3-2  それは一〇万字のラブレター

「はぁ……、教えてくれればすぐ来たのに。ちょっと、ベッドに戻って?」

 昼を過ぎて、突然鳴った玄関のチャイム。

 宅配便は頼んでないけどなんて思いながらドアを開けると、そこには膨れたビニール袋を両手に睨みをきかせている、すこぶるご機嫌斜めの愛加里さんが立っていた。

「え? でも、なんで僕が熱出してるって分かったの?」

「お母さんから電話もらったの。はいはい、そんなこといいから、とにかくベッド!」

 ドサリと袋を床に置くと、その手が僕の腕をわしっと掴んだ。

 体がくるりと回されて、すぐにトンと背中が押される。

「水分はちゃんと摂ってる?」

「あー、あんまり」

「だめじゃない。すぐ病院探すから、とりあえずこれ飲みなさい? ほらほら、ベッドへ直行!」

 袋から取り出したスポーツ飲料を手渡した愛加里さんが、靴を脱ぎながらぐいぐいと肩で僕を押す。

 今朝、ベッドから起き上がった瞬間にめまいがした。

 すぐに熱があるなと感じて、検温。

 かなりの高熱だったので、とりあえず仕事を休ませてもらおうとスマホを手に取った瞬間、驚くほどのバッドタイミングで母さんからの着信が響いた。

 いつもの、パンパカパーンという母さんの声。

 その声が高熱の頭にガンガン突き刺さるので、致し方なく具合が悪いことを話した。

 まさか、母さんが愛加里さんへ連絡するとは……。

「ワタルくん、もしかしたらインフルエンザかもよ? 今月になってかなり増えてるんだって」

「そうなの? それなら愛加里さんにうつらないようにしないと。締切までひと月切ってるんだから、書けなくなったら困るし。あとはいいよ。自分でどうにかするから」

「足がふらついてるじゃない。ひとりじゃ無理よ。あたし、予防接種してるから大丈夫だもん」

 そう言いながら、腕を抱えて僕をベッドに座らせた愛加里さん。

 ゆっくりと横になると、彼女がそっと布団を掛けてくれた。

 すぐに枕元の体温計が目の前で揺れる。

「体温計って。えっと、これは脇? 口?」

「え? えっと、いつも口で計ってる」

「そう。じゃ、はい、あーん」

 そういえば、子供のころ、母さんにもこうやってあーんと言われたことがあった。

 なんだか、すごく懐かしい。

「なにしてるの? 口開けて?」

「愛加里さん、仕事は?」

「そんなの気にしなくていいから、早く、あーん」

 渋々に口を開けると彼女は優しく体温計を差し入れて、それから「ちょっと待っててね」と言いつつスマートフォンを覗き込んで立ち上がった。

 しばらくしてキッチンから聞こえてきたのは、なにやらガサゴソと袋から物を取り出す音。

 気が遠くなる。

 そして、その音がぼわんぼわんと耳の奥で響き出したかと思うと、次の瞬間、ハッと彼女の愛らしい顔が耳元に現れた。

「あ、ごめん。寝かけてたね。うわ、三十八度五分もあるじゃない。すぐそこに内科があるの。いま電話して聞いたら予約は要らないって。いまから行こ? 保険証はどこ?」

「え? 財布の中。でも、いいよ。少し寝て楽になったら、あとでひとりで行くから。愛加里さんは仕事に戻って?」

「なに言ってるの? そんな状態でひとりで動き回ったら危ないよ? それに、もう今日はお休みもらっちゃったもん。さ、病院行くよ? 寒くない格好に着替えて?」

 それから、少々の押し問答のあと、僕は愛加里さんに腕を抱えられて部屋を出た。


 普通に歩けば五分もかからないその内科へ着いたのは、約二十分後。

 途中、何度も彼女が「タクシー拾おう」と言ってくれたが、僕は彼女に抱えられた腕がなんとも心地よくて、そのまま、ゆっくりゆっくり歩いた。




「――はい、……はい、インフルじゃありませんでした。いま寝てます。まだ熱は高いんですけど、食欲はあるみたいで。はい、大丈夫です。ばーんってやらないように細心の注意をしてます。あはは」

