星降る夢に、終わりの光を

月宮 和香

双子座流星群

 ––––泣かないで。


 哀一色で飽和した彼女の声は空気を震わせ、冷え切った夜を苦しくなる程の切なさで満たした。

 短針も十二を既に超えており、時折聞こえてくるのは近くを過ぎ去る車の音。あとは静寂だけ。

 大きく吐いた息は真っ白な雲となり、空へと昇って行った。


「大丈夫」


 人気のない公園、疎らにしかない街灯、ポツンと置かれたベンチ、僕らは座っていた。語らいも交わせぬ間に頭上を流れて行く、幾つもの沈黙の時間を跨ぎながら。


「まだ側にいるから」


 一夜限りの夢。暖かく、冷たく、幸せで、とても悲しい夢。始まりこそ曖昧なくせに、終わりだけは必ずあるもの。そうだ、これは夢。


「……ほら、顔を上げて」


 俯く僕の肩に手を回し、まだ小さく、撓やかで、今にも壊れてしまいそうなか細い身体をそっと寄せる。

 すると、僕らの間には何枚もの布があるはずなのに、肌と肌が触れ合っているような感覚がして、如何してか彼女の体温がはっきりと伝わって来た。


 暖かい。

 とても暖かい。


 暗く、熱く、重い雫が降りしきったあの快晴の日とは違う。

 ただ、彼女の体温は確かに暖かいはずなのに、何処か凍り付いてしまっているような、そんな不思議な温度だった。


「ねぇ。空、綺麗だよ」


 柔らかく小さな声が耳を劈く。


 きっと今、あれだけ焦がれた空には雲一つなく、淡い光が疎らに鏤められた透き通る紺青の海に、猶予う既望が青白い光を放ちながら浮かんでいるのだろう。

 そんな日常の風景さえもとても美しく、幻想的に見えるかも知れない。

 けれど、こんな最低な気分では楽しめるはずもない。だからこそ、僕は顔を見られたくもなかった。


 視界にはシワだらけのズボンだけが映ったまま、何も言えず、首を少し横に振る。


「そっか」


 吐息混じりに漏れ聞こえた言葉はまだ暖かい。「でも、本当に綺麗だよ」なんて意地悪なくらいに優しい声音で言葉を掛け、僕の手の上にそっと手を重ねた。


「ねぇ、覚えてる? 昔さ、よく星について教えてくれたよね」


 言葉が鼓膜を震わせる度、神経を伝うただの電気信号は名前のない温かさと黒い棘へ姿を変え、胸の奥深くへと吸収される。


「あれが、オリオン座だよね」


 きっと彼女は空の星々に向かってもう片方の手で指を刺しているのだろう。

 あの頃と何も変わらないように。


「あの明るい星が、確かベテルギウス……だったかな。それで、あっちがおおいぬ座で、シリウス。あと、あっちはこいぬ座。星の名前は忘れちゃったけど」


 もう何年も前のこと。いつかの流星群を二人で見ようとしたことがあった。もうなんて名前をした流星群だったかさえ覚えていないのだが。

 星が流れる時間が遅かったせいで親の猛反対に遭い、結局見ることが出来なかった。


「それで、その三つを繋いで、冬の大三角形。だよね」


 それでも駄々を捏ね続け、最終的にほんの少しの間だけだったが、草木が影になっていたベランダから二人で一緒に夜空を望んだ。

 とは言え、見えたのは二等星くらいまでだろうから、満天とは言えなかった。

 ……あぁ、そうだ、確かあれも冬の日。酷く寒かった夜。おかげでと言うべきか、雲一つなく、澄んだ空模様だった。


「懐かしいね。……あの時のこと、まだ覚えてる?」


 忘れはしない。けれど、もう朧げな“記憶”の一頁になってしまっていた。

 多分、僕は自慢げに適当な星に指を刺して、延々と本で読んだ話をしていた気がする。だが、そんな僕の話を彼女は楽しんでいるように見えた。それも、嘘なんてない本物の笑みを浮かべて。


