第二章
2-1 再会は小説よりも小説のようで
【ショウ、お前、文学賞にはなにか出さねぇのか?】
帰りの地下鉄。
ドアが閉まったとき、ちょうど鬼泪山からのメッセージが届いた。
相変わらずの曖昧な文章。
【文学賞? なんの文学賞のことを言ってるんだ?】
【この時期なんだから、『竹邉書房』に決まってるだろ】
そうか。
もう今年もそんな時期だ。
ヒューマンドラマを書かなくなってからこっち、もうすっかりこの文学賞のことを気に留めなくなってしまっていた。
かつて、『いしずえ翔』が意気揚々と挑戦を続けた、この『竹邉ノベルズ文学賞』。
ヒューマンドラマ、恋愛、エンターテイメント、SFの四部門があり、それぞれ短編と長編に分けて募集されるが、異世界書きの『恒河沙』にはなんら関係の無いコンテストだ。
【出さないよ? 興味も無い】
【そうか? お前が本気を出してヒューマンドラマを書きゃぁ、絶対入賞できると思うんだけどなぁ】
【そんな簡単に行くか。第一、僕はもうヒューマンドラマは書かない】
そう返信したとき、ちょうど地下鉄の列車がホームへと滑り込んだ。
ドアが開く。
そして車内を見回しながら、小さくひとりごちた。
「書かない……か。いや、書けない……の間違いだな」
僕にはもう、ヒューマンドラマは書けない。
どこにでもある、どうしようもない人間臭さをありありと描いて、その中で誰かの心を揺さぶる物語を紡ぐ。
たぶんもう、僕自身がそんな人間模様に心を揺さぶられることがなくなってしまったからだろう。
誰かを心から大切に思うことも、誰かを心から恋焦がれることも、それは自分が自分に対してついている嘘のひとつだと、そう自己完結してしまっている。
【そうかぁ? いいと思うんだがなぁ、お前のヒューマンドラマは。ところでお前、『異世界遁逃譚』のプロットを持って来られねぇか? できれば明日】
【明日? 別にいいけど、プロットなんてなんに使うんだよ】
【いやぁ、文芸サークルの後輩の女の子が、どうしてもお前のプロットが見たいって言うんでな?】
【僕のプロットをナンパの道具に使うな】
プロットなんて、本来、人に見せるものじゃない。
そもそも、僕は執筆前に完全なプロットは作らないし、作ったとしても世界観と登場人物の設定程度、それに全体を通して流れるテーマとキーワード、そして大まかな結末の落としどころくらい。
さて、『異世界遁逃譚』のプロットは、どの程度の内容だっただろうか。
ストーリーについては、結末へ向けたアウトライン程度しか書いてなかった気がする。
【いやいや、お前の『異世界遁逃譚』をえらく気に入ってる一年生の子が居てな。どうやったらあんな重厚な物語が書けるのか、すごく興味があるっていうんだ】
僕の書き方は、テーマと結末を決めて、そこから遡って物語を起こしていく手法だ。
そして、いくつかの印象的な場面を決めておいて、それを繋いでいくようにストーリーを調整していく。
なので、よく小説投稿サイトで見かける、結末を決めないで数百話に亘って短い話をその都度作りながら書いていく連載方法は、僕にはとうてい真似できない。
逆に言えば、最初から結末が決まっているので、物語は絶対に完結する。
しかし小説投稿サイトでは、連載している作品が完結しないなんてことはよくあることらしい。
僕は最初から完結する作品を書いているので、初めて投稿作品が完結して、『完結、おめでとうございます』というメッセージをもらったときは、正直、あまり意味が分からなかった。
【一年生? 二十歳未満に手を出すんじゃない】
【そんなんじゃねぇって言ってるだろ。いいから、、明日、プロットを持って来い】
面倒くさい奴だ。
そう思いながら、【分かった】と打った返信。
そうして溜息を伴って顔を上げると、ちょうど窓の外に駅のホームが流れ始めた。
列車が止まり、一瞬の静寂が辺りを包む。
僕が乗る駅からふたつ次の、川の下にある駅。
ここから地上へ這い出てちょっと歩けば、さっき鬼泪山が言った文学大賞の『竹邉書房』の本社がある。
僕が一番嫌いな出版社だ。
疎らな人影。
