2-2  ようこそ、僕の部屋へ

【田原さん、ご無沙汰しています。その後、いかがお過ごしですか? 愛加里さんへ僕の電話番号を届けていただいた件、ありがとうございました。詳細は聞かれました?】

【はい。思わず笑ってしまいました。愛加里らしいですね。彼女、あなたにとても感謝していましたよ? さらに、怪我の功名であなたに作品手直しのアドバイスまでしてもらえて】

【あれは僕の癖や感覚についてお話ししただけで、アドバイスと言えるほどのものでもありませんw】

【原稿は間に合ったのですか?】

【はい、昨日。消印有効ギリギリに郵便局に行きました】

【え? もしかして、ふたりで?】

【彼女がちゃんと出すのを見届けに行ったんです。原稿を川にでも落として間に合わなかったなんてことになったら大変ですから】

【あらあら、それはご苦労さまでした】

 僕が手直しに知恵を貸した彼女の原稿は、昨日、無事にコンテストを主催する出版社へと旅立った。

 その後、どうしてもお礼がしたいと言われたが、『アルフヘイム』での手直しのたびに居酒屋で夕食をご馳走になったので、もうお礼は十分にもらったと断った。

 しかし……、そこで引き下がらないのが愛加里さんだ。

『じゃ、あたしの部屋はどう? 自前ならお金もあんまりかからないでしょ? いっぱいご馳走するから』

『え? 愛加里さんが作るんですか? それはちょっと……』

『どういう意味よっ』

 出来合いのものを買って来て並べるのならまだいいが、あれはなにか突飛な料理を自分で作って僕に食わせようという勢い。

 そんなことしたら、包丁でしくじって部屋を推理小説の殺人現場みたいにするのがオチだ。

【まぁ、紆余曲折の末、今日は僕の部屋で打上げをやることになりまして、現在、その準備中です】

【愛加里をあなたのお部屋に? それはそれは……、どうぞ、末永くお幸せに】

【www 残念ですが、おそらくご期待には添えないと思います。今日の打ち上げは次のコンテストへの作戦会議も兼ねていますので、そんな色恋沙汰とは無縁です】

【そうですか(笑) 次はどこへ出すつもりなんでしょうか?】

【『竹邉ノベルズ文学賞』のようです。どうも今年度中に結果発表があるものを選んでいるようなので、実質、この『竹邉』が最後の応募になるでしょうね】

【そうですか。よかったら、また知恵を貸してあげてくださいね?】

【そのつもりです。次の打上げは、ぜひ田原さんもご一緒に】

【はい。楽しみにしていますね!】

 トントン……。

 田原さんからの最後のメッセージが届いたのと同時に、突然、玄関扉が軽いタッチで叩かれた。

 愛加里さんだろうか。

 壁の時計に目をやると、まだ約束の時間には少し早い。

 なぜチャイムではなくノックなんだろうと思いつつ、持っていたスマートフォンをポケットに押し込んだ。

 今日は土曜日。

 キッチンでは、コーヒーが苦手な客人のためにわざわざ連れて来られた英国紅茶が、なにやら晴れ舞台に立つ前かのように行儀よくしている。

 僕はお湯を沸かすクッキングヒーターのスイッチをオンにすると、それからもう一度、部屋に彼女がつまづいてしまうような障害物が無いことを確認して、サッと玄関へ赴いた。

 近づくと、小さな音でさらにドアが叩かれている。

 トントントトトン、トントトトン……。