 リビングのほうから聞こえた、愛加里さんの電話の声。

 その響きにゆらりと目が覚めた。

 電話の相手は母さんだろう。

 目を擦りながら見ると、枕元の時計は午後九時半を指していた。

 響く、彼女の声。

 寝室は玄関を挟んで廊下の反対端にあるというのに、リビングの声がかなりはっきりと届くことに少々驚く。

 廊下が伝声管のような働きをしているのだろうか。

 これは、ずっとひとりで暮らしていたなら分からない事実だ。

 そんなことをぼんやり考えていると、その押しかけ家政婦さんの足音がゆっくりと近づくのが聞こえた。

 思わず目をつむる。

 小さな灯りだけが灯る、薄暗い寝室。

 かすかな甘い香りがして、すぐそこに愛加里さんが膝をついたのが分かった。

 聞こえた衣擦れの音。

 すぐに、彼女の手がふわりと額に触れた。

「よかった。だいぶ下がったみたい」

 小さく聞こえた、安堵の吐息。

 そして、その触れた手はずいぶん長い間そのままで、最初はひんやりとしていたのに、そのうちまるで春の陽光の下でまどろんでいるような、そんな温もりを湛えた。

「お母さんから聞いたよ? 教職採用試験、合格したんだってね。おめでとう。春からは地元に帰って高校の先生だね……」

 そうだ。

 この前、『アルフヘイム』で高溝先生と出会った次の日、僕は一通の封書を受け取った。

 故郷の県名が表に印刷された、なんとも無味な封筒。

『あなたが本県の教員採用候補者選考試験に合格されたことをお知らせします』

 別に渇望した将来じゃないし、まだ本当に地元へ帰るかも決めていない。

 それなのに、この一〇日余り、なぜか僕は愛加里さんにこのことを話せないで居た。

 もし……、もっと早く愛加里さんに出会っていたら、どうなっていただろう。

 僕は、母さんの言いなりになって、あの試験を受験しただろうか……。

「ワタルくん? 高校の先生になっても、ずっと小説を書き続けてね。そしていつか……、また素敵なヒューマンドラマを書いて?」

 僕に、書けるだろうか。

 かつて、人間くさい血の通ったドラマを、そしてその心温まるエピソードの数々を、真心と共に読者へと届けていた、『いしずえ翔』。

 いまの僕は、その『いしずえ翔』が劣化した、安易で、手軽な物語で自分を騙し、そしてあたかもそれを全身全霊を尽くして書いたかのように振る舞っている、偽物の僕だ。

 読まれたいという承認欲求と、批判は受けたくないという現実逃避が渾沌としている、居丈高で傲慢な男だ。

 しかし、心から本当の僕が書いた物語を待ち望んでくれる人が居るのなら……、僕はその人のために、『僕』を取り戻したい。

 その人のためだけに、心温まる人間模様をありありと綴りたい。

「あたし、あなたが心の底から書きたいと思って書いた……、あなたが本当に楽しいと感じながら書いた……、そんな物語が読みたいな」

 すっと額から離れた手。

 それからほんの少しして聞こえたのは、小さな咳払いと彼女が静かに立ち上がる音。

「おやすみ。ワタルくん」

 遠ざかる足音。

 程なく、玄関扉が小さく鳴って、続いて鍵が締まる金属音が届いた。

 萩生翔……、お前はどうしたいんだ?

