2-3  彼女が憧れるその人は

 瞼を通して語りかける、意識を引き戻そうとする淡い陽光。

 おぼろげに、まな板を鳴らす小気味良い包丁の音が響いている。

 子どものころ幾度となく聞いた、僕を安堵へと誘う、この音。

 それを響かせるのは、我が家ではいつも父さんだった。

 とても器用で、文学のみならず絵画や音楽などにも精通していた、大学教授だった父さん。

 料理が苦手な母さんに代わって、我が家の食卓を鮮やかに彩る料理たちは、いつも、この温和かつ几帳面な父さんが振舞ってくれていた。

 ふわりと漂う、味噌汁の香り。

 やや肌寒い秋の朝を温める、郷愁を誘う心に染みる香りだ。

 ゆっくりと目が開く。

 すると、そこにぼんやりと現れたのは、子どものころの部屋ではない、見慣れたマンションの無味な天井。

 ここは……、僕の部屋だ。

 そういえば、昨日は愛加里さんと部屋で打上げをやろうと約束をして……、母さんが押しかけてきて宴会になって……。

 じわりと意識が戻る。

 僕が眠ってしまった後も、母さんと愛加里さんは歓談を続けていた。

 ハッとした。

 母さんは料理ができない。

 すると、このキッチンから漂う香りは……。

 まさかっ!

「愛加里さんっ?」

 思わず身を起こしてキッチンのほうを振り返る。

 やばいっ、もう血だらけかもっ。

 僕の声を聞いて、シンクに向いていた愛加里さんが身をよじってこちらを向いた。

「あ、ワタルくん。おはよう。大丈夫?」

「えっ? えっと……、大丈夫って、愛加里さんは?」

「あたし? まだちょっとお酒が残ってる感じはあるけど、大丈夫だよ?」

「い、いや、そういうことじゃなくて」

 そう言って僕が立ち上がって駆け寄ると、愛加里さんがきょとんとして僕を見上げた。

「え? なに? あたし、なんか変?」

 思わずキッチンを見回す。

 殺人現場にはなっていない。

 愛加里さんの向こうでふわりとしている湯気。

 見ると、昨晩の鍋が味噌汁に変身して、クッキングヒーターの上で実に楽しそうにしている。

 その横には、残った春雨で作ったサラダと、つやつやの目玉焼き。

「こ、これ……、愛加里さんが作ったの?」

「そうだけど……、なに?」

「ケガ……、してないよね?」

「え?」

 さらにきょとんとした愛加里さん。

 そのときちょうど、炊飯ジャーの炊き上がりの電子音が鳴った。

「ワタルくん、なんかすっごく失礼なこと考えてない?」

「い……、いや、ケガしてないんならいいけど」

「なんでケガするのよ。ご飯くらい作れるもん」

「へぇ……」

「なによ、その目。いいから、顔洗っておいで? 朝ご飯、食べよ?」

「う、うん」

 促されて、洗面台へと向かう。

 意外だった。

 背後で、リビングへ朝食を運ぶ愛加里さんの声が響く。

「お母さん、お酒強いねー。ずいぶん前に突然ガバッと起きて帰っちゃったー。あとは任せたーって」

 そうか。

 なんとも母さんらしい。

 ほんと、いまでもどうしてあの物静かな父さんが、あんな台風みたいな母さんのことを好きになったのか分からない。

 リビングテーブルに並んだ、艶やかな朝食。

 正直言って、かなり驚きだった。

 愛加里さんの朝食はちゃんと朝食らしくなっていて、それでいてけっこう美味しくて……。

 特に、味噌汁の味がちょっとだけ父さんと似ていて、なんだか……、とても懐かしい気分にさせてくれた。

 やや重い、二日酔いの頭。

 それを、愛加里さんの料理があっと言う間に晴らしていく。

 僕は料理が好きだ。

 小さいころから、父さんの横に立って一緒に料理をするのがなにより好きだった。

 今も、基本的には自炊。

 いつからだろう。

 僕は、『料理と小説書きはよく似ている』……なんて思うようになった。

 料理は、食べさせる相手の好みをリサーチして、その人が喜んでくれることを思ってメニューを決めて材料を選び、したごしらえをして調理をする。

 小説も同じだ。

 対象とする読者層を選定して、彼らへと伝えたいテーマを決めて舞台とキャラクターを創造し、それを豊かに展開させて物語を紡いでいく……。

 さらに、それらを賞味してもらうことはもっと似ていて、読む人、食べる人の好みや気分、その時間や場所などによって、それらに対する評価は著しく変わる。 

 つまりだ。

 創造された料理や小説の受け取り方は人によって千差万別であり、作り手の目論見と実際の受け手との感性が合致したときに初めて、それは良作だと評価されるということだ。

 その評価を得るために大衆へ『迎合』することは創作のひとつの手法であるし、またそれによって大衆の心を掴むことができた作品ほど、名作として後世に名を残せる傾向があることも否めない。