 ハッとした。

 これは……、愛加里さんじゃない。

 もしかして、最悪のタイミングで最悪のあの人が……。

 そっとドアスコープを覗く。

「うわ……、なにしに来たんだ」

 魚眼レンズの向こうに見えたのは、カスタネットを鳴らすようにドアを軽快に叩くひとりの女性。

 真っ赤なフレアスカートと、黒のタイトな革ジャケット。

 小柄ながらも、モデルのように小さな顔と抜群のスタイル。

「ワタルぅー、早くあっけてぇー」

 なんたることか。

 思わず出た溜息。

 僕はすぐに返事をせずに、この彼女を早々に引き揚げさせるためにはどうしたらいいかと頭脳をフル回転させたが、ものの数秒もしないうちにそれは諦観に変わった。

「はぁ……、いま開けるから……、叩くのやめて」

 力なく、じわりと解放したドア。

 外界の風景が徐々に視界に広がると、ドアの端からぬっと出たその整った顔が、満面の笑みを僕に投げた。

「ワっタルぅー、ひっさしぶりぃー!」

「うわ」

 僕に飛びかかる彼女。

 思わず身をよじったが効果はなく、僕はそのまま彼女に思い切り抱きしめられた。

「久しぶりじゃないでしょ。夏の教職試験で帰ったときに会ったよね?」

「もーう、その数か月がアタシにとっては久しぶりなのよぉう。ずーっとワタルに会いたかったんだからぁ」

「うっ、ちょっと、もう放してよ。いまから友達が来るんだ。悪いけど、どっかで時間潰してきてくれない?」

「えー? 誰が来るのぉ? 鬼泪山ちゃん?」

「いや、違うけど」

「ええー? じゃあ、もしかしてぇ……、女子? うわー、それじゃあアタシが泊まったら困るわねぇ」

「は? ここに泊まる気なの?」

「もっちろーん! ワタルとふたりのお泊りはすっごく楽しいんだもーん」

「あのさ、こっちの予定を聞きもしないで、いい加減にしてくれない? ほんとにもうすぐ友達が――」

 そう言って、彼女を少々強引に押し離した、そのとき。

「え? ワタルくん……、これって……」

 押し離した、彼女の向こう。

 そこに立ち尽くしていたのは、見慣れた小さな丸い肩。

 瞳を大きくして、大口もさらに大きくして、ちょっと腰を引いている。

「あ、愛加里さん、いらっしゃい」

「えーっと、その……、ず、ずいぶん可愛い彼女さんねっ」

「いや、この人はそんなんじゃないんですよ。この人は――」

「ワタルくん……、これは……、これはダメだよ。こんな素敵な……、かっ、かっ、彼女が居るのに、別の女性を部屋に招いちゃ……」

「はぁ……、誤解しないでください。愛加里さん、この人は――」

 泳いだ目を、すーっと足元へ落とす愛加里さん。

 その彼女に、僕がこの招かれざる女性をさらに押し離しながら言葉を続けようとすると、突然、真っ赤なフレアスカートがふわりと回った。

「え? ええっ? 彼女? ワタル、本当に彼女なの?」

「いや……、違うんだ。詳しくはあとで説明するから、ちょっと大人しくしててくれない? えーっと、愛加里さん、この人は――」

 上がった肩と一緒に、ぎゅぎゅっと寄った愛加里さんの眉根。

「ワタルくん……、えっと……、今日、彼女さん、ワタルくんの部屋でお泊りなんでしょ? あの……、あたしもうこのまま帰るから、その……、彼女さんに外で時間潰させなくていいよ。じゃ……」