もう通勤ラッシュをずいぶん過ぎた時間、この疎らさがなんとも心地よい。
その心地よさを満喫しつつ手元のスマートフォンへ目を戻そうとした瞬間……。
「あ」
「え? ああっ」
開いたドアから現れ、突然に僕の心地よさを奪った、その姿。
「愛加里さん……」
「な……、なによ」
立ち止まったまま、ジトリと僕へ向けられたその瞳。
やや上品に色が抜けたブルージーンズに、ふわりと柔らかなクリーム色のニット。
チラリと見ると、今日はちゃんとスニーカーを履いていた。
「別になんでもありません」
「ふーんだ」
なんなんだ。
一瞬のけ反った彼女だったが、ちょっと口を尖らせるとすぐにそれを一文字にして、斜め前の空いている座席に腰を下ろした。
思わず出た溜息。
僕は足を組み替えて、手元へと視線を戻す。
彼女も同様にスマートフォンを取り出した。
乾いたモーター音。
地下鉄は何事もなかったかのように滑り出す。
その後も、数人の客の乗降があった。
僕はどうでもいいニュース記事を流し読みしつつ、その乗降客の足が右へ左へと流れるのを視界の端に捉えていた。
別に気になっているわけじゃないが、やはり時折、彼女が視界の端をかすめる。
どうやらいつもと同じように、その瞳を真っ直ぐにスマートフォンへと向けて、なにか一心に文章を読んでいるようだ。
その顔は、実に真剣。
あのドジの塊の顔とは思えない、きりりとした表情。
そうして僕の思考が何度か手元の画面と彼女の横顔とを行ったり来たりしているうちに、例のごとく地下鉄は地上に悠々と顔を出した。
背景は無味な夜景。
窓の外を、いくつもの冷たい街路灯が走り去っている。
顔を上げて彼女を見ると、彼女はいよいよ集中していた。
いまどの辺りを走っているのかなど、まったく気に留めていない様子。
もう次は、愛加里さんが降りなければいけない駅だ。
まさかと思うが、このまま乗り過ごしてしまうのでは……。
いや、それは要らぬ心配。
かなりのドジではあるが、おそらく僕より少し年上。
しっかりと定職を持って生活している、自立した立派な社会人だ。
画面に集中はしているものの、ちゃんと車内のアナウンスは聞いているはず。
電車が速度を落とした。
ブレーキ音が響く。
ぎゅっと慣性から引き戻され、踏ん張った足の力が抜けた。
一斉に開いたドア。
ダメだ。
やっぱり気づいていない。
「愛加里さんっ、駅、駅っ」
「ええっ?」
ハッと顔を上げた彼女。
そして、いつぞやと同じく「うわ」なんて言いながら飛び上がると、彼女はバタバタとドアへ向かって駆け出した。
思わず顔をしかめた。
ドドンとドアにぶつかりながら、彼女がホームへと転げ出る。
直後、カタンと音を立てて閉じたドア。
ギュンとモーターの音が響いて、再び列車は滑り始めた。
見ると、窓の外には思いっきり僕を睨みつける彼女。
教えてやったのに、その顔か。
もう、いい加減にして欲しい。
そして次の瞬間、その呆れた僕の心は、それを発見してさらに呆れの頂点を極めるに至った。
彼女が座っていたシートの足元。
なにやら、赤いパスケースのような物が落ちている。
「はぁ……、なんなんだ、あの人」
僕はゆっくりと立ち上がり、さらに溜息を吐きながらそれをそっと拾った。
これはまるで、いつか僕が考えた物語の布石だ。
ふたりの出会いのきっかけとなるアイテム。
しかし、現実に置き換えると、そんなにロマンティックでもない。
この案はボツだな。
見ると、それは有名な英国ブランドの赤い革製のパスケース。
運転免許証と交通系ICカードが入っている。
『新井愛加里』
免許証の誕生日は、一月十二日になっていた。
生年は僕と一年違いだが、彼女は早生まれなので学年で言えば僕よりふたつ上だ。
さらに溜息が出る。
仕方ない。
連絡を取りたくはなかったが、緊急事態だ。
そうぶつぶつと声にならない言葉を噛みながら、僕はスマートフォンで田原さんのSNSページを開いた。
メッセージを送る。
【突然すいません。ちょっと訳がありまして、愛加里さんに僕宛てに連絡するように伝えてもらえませんか。電話番号は――】