 もちろん、これを良しとしない創作者は多く居るし、狡猾だと敬遠し軽蔑する者も少なからず居るが、しかしこれはビジネスであり、それらが不動の名作を生み出す原動力となっているのも、また事実だ。

 果たして、どちらが正義だろうか。

「えっと……、やっぱり、あんまり美味しくない?」

「ううん。美味しいよ? 意外すぎて言葉が出なかっただけ」

「ふーんだ。で、食後は? コーヒーよね。どこに置いてあるの?」

「あ、僕が淹れる。愛加里さんは座ってて? 美味しいのがあるんで、騙されたと思って飲んでみない?」

「もしかして『アルフヘイム』のやつ? うーん……、もしひと口飲んで飲めなかったらごめん」

「うん」

 そう言って僕が奇麗に空になった食器を手に立ち上がると、愛加里さんも僕に続いた。

 シンクの前に並ぶ、ふたり。

 横目で見ると、背後のリビングには、もうお昼が近い秋空から柔らかな光のシャワーが降り注いでいた。

 いい天気だ。

 僕がお湯を沸かす横で、愛加里さんが食器を洗っている。

 意外に手つきはいい。

 ただ、やはり愛加里さんであることには変わりないので心配して手元を見ていると、程なくそれに気がついた彼女が半眼を僕に向けた。

 頬を真っ赤にして、「いーっ」っとしかめっ面をした愛加里さん。

 見ると、食器はちゃんと乾燥機へと収まっている。

 思わず苦笑いを返したのと同時に、ポットが鳴った。

 そして僕はやっと湯気が上がったミネラルウォーター入りのドリップポットを抱え上げると、それを濾紙に入れた挽豆の上へとかざした。

 口先が細くカーブしている、独特のフォルムのドリップポット。

 テレビのCMなどでもよく見かけるこのコーヒー専用のケトルは、亡くなった父さんが使っていた思い出の品だ。

 挽豆は、『アルフヘイム』のマスター特製の、『ぬくもり』。

 マスターからは、この『ぬくもり』には『硬水』を使うよう勧められた。

 一般的には、ミネラル分が多い『硬水』でコーヒーを淹れると、せっかくの風味に少々影響を与えてしまうと言われている。

 しかし、なにか秘密があるのか、この『ぬくもり』は『硬水』で淹れたほうが後味に甘味が出て美味しくなるらしい。

 ずいぶん前に、自宅でもお店に近い味で淹れられる方法を教えて欲しいと頼んだら、マスターは快く、この『硬水』の魔法を教えてくれた。

「はい、お待たせ」

 先にリビングテーブルに戻っていた愛加里さんに、その豊かな香りを漂わせる『ぬくもり』をそっと手渡す。

「ありがと。うわぁ、いい香り」

 いろいろ考えたが、愛加里さんのために用意したのは、口当たりがまろやかになる肉厚のエスプレッソカップ。

 真っ白な、僕のお気に入り。

 少しは、苦手なコーヒーを美味しく感じられるための足しになるだろう。

 もちろん、とことん味にこだわるのなら、本当は豆を買ってきて淹れる直前にミルで挽くほうがいい。

 でも僕は、四、五日に一度、マスターが挽いた『挽豆』を買いに『アルフヘイム』へと足を運んでいる。

 まぁそれは、あの学生街へ赴くための、ていのいい口実なんだが。

「よかったら、最初はお砂糖もミルクも入れないで飲んでみて」

「うん」

 香り立つ、『ぬくもり』。

 愛加里さんが、それを小さな両手で包むように持ってゆっくりと口へと運ぶ。

 唇が優しく触れた。

 湯気がふわりと広がる。

 一瞬の間。

 しばらく動きが止まったあと、彼女はカップをゆっくりと口から離し、そしてそれにじわりと視線を落とした。

 思わず、その顔を覗き見上げる。

「……どう?」

 放心する彼女。

 それから、彼女はハッと僕の視線に気がつくと、そのエスプレッソカップを優しくテーブルへと置いた。

「えーっと……、美味しい。どうしてだろう」

「愛加里さん、無理はしなくていいよ?」

「無理してないよ? ほんと……、ほんとに美味しい。最初、ちょっとだけ苦いかなって思ったけど、そのあとすぐふわっと甘くなって……。あたし、初めてコーヒーが美味しいって思った」