「ちょっと待ってください! 愛加里さん、この人は本当にそういうのじゃないんだ。この人は――」

 思わず踏み出すと、次の瞬間、目の前の革ジャケットの肩がきゅんと上がった。

 ふわりと揺れた、その肩の上の明るい髪。

「あなたっ、アカリちゃんっていうのっ? 可愛いっ! 初めましてっ! アカリちゃんっ!」

「うわ」

 突然、僕を突き飛ばして愛加里さんへ駆け寄った彼女。

 愛加里さんに飛びかかって、その両手首をぎゅっと握る。

「アカリちゃん! いくつっ?」

「痛っ、な、なんなんですかっ? いくつって、あなたとおんなじくらいよっ!」

「その感じはっ、ワタルよりちょっと上くらいねっ?」

「だったらなんなのっ? そんなのあなたに関係ないじゃないっ! ちょっと、放してよっ!」

「めっちゃ関係ある! ねっ、アカリちゃんっ! 早く上がってっ? アタシ、アカリちゃんとお話ししたいっ!」

 そう言って、ぎゅぎゅっと愛加里さんの腕を引っ張った彼女。

 のけ反る愛加里さん。

「もうっ! 放してっ! あたしは帰るのっ!」

「ヤキモチ妬いちゃってぇ! 可愛いぃー!」

「ヤキモチじゃないっ!」

 泣きそうな顔の愛加里さん。

 思わず出た大声。

「いい加減にしてくれっ!」

 次の瞬間、僕は無意識に愛加里さんの手首を握っている彼女の手を掴んで、その革ジャケットの肩を背後へと払い除けた。

 間に割って入り、愛加里さんを背にしてデデンと広げた両手。

 あっぱれ。

 これぞ、『勇者、姫を庇う』の図。

「えっと……、ワタル?」

 目を見開いて固まった赤いフレアスカート。

 僕はそれを横目に、顔半分後ろへ向けた。

「愛加里さん、よく聞いて? この人はほんとに彼女なんかじゃないんですよ」

「でもっ、さっき、泊まるって……、えっと、もしかして……、お姉さん?」

「この前、僕はひとりっ子だって話しましたよね? だから僕の家に女性はひとりしか居ない」

「ええっ? じゃあ……、ま、まさか……」

「そう、そのまさかです。ものすごく若く見えるけど、この人は僕の……」

「おおお、おかあ……さ……ん?」

 聞こえた、震える愛加里さんの呟き。

 僕が小さく頷くと、それを見た僕の前の小柄な赤いフレアスカートがパッと広がった。

「せーいかーい!」

 満面の笑みでパンパカパーンと両手を上げた、その人。

「わたくしっ、ワタルの母っ、萩生いくでぇーすっ。『いっちゃん』って呼んでねー!」

「ええぇぇぇーーーっ?」




「ごめんねぇ。アタシ、また調子に乗っちゃった。改めて、萩生翔の母の育子です。どうぞよろしくぅ」

「こ、こちらこそ……。同じ歳くらいかと思っちゃって、その、大変失礼な物言いを……。あたし、ワタルくんの友人の、新井愛加里です」

 この前は鬼泪山が座った座椅子に、いまは所在なさげな愛加里さんがちょこんと腰を下ろしている。

 その向かいには、赤いフレアスカートをふわりとさせて座っている母さん。

 僕はこの部屋の主だというのに、なぜか給仕としてキッチンでお茶の支度をしている。

 愛加里さんが『同じ歳くらいかと思った』というのは、実は無理もないことだ。

 母さんは、生物学的見地からの検証が必要かと思われるほど、ものすごく若く見える。

 若くして僕を産んだとはいえ、それでももう四〇代半ば。

 それなのに、愛加里さんと同じ歳くらいにしか見えない。

 しかも、こんな感じなのに、なんと彼女の生業は現代文と古文を教える高校教師……。

「じゃあ、ほんとにふたりは、『まだ』付き合ってないの?」

「えっと、『まだ』という表現が正しいかどうか分かりませんが、そのとおりです。つい最近知り合ったばかりで……」

「でも、ワタルが部屋に呼ぶくらいなんだから、『まだ』でいいんじゃない? はっきり付き合うことになったら一番最初にアタシに教えてねっ? はいっ! これ、電話番号!」

「ええっ? えっと、謹んで……、登録させていただきます」

 ずいぶん勝手なことを言っているが、まぁ、中学高校のときでも一度として女子を家に連れて来たことなんかない僕だから、母からすればこのシチュエーションを奇異に感じるのは当然だ。