すぐに返信は来ないだろうからとりあえず預かっておいて、連絡がついたなら明日の朝にあの駅で一度降りて改札越しにでも手渡そう。
なんとも世話のやける人だ。
きっといままでも、こんな感じでたくさんの物を失くして困って来たに違いない。
そんなことを思いつつ、僕は田原さん宛てのメッセージに書いた自分の携帯電話番号をもう一度確認して、それから送信した。
程なく着いた、僕の駅。
いつもと同じように列車を降りて、改札へと向かう。
人は少ない。
そうして一階まで下り切って改札を出たところで、もう一度SNSを開いた。
すると、どうしたことだろう。
ちょうどスマートフォンを見ていたのか、もう田原さんからの返信が届いていた。
【こんにちは。どうかしました? 愛加里がなにかご迷惑をお掛けしたのでしょうか】
すぐに返信を送る。
【いえ、大したことではないのですが、電車に忘れ物をされまして、僕がお預かりしているものですから、連絡が取れればと思いまして】
【あら、それは大変。すぐに連絡させますね(^^)】
【いえ、僕はすぐでなくてもいいのですがw 宜しくお願いします】
どうしたものか。
このままマンションへ帰って連絡を待ってもいいが……、あの愛加里さんのことだ。
もしかしたら、あの駅の改札の手前でバッグをひっくり返して、大騒ぎしつつこのパスケースを探しているかもしれない。
それか、どうしていいか分からずに待合室で座り込んで、あのひとつ結びを力なく垂らして途方に暮れているかもしれない。
さらに、さらにため息が出る。
僕はなぜか、その丸いなで肩が丸く縮こまっている姿を想像して、おもむろに踵を返した。
再び通る改札。
ややうな垂れつつ階段を上がると、ちょうど都方向へ向かう列車が近づくアナウンスが流れた。
そのアナウンスに重なって、コートのポケットに軽い振動が走る。
見ると、僕のスマートフォンの画面に表示されていたのはまったく知らない電話番号。
さらに、さらに、さらにため息をついて、僕は通話のボタンを押した。
「もしもし?」
『あああ、あのー、恒河沙? あたし、あの――』
「愛加里さんですか? パスケース忘れてますよね。いまどこです?」
『え? あたし、やっぱり落として……、あ、えっと、まだ……、駅』
「出られないで困ってるんでしょ? いまから持って行きます。そのままそこに居てください」
『え? いや、あたしが取りに行くから』
「もう電車が来ました。いいですか? あちこち行かないで、ちゃんと改札の前に居てくださいね?」
『ええっと、あの、……うん。分かった』
ちょうど開いたドア。
目指すはふたつ手前の駅。
人影疎らな電車は無言で滑走し、大して待たずに僕をその駅へといざなった。
そういえば、この駅で降りるのは初めてだ。
降り立った、そのプラットホーム。
まだ秋だというのに、かなり肌寒い。
少し他の駅と違う感じがするのは、ホームの背後から線路の上まで張り出した斜めの屋根のせいだろうか。
ぐるりと見回す。
彼女は居ない。
すぐにコンコースへと下りた。
目に入った改札。
居た。
改札の前にある柱に背中を預けて、ひとつ結びが丸いなで肩を小さくすぼませている。
僕は、さらに、さらに、さらに、さらに溜息をついて、コートのポケットの中の赤いパスケースが間違いなくそこにあることを指先で確かめて、それからゆっくりと彼女へ歩み寄った。
「愛加里さん」
床に落とした彼女の視線がハッと上がって、その大きくした瞳が僕を見上げた。
「あああ、あの」
「ちょっとドジ過ぎじゃないですか? 苦労するでしょ。はい、これ」
「えっと、その……、ごめん」
「では」
「わっ、わっ」
背を向けた途端、ぐいっと引かれた僕の腕。
思わずのけ反る。
見ると、なぜか彼女が僕の袖を力いっぱい引き寄せている。
「えっと……、なんですか?」
「あああ、あの、あんた、あたしにお礼もさせずに帰るつもりっ?」
「お礼? 要りませんよ、そんなの。明日も仕事なんで早く帰りたいですし」
「いいじゃんっ、ちょっとだけっ! あの、あたしいまから夕食だしっ、いいい、一緒に、その辺りのお店で……、その……」
僕より頭ひとつ低い彼女。