「––––そろそろだよ」


 彼女が耳元でそう囁いた頃には、午前二時が目前に迫っていた。

 気付けば、一層夜風は凍て付き、空にはほんの少しの青と多くの黒が注ぎ足された。鮮やかさも美しさも失われ、ただ暗いだけの世界へと塗り変わっている。


「もう終わっちゃうのか」


 彼女は呟く。顔色一つ変えずに、いつものように、そう言う。

 ずっとそうだ。何があっても明日また会える、そう思わせる。

 ……突然起こった別れの直前までも。

 だが、今日ばかりは違う。重なり、触れ合っている手が微かに震えていることに気づかないはずもなかった。


「……私、実は嬉しかった。何もない真っ白な病室で、退屈なベットの上で、やりたいことが全然出来なくて、何も言えないままお別れするなんて、酷過ぎると思わない?」


 声も段々と籠り始め、震え出しているようにも聞こえる。


「それにさ、約束してたのにね……。一人で寂しい時に、ずっと思ってたんだ。今度こそ流星群を一緒見られるって」


 けれど、悟られまいと必死に押し殺しているのも、嫌でも分かってしまった。


「だからね、こうやって話も出来て、とっても嬉しかった」


 ふと、重なる二人の手に星の欠片が落ちるのを見てしまった。


「言いたい事も言えたし。やりたいことも出来たし。もう満足」


 ゆっくりと彼女の方を向く。


「これで、天国にだって行けそう」


 彼女は空を見上げていた。しかし、きっと空なんて見えていないのだろう。

 口角は吊り上がり、頬も力み、目元さえ笑った形になっているにも関わらず、頬を流れているのを見れば分からない筈もない。


「もう、本っ当に楽しかったよ」


 なのに、僕は彼女になんて声をかけていいか分からなかった。彼女が必死に堪えているその思いを、覚悟を、決して無駄にしたくなかったのだ。


「だからね……、だから……」


 けれど、その気持ちは単なる僕の心にある残響なのかも知れない。

 ただ認めたくないだけかも知れない。


「……ごめんね。上手く言えないかも……」


 胸に手を当てたまま深呼吸して、こちらを向き、目を合わせる。

 その眼は、擦った跡が赤く残っていて、大きな潤が浮かんでおり、ただ純粋に僕だけを見ているように思えた。


「……ありがとう」


 彼女がそう口にした瞬間、僕の中で不思議な感情が芽吹いた。名前の付かない怒りや憎しみに似た感情が。

 そして、自らがそれが何なのかを理解するのに時間もかからなかったのだ。


「––––なんだよ、それ」


 小さく呟く。

 そして、また俯き、自身に向けた激情のままを口にした。


「何が『ありがとう』だよ。そんなこと全然思ってないだろ。思ってもない言葉で慰めようとしてんじゃねぇよ。……だったら、まだ本心で言った言葉で傷つく方が何倍もマシなんだよ」


 言葉になっていく度に、自分でも考えていないほどの感情が昂っていく。

 奇跡の一夜を、泡沫の一瞬を、本当の最後を、こんな慰め合いで終わらせたくない。その思いだけで胸が一杯になり、喉まで出かけていた本音を無理矢理にでも吐き出していった。


「僕は、まだ話したい。まだ一緒に居たい。最期の最後まで、ちゃんと……」


 途端、彼女の手に力が入る。そして、ハッと彼女の顔を見上げた。


「……全然こっち向いてくれなかったじゃん。全然話してくれなかったじゃん」


 彼女の言葉から感情が溢れ出したその瞬間、一粒の光が軌跡を描きながら落ちて行った。


「私は、ずっと考えてた。どうやって傷つけないようにするか、って。どうやったら、立ち直って、また明日へ歩いてくれるか、って。……だからできるだけ我慢したの」


 そして、次々に駆け落ちていく。


「私だって、言いたいことも、やりたいことも、まだ一杯あるの」


 一つ流れ落ちて消えれば、また一つ流れ落ちる。絶え間なく流れるその流星群は、光の雨のよう。


「もっと一緒に居たいし、もっと話したい。色んな所に行って、色んなものを見て、遊びたい。まだ食べてないものも沢山あるし、まだしてないことも山ほどある」


 彼女は声を枯らし、顔をぐちゃぐちゃにして、それでも尚隠し通そうとしていた、心の奥に押し込めていた気持ちを叫ぶ。そして、耐え切れなくなった様子で、僕に抱きついた。


「……でも、出来ない。もう、叶わないの」


 きっと僕が考えている以上に様々なことを考え、僕が思っている以上に沢山のことを思って、感じているのだろう。まだ言い足りない様子なのに、言葉が出ないまま泣き声を押し殺す姿を見ていると、それが痛いほど伝わってくる。