「よっし! 愛加里ちゃんのも登録したっ! 今度は実家に遊びにおいでっ?」 

「そ、そんなに期待しないでください。たぶん、ワタルくんはその気もないから難なく部屋に呼んでくれたんだろうと思いますし……、それに、今日のは単なる打上げなんで」

「打上げ? 仕事かなんかの?」

「えっと……、あたし、小説を書くんですけど、コンテスト応募用に書いた作品でとても悩んでて、それを話したらワタルくんがずっと手伝ってくれて……」

「小説……?」

「はい……。ここのところ、仕事のあとにずっと時間を作ってくれて手直しをして、それが昨日、やっと発送できたんで、今日はその打上げって感じで……」

「ふーん」

 テーブルに両肘をついたまま、その半眼をキッチンの僕へ向けた母さん。

「ワタルー? あんた、また小説書きの講釈してんだ」

「講釈じゃない。愛加里さんがどうしても知りたいっていうから、僕の文章の癖を教えてあげただけ」

「へぇ、どうしたのかしらねぇー? もう二度と小説書きとは係わらないって言ってたのにぃ」

 思わず目を伏せた。

 横目で見ると、愛加里さんはぽかんとしている。

 それから母さんは小さく溜息をついて、僕を捉えていた半眼をゆっくりと愛加里さんへと向けた。

「愛加里ちゃん、ワタルの小説、読んだんだ」

「え? はい。小説投稿サイトに上げてある作品はぜんぶ。たまたま見つけて、すごい文章を書く人だなって感心して……」

「サイトに上がってる作品だけ? サイト以外のは読んだことないの?」

「サイト以外……の?」

「母さん、もう、やめてくれない? 僕の作品はサイトにしかない」

 思わず、話を遮った。

 そして、ようやく蒸らし終わった英国紅茶の茶器をトレイに乗せると、僕はキッチンからおもむろにそれをふたりの前へ運び、それから恭しくテーブルへと置いた。

「お待たせしました。愛加里さん、ミルク要りますよね? 入れるのは先? 後?」

「え? えっと、あたしは先に入れとく派」

「そう。じゃ、どうぞ」

 そうして、温めておいたカップを愛加里さんの前に置くと、僕はトレイから拾い上げたミルクパックを彼女へと差し出した。

「ありがと」

 しかし、そう言って彼女がそれを受取ろうと手を出した瞬間、僕は一瞬考えてパッとその手を引っ込めた。

「え? なに?」

「やりますね。絶対、ばーんって」

「なによ、ばーんって」

「この圧着した蓋を剥ごうとして、ばーんってやるね、絶対」

「し、失礼なっ」

 はぁ? という顔の愛加里さん。

 そして、その顔がぷいっと横を向くと、僕は何食わぬ顔をして蓋を剥いで彼女のカップにミルクを注いだ。

 愛加里さんが肩をすぼませる。

「ふーんだ」

「はいはい。お砂糖は自分でね」

 そう言って、僕は角砂糖が入ったポットを彼女の前に置きつつ、茶器を傾けてその琥珀色の紅茶をゆっくりとミルクの上に注いだ。

 まろやかに彩を変える紅茶。

 豊かな香りがふわりと広がる。

 ふと見ると、母さんが豆鉄砲を喰らったような顔をしていた。

「なに?」

「い、いや、ワタルがそんなことするなんて、ちょっと意外」

「はぁ……、このカーペット高いんだよ。いつもの調子でばーんってされたら困るの。だから今日は、壊されたら困るものはぜんぶ片付けたんだから」

「あーあ、それで殺風景なんだぁ。あはは」

 部屋を見回して、腹を抱えて笑い出した母さん。

 愛加里さんは首をうな垂れて、「ううう、腹立つぅ」なんて言いながら唇を尖らせていた。

 それからは、母さんの独壇場。

 ずいぶん長い間、愛加里さんに向けられた母さんの質問攻め。

 それに答えて語られた、僕が知らなかった彼女の日常。

 まぁ、そんなに興味もないので僕はいままでそう詳しくは聞かずにいたけど、今日は勝手に聞こえてくるから仕方がない。

 時折、苦笑いして固まる愛加里さん。

 あまり聞かれたくないこともあるだろうにと、かなり強引に深掘りする母さんのしつこさに少々腹が立った。

 愛加里さんが、飯田橋にある企画事務所で働いているというのは聞いていた。

 具体的にどんな仕事をしているのかは知らなかったが、以前、『アルフヘイム』で初顔合わせしたときに思った『田原さんのマネージャーのようなもの』というのは、実は半分正解だった。