「そう? よかった。気に入ってもらえて」

 遠くの県からも、わざわざこれを味わうためだけにファンが訪れるという、この『ぬくもり』。

 かつて、一作だけ世に出た僕の……、いや、『いしずえ翔』の代表作、『ぬくもりは珈琲色』の作品イメージは、この『ぬくもり』からもらった。

 最もそのイメージが色濃く現れたのは、いまでも気に入っている、あのラストシーン。

 あの物語は、同じ文芸サークルの友人が、学生課の窓口に居る年上の女性に恋をしたことをヒントに膨らませていった。

 足しげく窓口へと通う友人を見て微笑ましくも思ったが、僕は彼女の右手の薬指に美しい銀の指輪が輝いていることに気がついていた。

 しばらくして、僕に涙ながらに語った、失意の友人。

 彼女は、年明けにアメリカからフィアンセが帰国したら式を挙げて、皆に祝福されつつ大学職員を辞めるらしい。

 友人の恋は終わったが、僕の物語は命をもらった。

 テーマは、『大人になること』。

 一途に想いを募らせる主人公を、同様に大切に思い始めるヒロイン。

 いつしか、ふたりは人として惹かれ合うが、ヒロインには共に人生を歩もうと決めた人が居た。

 主人公の、大人への憧れ。

 そして、未だに少年のままである、己への卑下。

 大人である彼女に惹かれ、募る想いは一層強くなる。

 ラストは、雨の夜。

 この雨が雪に変わるころ、彼女は一生手の届かないところへ行ってしまう。

 ずぶ濡れで、彼女のマンションの扉を叩く主人公。

 すべてを悟った彼女は、涙する彼を優しく抱き寄せ、そして言葉を掛ける。

『私の胸で泣いていいよ。誰にも言わないからね』

 大人になるための、そして彼がもっと強くなるための、魔法。

 彼は、これが己に内在する『少年』との決別の儀式だと自己完結して、そしてそのまま彼女の胸で思いっきり泣くのだ。

 朝となり、テーブルに並んだふたつの銀のカップ。

 同じサーバーから注ぎ分けられたその二杯のコーヒーは、分かち合ったぬくもりを湛えたままそれぞれの道へと歩み出す若きふたりを象徴する。

 そして主人公は、彼女が『大人』として与えてくれた優しさを胸に、新たな自分になると誓って彼女の部屋をおもむろに出てゆくのだ。

 他愛ない……、『嘘』の物語。

 まだ学生だった僕が、これ以上ないほどに背伸びをして書いた、『大人』になることへの憧れ……。

「――ワタルくん?」

「え? あ、ごめん。ちょっと考えごとしてた。ねぇ、愛加里さん、よかったら、いまから『アルフヘイム』へ行かない?」

「えっ? どうしたの? 突然」

「愛加里さんの次の小説の話、『アルフヘイム』で聞きたいなって思って。それに、僕が淹れた『ぬくもり』が美味しく感じられるのなら、マスターが淹れたのはもっと美味しいはずだから……、ね?」

 きょとんとした愛加里さん。

「えーっと、でも、あたし昨日から同じ格好」

「あ……、そうだね。それじゃ、一度帰って準備しておいでよ。僕もシャワー浴びたいし。愛加里さんの駅で待ち合わせしようか」

「えっと……、うんっ」

 きゅんと上がった彼女の肩。

 その可愛らしさに、思わずふたつの歳の差を忘れる。

 鬼泪山は言った。

『いやぁ、運命だな。お前の「ぬくもりは珈琲色」とよく似てると思わねぇかぁ?』

 そう言われれば、確かに似ているかもしれない。

 大人への憧れで潰れそうになっていた、『ぬくもりは珈琲色』の主人公。

 そして、彼と同様、書きたいものを書かずに、安いプライドと邪な承認欲求に潰されそうになっている、矮小な僕。

 なぜだろう。

 この目の前の可愛らしい友人は、そんな僕の自分への卑下を、いとも簡単に霧消させてくれる。

 不器用だけど、一生懸命。

 不躾だけど、優しい。

 なんとも手間のかかる友人だが、その裏表の無さは様相のとおり、嘘の無い、ありのままの人だ。

『自分に誠実でないものは、けっして他人に誠実であり得ない』

 夏目漱石が、『行人』の中で書いたセリフのひとつ。

 彼女を見ていると、なぜかその一節が繰り返し脳裏に湧いてくる。

 そして僕は、いつの間にか、思うようになっていた。

 彼女がいつか、あの物語と同じように、僕に大人になるための魔法をかけてくれるんじゃないか……、そして、いま思い悩んでいることがぜんぶ解けて無くなってくれるんじゃないか……、と。