「……大好きだった。色んなものを私にくれた君が、大好き」


 そして、その一言を最後に、もうただ泣き声と嗚咽だけしか聞こえなくなった。こんな風に弱々しく、泣き噦る彼女の姿を見ていると、僕の体は勝手に動き、彼女を抱きしめる。


「僕も、好き」


 気付いた頃には、そう口にしていた。

 すると、彼女の体から急に力が抜け、倒れ込むように全身を委ねる。そして、僕の胸元に顔を埋めた。


「……空、綺麗だね」


 暫くの時間が流れ、そう声に出す。

 彼女も、いつもの彼女に戻った様子で顔を上げ、一緒に空を見上げた。


 双子座流星群。


 まだ、止んでいなかった。


「……綺麗」

「うん、綺麗」


 幻想的な風景に魅入ってしまい、流星群が止んだ後も何秒、何分、何十分と空を眺めていた。

 ふと鳴った携帯の着信音でお互いに我に返り、相手の方を見ると、目がピッタリと合った。それが何となく可笑しくて、笑いが溢れてしまった。


「ねぇ、最後に我が儘を聞いてもらってもいいかな?」

「何?」

「ちょっとこっち向いて」


 言われるがままに彼女の方を向いた。すると、真剣な表情でこちらを見ている。それに合わせて、急に緊張してしまう。


「今までずっと好きでした。約束も果たしちゃったし、もうここで終わらせなきゃいけないから……。だから……」


 見つ合うその瞳には色々な物が映っている。悲しみ、喜び、苦しさ、我慢、怒り、諦め、憎しみ、嬉しさ、そして、儚さ。そんな混沌を描いているその瞳に見惚れているほんの一瞬の間。

 最後の流れ星が一筋の軌跡を描く。


「……目、閉じて」


 何も答えず、目を閉じたその瞬間、唇が重なる。

 たった刹那の間のだが、それでも何秒も、何十秒にも感じた。

 伝わってきたのは、切ない温度。彼女が生きた“証”。そして、さよならの代わり。


「……じゃあね」

「……じゃあ、ね」


 身体を離し、微笑み合う。

 今度は約束なしのお別れ。たった一夜の奇跡で、夢なのだ。今度はいつと言える別れではない。もう何もしがらみなんてない。

 けれど、僕らの間を吹き抜ける風が冷たく、再び抱き合う。また、ほんの少しだけ押さえ付けていた感情が溢れてしまった。それから、言葉を交わすことはもうなかった。




 気付けば、唐紅色に染まる天道が東から顔を出そうと夜空を焼き始めていた。そして、終わりを悟ったかのような彼女は最後に一つ、強く僕を抱きしめた。

 そして、僕は彼女を残し、公園に背を向け、家へと向かって歩いて行く。


 このまま夜が明ければ、もう二度と彼女に会うことは出来ない。きっとなんてない。これだけは確信だった。


 ––––全てが終わる。夢の終わりが訪れる。


 そして、残酷なことに、その夢の終わりには立ち会えないのが決まり。ただ、理不尽と後味の悪さ、そして、霞んだ幸せな夢の思い出を長く短い数分とともに噛み締めた。

 公園から離れていく一歩を踏み出す度、彼女との思い出が脳裏を過ぎる。辛く重い一歩を出しながらも歩き、気が付けばもう大分離れていた。朝日も顔を出していた。

 夢の終わりを告げる光を全身で浴びたその瞬間、どうしても涙が抑えられなくなっていたのだ。泣き叫び、その場に崩れ落ちる。溢れゆく涙は朝日に照らされ、一瞬だけ輝きを放つと、アスファルトの上に落ちていった。

 そして、彼女はこの夢の世界から居なくなった。




 明るく淡い色に変わり行く星空に、何処からか光が立ち上る。

 公園のベンチ、そこに残されたのは、一輪の白い百合と、一粒の涙。

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