「主な仕事は、事務所専属のライターたちのお世話係です」

 企画事務所はイベント企画だけでなく、映像の脚本や出版なども手広くやっているそうで、愛加里さんはライターたちのマネージャーとして、出版社との連絡調整や新刊企画などをやっているらしい。

「格好? ああ、あれが仕事着よ? スーツじゃないの」

 けっこうフランクな会社で仕事中は普段着で構わないらしいが、たまに取引先への挨拶などがあるため、職場にはいつもスーツを置いているそう。

「愛加里さん、そういえばいつか、あのジーンズ姿にビジネスシューズを履いてたことありましたよね」

「え? 見られてた? あれは……、その、ちょっとしたアクシデントがあって。でも……、ワタルくん、そんなとこまで見てたんだ。そうとう、あたしのこと好きよね」

「え? まぁ……、嫌いではないですね」

「へっ?」

 したり顔で返した僕の合いの手に、頬を紅潮させて固まった愛加里さん。

 本当に僕よりふたつ年上なんだろうか。

 そんなふうに照れられたら、こっちも困るでしょ。

「でもまぁ……、あんな変な格好してたら誰でも気がつくと思うけど」

「うげっ、やっぱ、そんなに変だったかなぁ……」

 見ると、母さんが僕らのやりとりを見て「くくく」と口元に手をやっている。

「あー、もう夫婦漫才ね。愛加里ちゃん、ワタルの人間観察力はすごいでしょ? 小さいときからこんな感じなのよ。担任の先生の薬指から指輪がなくなってたけどどうしてー? みたいな」