「ワタルくん、お待たせ」

 僕の駅からふたつ都内寄りの、愛加里さんの駅。

 待ち合わせより少々早く着いてしまい、出入口の階段から道路を見下ろしていたとき、そのずいぶん可愛らしい出で立ちの待ち人が満面の笑みで僕を見上げた。

 その手には、いつぞや僕が拾ってあげた、あの赤い英国製のパスケース。

「ちょっと手間取っちゃった。ごめんね? 待たせちゃったよね」

「いや、僕もいま着いたとこ。急がせたならごめん」

「へっ? あ、あたしは……、ぜんぜん大丈夫」

 もうとうにお昼を回って、日曜のランチラッシュも落ち着く時間。

 見上げると、昨日と同じくよく晴れた秋空が、ビルの間に蒼々とした姿を見せている。

 良く晴れているのはいいが、やや風が冷たい。

「愛加里さん、なんか雰囲気違うね。そんな服、持ってたんだ」

「え? おかしい?」

 結びを解かれて、丸いなで肩にふわりとかかる柔らかな髪。

 上品な黒のニットシャツの上には、昨晩、僕の枕になっていたライトブラウンのダッフルコート。

 シックな赤系のタータンチェックスカートから覗く黒のローブーツがなんとも可愛らしく、左肩にはいつもとは違う大人の雰囲気の革製のショルダーバッグがかかっている。

「おかしくはないけど……、なんか、ちょっと意外」

「ふーんだ」

 不機嫌そうに頬を膨らませて、スカートをふわりとさせて改札へと歩き出した彼女。

 でも、なぜか口元は嬉しそうに上がっていた。

 他愛ない、日曜の昼下がり。

 プラットホームへの階段を上りながら、ちょっと意地悪な顔で覗き見上げると、彼女はすぐにぷいっと反対を向いた。

 休日だというのに、そんなに混んでいない電車。

 僕たちがいつもの一列の長い座席にふたり並んで腰掛けると、電車は揚々と音を鳴らしてゆっくりと滑り出した。

 ふと見ると、僕の右隣にちょこんと腰掛けた愛加里さんが、なにやらごそごそとショルダーバッグの中を確かめている。

「どうしたの?」

「ううん。ちゃんと忘れずにプロットを持ってきたかなって。あ、ちゃんとあった」

「そう? 別に忘れてたって驚かないよ? 愛加里さんだし」

「なにそれ」

「まぁ、忘れたところで、いつだって会えるしね」 

「え? あ……、うん」

 もう、慣れっこになってしまったんだろう。

 たとえ彼女がプロットを部屋に忘れて来てしまったとしても、たぶん僕はそれほど不快には感じないと思う。

 彼女はそういう人だし、悪気が無いから怒る気にもならない。

 ただ、それよりも、『いつだって会えるし』という言葉が無意識に出たのには我ながら少々びっくりした。

 なぜだろう。

 いつもと同じ車窓の風景なのに、なんだか今日はずいぶん違って見える。

 ひとつ結びが柔らかに解かれているせいか、それとも赤いチェック柄スカートが意表をついて愛らしいせいか。

 不思議と、話は尽きない。

 僕らの共通の話題は小説書きのことくらいしかないはずなのに、それをまったく必要とせずに会話は途切れないでいる。

 思いのほか、楽しい時間。

 そして、それからしばらくして、いつもどおりに地下鉄となった列車が都心を横断し始め、とある駅で扉が開いた瞬間、ふたりの歓談は突然に言葉を失った。

 思わず、言葉を途切らせた愛加里さんへ目をやる。

 すると、彼女は開放された扉へと瞳を向けて、なにやらぽかんと口を開けていた。

「えっと……、愛加里さん、どうしたの?」

「え? あああ、おっ、お疲れさまですっ!」

 僕の問いを遮り、突然、バッグを座席へ投げ置いて立ち上がった愛加里さん。

 ぴんと伸びた彼女の背筋。

 何事かと思って、僕はその視線の先へと目をやった。

 そこに居たのは、僕が知らない、ずいぶんと上品な女性。