 僕はそう小さく自分に向けて呟いたあと、さて、どうすれば春を過ぎても愛加里さんのひとつ結びを眺めていられるだろうかと、意識を手放す間際までそんなことをぐるぐると考えていた。




「お疲れさまでした。では、お先に失礼します」

 あれから数日。

 体調は完全に戻ったが、個人的に少し無理なことを始めてしまったので、いささか疲労が蓄積している。

 塾があるビルを出ると、まだ夕方だというのに空はプラネタリウムの開演前のような装い。

 風もずいぶん冷たくて、思わずコートの襟を立てた。

 鬼泪山によれば、あのメールをくれたビッグプラネッツ出版の相川という人は、ライトノベル出版界隈ではかなり名の通ったやり手編集者らしい。

 どうやら、小説投稿サイトから商品価値のありそうな作品を掘り当てる名人の様子。

 鬼泪山に、この人から『異世界遁逃譚』の書籍化オファーがあったことを話したら、間髪入れずに『やめとけ』と返信が来た。 

 ヤツいわく、なにやらこの人はいままでにたくさんの素人作家を食い潰してきた極悪人とのこと。

 まぁ、予てから僕が安い異世界を書いていると非難してきた鬼泪山のことなので、おそらくこの反応はかなり過剰なのだろう。

 ただ、ヤツは大御所のプロダクションでアシスタントをしているのでそれなりに情報が入って来るだろうし、火の無いところに煙は立たないともいう。

 そうすると、このヤツの反応は全てが過剰な偏見というわけでもないだろう。

 しかし、もう僕の答えは……、決まっている。

【ワタルくん、昨日もずいぶん辛そうに見えたんだけど。本当はまだ体調が戻ってないんじゃない? 今日の『アルフヘイム』はお休みでいいよ?】

【いや、大丈夫だよ? 最近、ちょっと忙しいだけ。今日も約束どおりにやろう。ただ、愛加里さんと会う前にビッグプラネッツの担当者と約束してるんで、ちょっと時間もらうけど】

【大丈夫ならいいけど……。ビッグプラネッツの担当者って、あのメールの人? じゃ、いつもよりゆっくり行くね。でも、ほんと無理しないでね?】

 愛加里さんの初稿が上がるまで、あと少し。

 いまちょうど、クライマックスの少し手前で足踏みをしているところ。

 来週に初稿があがり、すぐにそれから校正と改稿を繰り返せば、おそらく今月末の締切日より少し前には竹邉書房へ送り込めるはずだ。

 立ち止まり、愛加里さんのメッセージに【うん】と返信して顔を上げると、ちょうど目の前に郷愁溢れる大学の門が見えた。

 道を挟んだ向こうには、大学創始者の名を冠した記念堂も厳然としている。

 僕は、その記念堂の塔のてっぺんからさらに空の高みへと視線を移し、そして大きく息を吸って、ずいぶん悩んだあとにその人へのメッセージを投げた。

【田原先生、ご無沙汰しています。恒河沙です。少し、相談にのっていただきたいのですが、いいですか?】

 たぶん、彼女なら僕の背中を押してくれるはずだ。

 僕の気持ちは決まっている。

 たとえ、すぐに返信が返って来なくて彼女の言葉に会えなかったとしても、僕の気持ちは決まっているんだ。

 ただ単に、プロのエッセイストである彼女に……、そして、愛加里さんの同僚である彼女に、ちょっとだけ背中を押してもらいたかっただけ。

 ただそれだけのために、僕はそのメッセージを送った。

 言い訳がましく、なんとも煮え切らない自分。

 その自分にこれでもかと呆れ果てて、今度はただただ大きな溜息を吐いた。

 そのとき不意に振動した、手の中のスマートフォン。

 思わず目をやる。

 そして、その画面にあったのは、期待はしていなかった彼女からの返信。

【こちらこそご無沙汰しております。ずいぶん体調を崩されていたようですね。もう元気になられましたか? さて、ご相談とはなんでしょう。愛加里のことですか?】

【まぁ、愛加里さんにも関係あるんですが、基本的には僕自身のことです】

【そうなのですね。お会いしてゆっくりお聞きしたいところですが、残念ながら少々多忙で時間が取れそうにありませんので、このままメッセージでのお話しでも構いませんか?】