「うわぁ、それはちょっと凄すぎますね……」

「でしょ? ほんと、驚かされてばっかり。で? 結局、愛加里ちゃんの靴の真相は?」

「え? あー、あれは、そのぉ」

 いやいや、それは言わなくても分かるでしょ。

 アレですよ、アレ。

「愛加里さん、仕事中にスニーカーに飲み物をこぼしたんでしょ。それで置いていたビジネスシューズを履いて帰ったと」

「はぁ? ワタルくん、あたしのことなんだと思ってるの?」

「え? 違うの?」

「ええーっと、その……、正解」

 肩をすぼめて、じんわりと下を向いた愛加里さん。 

 それを見て、「愛加里ちゃんっ、可愛いーっ!」と言いながら、ガハハと鬼泪山のような笑い声を上げた母さん。

 意外に、楽しい時間。

 そのうちに、窓からは部屋の奥まで陽光が差すようになって、まだ愛加里さんの次の小説の話をひと言もしていないというのに、部屋の空気を淡く暖かな朱色が満たした。

「いーじゃん、愛加里ちゃん。まだ帰っちゃダメ! 一緒に飲もうっ!」

 もう完全にえんたけなわという感じだったのに、母さんにとってはまだまだ序の口だったらしい。

 帰るという愛加里さんをしつこく引き留めた母さん。

 結局、それから三人で駅向こうの大型ショッピングセンターへと買い出しに行き、大量の鍋の具材とアルコールを購入。

 日暮れを過ぎた僕の部屋は、図らずも大宴会の会場となってしまった。

「あああ、あたし野菜切るからっ」

「やめて? 血だらけになります」

 実は、母さんはまったく料理をしない。

 というより、できない。

 父が存命のときは、基本的に家庭の食事は父が作っていた。

 僕と愛加里さんに鍋の準備を丸投げして、リビングで泡の出る缶のプルタブを軽快に引き上げた母さんは、ことのほかご満悦。

 僕がやるというのに、どうしても愛加里さんが手伝いたいというので、包丁や火を使う作業はぜんぶ取り上げて、その他の諸準備をお願いした。

「さて、できましたね。乾杯しよう? 愛加里さん」

「うん」

「うわー、美味しそーう! さっすがアタシの息子だわ」

 鍋ができて、乾杯のために母さんが取り出したビールは、六本パックの五本目だった。

 母さんは酒豪だ。

 以前、一緒に飲んだ鬼泪山は、果敢に勝負を挑んで三時間粘ったあと灰燼に帰した。


「母さん……、僕、もう飲めない」

「なにぃー? この前、鬼泪山ちゃんはもっと頑張ったわよぉ?」

「クラクラする」

 僕が両手をついてのけ反ると、愛加里さんが心配そうに僕の顔を覗き込んだ。

「ワタルくん、無理しないで横になったら? 明日は? 日曜講義とかじゃない?」

「うん。明日は……、休み」

「そう。ちょっと待って」

 ガハハと笑う母さんの声がぼわんと耳に響く。

 それを背景に、愛加里さんが立ち上がった。

 意識が遠のく。

 そして、次に頭の後ろに柔らかな手の暖かさを感じると、その手がそっと僕を寝かせてくれた。

 目をつむる。

 遠くで響く声。

「愛加里ちゃんは明日は?」

「休みです」

「おおお、いいねー! 朝まで飲むよー!」

「マジですか」

 ふわりと感じた、僕の部屋にはない甘い香り。

 頭の下にあるのは、たぶん、愛加里さんのダッフルコート。

 横を向いて目を開けると、本当はそんなに高価ではないカーペットと、僕の横に座る愛加里さんの膝が見えた。

 見上げると、愛加里さんが眉をハの字にして僕を見下ろした。

「お母さんは任せて。おやすみ。ワタルくん」

 愛加里さんの囁き。

 それからしばらく、とんとんと肩口を叩く子守唄のような手の感触が優しく続いて、いつの間にか僕は意識を手放していた。




 どれくらい経ったんだろう。

 ふと目が覚めると、ふたりの歓談はまだ続いていた。

「お母さん、あたし……、そろそろ限界かもです」

「いやー、愛加里ちゃんもよく飲んだねー。あっぱれあっぱれー」

 光は感じるが、目が開かない。

 ふたりとも、そうとう酔っぱらっている様子。

「ワタルってばぁ、もうすぐ二十四になるってのに、ほんっと、可愛い顔して寝てるでしょー? あー、そういえば、愛加里ちゃんっていくつなの?」

「あたしは二十五です。早生まれでワタルくんとは二学年違うんで、来年の一月で二十六になります」

「おおーう、早生まれかー。じゃあ、生まれた年で見ればワタルとは一年違いだねぇ。いいなぁ、若いなぁー」

「うわ、お母さんがそんなこと言いますか。その若さで」

「あはは。ワタルはさぁ、けっこう落ち着いているように見せてるけど、中身はまだお子ちゃまなのよねー」

 じんじんと響く声。

 それは親からすれば息子なんていくつになっても子どもに見えるもんだろう……なんて考えが、その響きの前でぐるぐると回っている。 