「あら、愛加里さんじゃない。こんにちは」

「かっ、かなでさんっ、きょ、今日はお出掛けですかっ?」

「そうね。と言っても、仕事なんだけど。次に一緒にお仕事をさせてもらうイベント会社の催しを観に行ってきたの。あら……、そちらは?」

 不意に、その彼女の美しい瞳が僕を捉えた。

 僕も顔を上げて、じわりと背筋を伸ばす。

 見上げると、愛加里さんが『奏さん』と言ったその女性は、僕の母さんと同じくらいの落ち着いた年齢。

 グレーのロングコートにかかった長い黒髪が美しい、すらりとした美人女性だ。

 凜とした佇まいで、柔らかな笑顔を見せている。

 僕もすぐに笑顔を返した。

「どうも。こんにちは。愛加里さん、この方は?」

「こ、この人は、えっと、あたしが勤めている企画事務所の社長さん。のっ、もとかなで社長っ」

「そうなんだ。初めまして。愛加里さんの友人の萩生です。いつも愛加里さんにお世話になっています」

 すぐ横で、「いやいや、お世話になっているのはあたしのほうで……」なんて、しどろもどろな小声が聞こえている。

 それを聞いて、くすりと笑みを漏らした美人社長がゆっくりと僕へ歩み寄った。

「愛加里さんのお友達? こちらこそ、初めまして。『オフィス光風』の野元と申します。愛加里さん、素敵な方ね。その滅多に見ない可愛らしい格好に彼への愛を感じるわ」

「あああ、愛っ?」

「あら、違うのかしら」

 奏さんから愛加里さんへと目を移すと、なぜか彼女はさらに背筋を伸ばして固まっていた。

 口元は例のごとく一文字だ。

「そっ、そんなつもりはないんですが……、えっと、彼は最近、少しだけ仲良くしてもらっている物書き友達で……、その、愛とかは……」

「あら、そうなのね。では、物書き友達さん? 飯田橋までだけど、お隣、座ってもよろしいかしら」

「僕なんかの隣でよければ、どうぞ? 遠慮なく」

「失礼するわ」

 長い髪から、ふわりと香った柑橘系のゆらめき。

 彼女が僕の左におもむろに腰を下ろすと、僕の右で焦点の合わない目を床に向けている愛加里さんがぎこちなく腰を下げた。

「あ、ちょっと待った」

 思わず掴んだ、愛加里さんの左腕。

「わっ、わっ」

「ほら、バッグ。ちゃんと見て座らないと」

 予想どおり、投げ置いたバッグの上にそのまま座ろうとした彼女。

 僕は小さく溜息をついてバッグを拾い上げると、それからゆっくりと彼女をそこへ座らせて、所在なさげにしているその膝の上にそれをそっと置いた。

「ご、ごめん。ありがと」

「どういたしまして」

 さらに溜息をついた僕がそう返すと、背後でなんとも優しい笑みが漏れた。

「ふふっ。あなた、ずいぶん愛加里さんの扱いに慣れているのね」

 振り返ると、奏さんという女性社長は長い髪を後ろに払いながら、その嬉々とした瞳を僕へと向けていた。

 思わず苦笑いを返す。

「いや、慣れているというよりは、僕自身が被害を被らないためにやっているという感じですね」

「そう? それにしてはずいぶん思いやりいっぱいの所作に見えたけど。あなた、愛加里さんとは物書き友達と言ったかしら。職業作家さん?」

「いえ、僕は彼女と同じ、素人物書きです。本業は早稲田にある進学塾の講師です」

「あら、『彼女と同じ素人物書き』さんなのね。愛加里さん、良かったわね。『素人物書き』のお友達ができて」

 見ると、愛加里さんは肩を強張らせて、この世の終わりのような顔でうな垂れている。

 様子が変だ。

「愛加里さん、大丈夫? 二日酔いがひどくなった?」

「いいい、いや、二日酔いとかじゃないからっ。かっ、奏さんっ、この萩生ワタルくんは、あの、田原直子先生が話していた、『異世界遁逃譚』の作者で、田原先生とも交流があって……」

