さんのポケットには、誰かにプレゼントするためにティッシュペーパーでていねいに包んだ、おやつの時間のお菓子が入っています。洗濯おばさんは規則どおりにお菓子を捨てました。
(本当にむなしくてつらい仕事だわ……でも、ヘルパーさんも看護師さんも、大変なことがあるはずだわ。がんばらなくては)
洗濯おばさんは昔、看護師の仕事をしていました。無事定年退職し、第2の仕事として陰ながら高齢者を支える、老人ホームの洗濯の仕事を選びました。ですが時どき
(辞めようか……)
と思うことも多いのです。
きれいに洗った洗濯物を指定のカゴに入れ、新たに出て来た汚れものを受け取ります。これを洗濯室で洗濯をし、ていねいに仕上げ、ふたたび返すのが洗濯おばさんのルーティンワークです。
仕上がった洗濯物を持って、洗濯おばさんは広い廊下に出て、ヘルパーステーションへと向かいました。ヘルパーステーションの隣の居ごこちのいい談話室には、大勢の老人ホームの住人たちがくつろいでいます。みんな、洗濯おばさんが仕上げた服を着ています。
いつも阪神タイガースのユニフォームのようなトレーナーを着ているのが村田さんです。村田さんのお部屋は阪神タイガースのグッズでいっぱいだと、洗濯おばさんはヘルパーさんの立ち話で聞きました。しかし洗濯おばさんの見る村田さんは、生気のない表情で野球以外のテレビ番組をぼんやりと見ています。村田さんはもう、阪神タイガースの監督が誰なのか、いつ阪神タイガースが優勝したのか関心がありません。それでも習字のレクリエーションのときには太い文字で「阪神優勝
村田」と書いていたことを洗濯おばさんは知っています。
薄紫の服を好んで着ているのが鈴木さんです。洗濯おばさんの亡くなったお母さんも薄紫の服をよく着ていました。洗濯おばさんのお母さんは重い病気で早死にをしました。けれども同じ薄紫の服を着ている鈴木さんはとても元気で、毎日カラオケで「ここに幸あり」を歌っています。
そして一日中、談話室の窓辺に立っているのが奥田さんです。奥田さんはいつも
「夢人く〜ん。どこにいるの。早く幼稚園から帰っておいで」
と窓の外に向かって叫んでいます。窓からは、いろいろな幼稚園の送迎バスが走っているのが見えます。
じつは奥田さんの孫の『夢人くん』は、この老人ホームにたびたび来ています。
『夢人くん』は大きくなって大学を卒業し、理学療法士になり、この老人ホームでも訪問リハビリテーションの仕事をしています。
「おばあちゃん。僕が孫の夢人です」
リハビリの先生の夢人さんは仕事のかたわら奥田さんによくそう話しかけます。しかし奥田さんには伝わらないようです。あいさつをする夢人さんが「孫の夢人です」と言うものですから、奥田さんは夢人さんを自分の孫なのに『孫野』という名前の人だと思って
「孫野さんですか。いつもお世話になります」
とかた苦しくあいさつをします。
そしていつもの窓辺にもどり
「夢人くん、幼稚園で元気にしてるかしら?」
と悲しげにつぶやくのです。
奥田さんの娘さんは夫を若く事故で亡くしたシングルマザーで、奥田さんが孫の世話や家事を一手に引き受けていたと、洗濯おばさんはヘルパーさんから聞いています。
洗濯おばさんの一日の仕事が終わりました。
窓のない部屋から出た洗濯おばさんは、広い廊下を歩くだけで、せいせいした気分になります。あとは家に帰って自分の洗濯物を片付け、ご飯を食べるだけだと思うと一分でも早く、老人ホームを後にしたいと思っています。
そんな洗濯おばさんですが、老人ホームの様子がいつもと違うことに気がつきました。
「奥田さんがいなくなったの。洗濯おばさんもさがすのに協力をして!」
せっぱつまった表情でヘルパーさんは言います。奥田さんはエアコンの点検に来た業者の人たちがドアから出るすきに、急いて外に飛び出したとヘルパーさんは話しました。
「奥田さんは今日、黒にピンクと黄色の花柄もようのセーターと茶色のズボンを着ています」
ヘルパーの主任さんはきびきびと言います。
洗濯おばさんは奥田さんの顔をよく知りません。しかし着ているものに覚えはあります。
「私もさがすわ」
洗濯おばさんはそう言いました。
洗濯おばさんはとり合えず、老人ホームの外に出ました。でも洗濯おばさんは自分の勤め先なのに、バス停から老人ホームまでの歩きなれた道のことしか知りません。
(奥田さんは小さなお孫さんをさがして、この近くの子どもが居そうな公園や幼稚園とかのほうにいるはずだわ)
ですが老人ホームの近くにある公園や幼稚園のことなど洗濯おばさんにはとんと分かりません。老人ホームの外の風景も見たことがありません。スマートフォンの地図と、奥田さんが着ている服だけが洗濯おばさんにとっての手がかりです。
「奥田さ~ん。奥田マサ子さぁん」
洗濯おばさんは夕やみせまる街の中を歩きました。洗濯おばさんの気持ちは心配と心細さでいっぱいです。
(奥田さんはいつもこんな気持ちで『夢人くん』を待って、窓の外をながめていたのだわ……なんてつらい日常生活なのでしょう)
洗濯おばさんは奥田さんの気持ちを思い、胸が暗くなりました。
洗濯おばさんがスマートフォンを見い見い歩いていると、小さな公園が目に入りました。近所に塾があり、塾へ行き来る子どもがかたまって遊んでいます。その公園のやなぎの木の根元に洗濯おばさんは見慣れた洋服を着た人が、しゃがんでいるのを見つけました。黒地にピンクと黄色の花柄もようのあるセーターに、茶色いズボンを履いています。
「奥田さん」
洗濯おばさんは声をかけました。奥田さんは涙を流しています。
「夢人くんなら、今日は幼稚園の修学旅行なの。帰って来ないけど元気にしているよ」
洗濯おばさんはとっさにうそをつきました。
「おばあさんが元気にしていないと夢人くんが修学旅行から帰って来るとがっかりするわ」
「本当かい? 修学旅行なんて話に聞いていないよ」
奥田さんは怒ったように言います。
「とにかくホームにかえりましょう」
洗濯おばさんは電話をしました。
まもなくすると老人ホームの自動車がやって来ました。運転しているのは孫の夢人さんです。
「おばあちゃん。僕といっしょに帰りましょう。みんな心配しているよ」
夢人さんが車窓から大声でさけびます。
洗濯おばさんは奥田さんと手をつないで車へと向かいました。
(これからも心を開いてお年寄りたちに、もっといいお世話をさせていただきたいわ)
洗濯おばさんはそう思いました。
奥田さんと洗濯おばさんの長い影が、道路の上に揺れました。
明日もきっと晴れるでしょう。(了)
洗濯おばさんのちいさな心の窓 高秀恵子 @sansango9
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