「お母さん、さっき言ってたの、あれって、なんですか? ワタルくん、もう小説書きには係わらないって」

「ああー、あれねぇ、あはは。愛加里ちゃんにはたぶん話してないよねー。ワタルはねぇ――」

 母さん、できればその話は愛加里さんにしないで欲しいな。

 僕にとっては、もう二度と消すことができない汚点。

 夢も希望もなくなった、思い出したくもない、あの出来事。

「ワタルね? 実は大学二年のとき、一度デビューしたのよぉ。物書きでびゅーぅ」

「え?」

「でねー? その小説が、かなぁり酷評されたらしくてねぇ。どこかの出版社の社長さんにー」

「なっ、なんていうんですかっ? その小説のタイトルっ」

「あー、なんだったっけか。『ぬくもりは珈琲色』……だったかな。違ったかも」

「ぬくもりは……珈琲色……」

「出版されてすぐはもう、なんていうか、浮かれ気分でねぇ。偉そうに誰彼構わず小説家気取りで講釈してぇー」

 そうだ。

 あのとき、僕は浮かれていた。

 図らずも僕の……、いや、『いしずえ翔』の物語が、本になって世に出たことに。

「だからバチが当たったんだろうねぇー。そんなことしてたから、出版社の社長なんかに酷評されて、地獄に突き落とされて、落ち込んで……」

「それで、もう小説書きには係わらないって言いだしたんですか?」

「そうそう。講釈どころか、自分で書くのもやめちゃって……。結局ねぇ、それから大学の文芸サークルも辞めて、忙しい塾講師のアルバイトを始めて……、なーんか、別人みたいに暗くなっちゃったのよ」

「あ……、それで心配して、たまにこうやってわざわざ訪ねて……」

「まぁねー」

 時々、しかも突然、母さんが遠い故郷からわざわざ訪ねて来るのは、おそらくそういうことだろうなとは思っていた。

 でも、僕は暗くなったんじゃない。

 ちゃんと、大人としての考え方ができるようになっただけだ。

「えっと、その酷評っていうのが……、あたしにはよく分かりません。ワタルくんの文章力は本当に羨ましい……。なんであたしにはこの文章が書けないんだろうって、いつも彼の小説を読んでそう思います」

「まぁ、小さいときから本のムシだったからねぇ。国文学の大学教授だった父親、一昨年に亡くなったんだけど、その父親の影響でワタルは小さいときからとにかく本が好きでさぁ。文章を書くのもすごく上手でー」

「お父さん、大学教授だったんですか」

「そうよー? アタシのゼミの先生だったの。あはは。でも、そのちょっとだけ秀でた文章力が災いしたんだと思うわー。褒められるばっかりで批判されたことがなかったから」

 核心だ。

 ずいぶんと子どもだった僕。

 書きたいものを書いていれば、いろんな人がそれを褒めてくれた。

 話題になり、次はどんな物語を書くのかと、誰もが僕に興味を持ってくれた。

 しかしそれは、そのとき僕が『子どもだったから』だ。

「でもー、こーんな可愛い彼女が居てくれてよかったわー。ワタル、やるじゃん?」

「いや、ですから……、彼女じゃないですって。それに、あたし、一緒に居たらワタルくんに迷惑ばっかり掛けちゃいますから」

「いやぁー、ワタルのやつ、ぜったい迷惑とか思ってないよー? アタシ、見たもんね。カップにミルクを入れてあげたときのワタルの顔」

「そうですか? あれは呆れてた顔ですよ?」

「ふふん、果たしてそうかなぁ? 二度と小説書きには係わらないって言ってたワタルが、わざわざ時間作って手伝いしたんでしょー? それってたぶん、愛加里ちゃんだからじゃない?」

「えっ? そ、それはないでしょ」

「あはは。でもまぁー、もし愛加里ちゃんがずーっとワタルのそばにいてくれるようになったら、アタシは嬉しいなー。『年上の女房は金の草鞋わらじを履いても探せ』って言うしねぇ」

「それって、『ひとつ年上』じゃないですか? あたしはふたつ上」

「早生まれだからひとつ年上でいいのぉ。愛加里ちゃん、アタシの老後、よろしくねー。あはは」

 勝手なこと言ってやがる……という思いが再び遠のく意識の端でゆらりとして、それから僕はついに無意識の中を泳ぐ漂流者となった。

 覚えているのは、あの過去の話を与太話のように愛加里さんに話した、母さんへの恨めしさ。

 そして、それを真剣に聞いてくれていた、愛加里さんのなんとも言えない真摯さ。

 ただ、その真摯さにまざまざと浮き彫りにされたのは、嘘でしか己を護れない、作られた物語でしか癒やされない、どうしようもなく幼い自分だ。

 その自分を蔑みながら、僕は『もう大人になった僕には関係ない』と、まるでそれを他人事のように自己完結して、それからまたゆっくりと意識を手放したんだ。

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