 しどろもどろの愛加里さん。

 そんなに体調が悪いのだろうか。

「ふぅん、『田原先生』……ね。萩生さん、うちの専属ライターの田原ともお知り合いなの?」

「はい。一度だけ愛加里さんと一緒のときにお会いしました。田原さんが僕の小説を気に留めてくださって、その縁で愛加里さんと知り合いまして」

「そうなのね。その縁をくれた田原に感謝ね。ところで、今日は? デートかしら」

「いえ、デートというか、単にふたりで馴染みの喫茶店へ向かっているところで……。愛加里さんが次に応募するコンテスト用の作品についていろいろ話すつもりで」

 じわりと目を上げた愛加里さん。

 すると、奏さんが前屈みになって僕越しに彼女を覗き見上げた。

「愛加里さん? 応募って、『竹邉』かしら?」

「え? はっ、はいっ! 『竹邉ノベルズ文学賞』ですっ」

「そう。ついに『竹邉』に応募するのね。で、なにを書くつもり?」

「えっと……、いつか奏さんが話してくださった、奏さんの高校時代の思い出をモチーフに、ヒューマンドラマふうの青春群像ものを考えていますっ」

「あら、私のことを書いてくれるの? それは楽しみだわ」

 この奏さんがモデルの物語か。

 こんな素敵な人がどんな高校生活を送っていたのか、それはそれで興味が湧く。

 愛加里さんに、満面の笑みを返した奏さん。

 それと同時に、次の駅を知らせる車内アナウンスが響いた。

「あっ、もう次ね。ねぇ、ワタルさん? あなた、よかったら末永く愛加里さんの小説のアドバイザーをしてくださらないかしら。できれば、小説だけでなく人生も一緒に歩んでくれると嬉しいのだけど」

「え? 僕がですか? まぁ、僕は構いませんが愛加里さんにも選ぶ権利がありますので、僕の一存では決められません」

「ふふっ、あなたは、『構わない』のね。それを聞いて安心したわ。愛加里さん、良かったわね。彼にずっと小説を読んでもらいなさい?」

 ハッと顔を上げて、頬を真っ赤にした愛加里さん。

 それを見て、さらに笑みを増した奏さんは、もう一度長い髪を後ろへ払ってゆらりと立ち上がった。

 列車が速度を落とす。

「ワタルさん? ライターの『田原直子』は本当にあなたのことを気に入っているみたいだったわ。そのうち、ちゃんと田原と会ってね? 私も同席するから」

「え? は、はい」

 ふわりと揺れた長い黒髪。

 映画のワンシーンのように、「良い休日を」と言い残して、奏さんは去って行った。

 ドアが閉まる。

 ふと見ると、愛加里さんは放心して僕の右腕に寄りかかっていた。

 ずいぶんぐったりしている。

「愛加里さん、大丈夫?」

「う、うん。めっちゃ緊張した。ほんと、奏さんは素敵すぎる」

「でも、愛加里さんの会社の社長なんでしょ? いつも顔合わせてるんじゃないの?」

「それがね? 奏さんはいろんな現場を飛び回ってるんで、ほとんど事務所には来ないの。今日だって、あたし、会うの二か月ぶりくらいだもん」

「ふうん。なんか変な感じ」

「しょうがないのよ。奏さんは、あたしが世界で一番憧れている人だから……。もうね、目がくらみそう」

 憧れている人……か。

 彼女が理想とする女性像は、あの奏さんのように知的で、沈着で、それでいて著しく辣腕な女性なんだろう。

 しかしそれは……、愛加里さんとはまったく正反対かもしれない。

 そういえば、田原さんも少し印象が似ている。

 田原さんも奏さんと同じく、『愛加里さんが理想とする女性像』に近そうだ。

 特にSNSメッセージで会話をしているときの田原さんの雰囲気は、奏さんのそれと瓜ふたつと言っていい。

 見ると、愛加里さんは膝の上のバッグを包むように指先を絡めて、なぜかずいぶんと申し訳なさそうにしていた。

 僕は右腕に寄りかかっている彼女にほんの少しだけ頬を近づけると、それからモーター音にかき消されてしまうほどの小さな声で、その言葉を呟いた。

「僕は……、愛加里さんはそのままでいいって思うけどね」

 たぶん、その言葉は彼女には聞こえなかったと思う。

 それから『アルフヘイム』に着くまで彼女はずっと無言のままだったが、マスターが淹れてくれた『ぬくもり』がずいぶんと温めてくれたのか、店を後にするころには、彼女はまたいつもの素敵な笑顔を取り戻してくれていた。

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