【はい。僕もすぐ答えが欲しいので、そのほうがありがたいです】

 突然、背後から聞こえた談笑。

 歩道にぽつんと立っている僕の後ろを、ちょうど五年前の僕と同じような学生たちが和気藹々と語り合いながら通り過ぎて行く。

 思わず、画面を胸の前に引き寄せた。

【僕、いまから僕の『異世界遁逃譚』を書籍化したいという出版社の方と会うのですが、先生はどう思われますか?】

【どう? そうですね。素晴らしいことではないでしょうか。あなたの渾身の作品が評価されたのでしょう?】

【僕にとって、あれは心から書きたいと願って書いた作品ではありません】

【そうでしたか。それで、どう返事をするか迷って居られるのですね?】

【いえ、答えはもう決めているんです。ただ……、その背中を押してくれる言葉を探しています。愛加里さんは田原さんになにか話しませんでしたか? 僕が異世界を書いていることについて】

【そうですね……。話していいか悩みますが、あなたが仰るとおり、愛加里はあなたが本当に心から書きたいものを書いていないと言っていました。そして……、それがとても悔しいと】

 あの病床の夜、耳の奥に浸潤した彼女の囁き。

『わたし、あなたが心の底から書きたいと思って書いた……、あなたが本当に楽しいと感じながら書いた……、そんな物語が読みたいな』

 そうだ。 

 僕は、あの物語をただの一文字も書きたいと思って書いていない。

 いま、僕が書くべき物語はただひとつ……。

【そうですか。それを聞いて安心しました。では、もうひとつ、どうしても田原さんに背中を押してもらいたいことがあります】

【もうひとつ? 私でお役に立てるでしょうか】

 その返信を見て、すーっと息を吸い込む。

 そして、じわりと門の向こうに見えるキャンパスを見渡して、丸めた背をゆっくりと伸ばした。

【はい。ただ、このことは愛加里さんには内緒にしてもらいたいんですが、構いませんか?】

【承知しました。愛加里はすぐ目の前に居ますが、他のライターとミニ会議をやっていますので、このやり取りには気がついていません。もしかして、恋愛相談ですか?】

【まぁ、そうですね。恋愛相談といわれれば、そうかもしれません。率直にお尋ねしますが、愛加里さんには特定のお相手は居ないのでしょうか】

【特定とは、交際している男性ということですか? おそらく居ないと思います。第一、居るとしたら、さすがにあなたの看病に飛んで行ったりしないのではないでしょうかw】

【そうだといいのですが。僕、実はいま、新しい物語を書いているんです。本当に僕が、心から書きたいと願う物語。そして、それを彼女に読んでもらいたいと思っています】

 晴々とした気持ち。

 そしてその想いをメッセージという文章にして初めて、僕はその気持ちがすとんと胸に落ちるのを感じた。

 同時にちらりと時計が目に入り、待ち合わせまでにそう余裕が無いことに気がついて歩き出す。

【もしかして、それってラブレターですか?】

【そうですね。言ってみれば、一〇万余字の長大なラブレターです】

【素敵ですね。たぶん、愛加里もあなたと同じ気持ちだと思いますよ? 仕事場で口にするのは、いつもあなたのことばかり。ただ……】

【ただ……、なんでしょう】

【愛加里は、おそらくあなたにもまったく話していない、人知れずに抱えているものがあります。なので、両手を広げてあなたの胸に飛び込むことはできないかもしれません】

【そうですか。でも、田原さんは応援してくれますよね?】

【もちろん。愛加里の胸のつかえを、あなたが取り払ってくれることを期待しています】

【ありがとうございました。元気が出ました。では、出版社との話合いに臨んできますね】

 そのメッセージを送り終わると、僕は田原さんからの締めの返事を見ることなく、すぐにスマートフォンをポケットの中へと滑り込ませた。

 見渡すと、続く街路樹の向こうに、『アルフヘイム』の扉が見え隠れしている。

 待っているのは、一筋縄ではいかないトレジャーハンターだ。

 そして程なく僕はそこへと至り、まるであの船頭を篭絡しようと酒場へ踏み入った三人のように、意を決してその扉を開け放ったんだ。

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