なにやらぎゅっと僕のコートの袖をつまんで、そのちょっとだけ可愛い童顔を横に向けている。
さて、どうしたものか。
だんだんと下を向いて行く、その横顔。
僕は、小さく溜息をついて、それからその答えを口にした。
「はぁ……、分かりましたから、そんな顔しないでください。ちょっとその辺で一杯やるくらいならいいです」
「ほっ、ほんとっ?」
「でも、知ってのとおり、僕はまったく面白くないですよ? 場がもたないかも」
その答えを聞いて、瞳を爛々とさせた彼女。
すぐに「大丈夫、大丈夫っ」と急に元気になって、なにやら鼻息荒く改札のほうへと歩き出した。
思わず出た苦笑いを伏せつつ彼女に続く。
ふわりふわりと揺れる、黒髪のひとつ結び。
彼女の顔は見えなかったが、そのぶんぶん振っている腕と、柔らかに揺れるひとつ結びが、僕にはまるで満面の笑みのように見えていた。
「で? 恒河沙よ。そのあと、盃を酌み交わしつつ愛加里さんとなんの話をしたんだ?」
「盃とか大袈裟だな。それに大した話もしてない。ちょっとだけ小説の話をして……、あとは、本名を聞かれたから教えたくらいかな」
いつもの、『妖精館』。
今日の講義は夕方までだったので、ずいぶん早くここへ足を運ぶことができた。
最後の講義が終わったと同時に、学校帰りの例の湊さんが学習室へ駆け込んできて僕に長々とした話をふっかけようとしたので、この約束を口実にものすごく急いでいる振りをしてそそくさと離脱してきた。
今日も、マスターの品のいいコーヒーが優しい香りを漂わせている。
「ふぅん。なんにもなかったのか?」
「お前はなにを期待してるんだ? 単なるお礼だぞ? 向こうだってそんな気が無いから誘ったんだろ」
「しかし、いーいシチュエーションの出会いじゃねぇか。彼女、けっこう可愛いぞ?」
「可愛いなんて歳でもないだろ。だいたい、あんなドジの塊は大変だ。僕の手には負えない」
「いやぁ、運命だな。お前の『ぬくもりは珈琲色』とよく似てると思わねぇかぁ?」
ニヤリと笑みを浮かべた鬼泪山。
ハッとした。
久しぶりに声に出して聞いた、その小説のタイトル。
かつて、学生時代にたった一作だけ世に出た、僕の書籍化作品。
出版社と小説投稿サイトがコラボして催したコンテストで、図らずも大賞をもらって書籍になった。
半分は経験、半分は空想で書いた、あの物語。
その後はさらに大きなタイトルに恵まれることはなかったけど、各方面の方からそれなりの高評価をいただいた。
秋空の下、主人公の大学生が恋をした相手は、春に結婚を控えた年上の女性。
他愛もない、叶わぬ片想い。
いろんなものに行き詰っていた学生の心は、彼女との出会いに温かく解かされてゆく。
その温もりのモチーフに選んだのは、ほろ苦く温かな『コーヒー』。
「はぁ……、確かにシチュエーションだけは少し似てるな。でも僕にあの人は……、無理だな」
『本名って、「ショウ」くんでいいの? 鬼泪山くんが呼んでたよね』
『あー、あれは昔のペンネームから来てるんです。本名はワタルって言います。飛翔の「翔」ひと文字で「ワタル」』
ふたりで入った居酒屋は、なかなかいい雰囲気のお刺身が美味しいお店。
平日の夜だというのにほとんど席が埋まっていて、僕と愛加里さんは仕方なくカウンターに並んで座った。
僕の右側に、丸いなで肩をもっと丸くしてちょこんと腰掛けた彼女。
『そうなんだ。昔のペンネームって、どんなの?』
『なんでそんなに嬉しそうなんですか……。「いしずえ翔」です。高校時代から大学卒業までつかってました』
『……いしずえ……、ショウ……』
『なんですか、その反応』
『別になにも。えっと。ワタルくんって、いくつのとき小説書き始めたの? あー、店員さん、すみません。あたしもう一杯チューハイ、グレープフルーツでー』
『いくつ? そうですねぇ。本格的に書き始めたのは高校くらいだったでしょうか……。あー、僕も、ビールもう一杯』
意外にも、話は弾んだ。
なにやら、いつの間にか彼女からは『ワタルくん』なんて呼ばれてて。
『高校生かぁー。ワタルくんの文章、ものすごく厚みがあって上手いよね』
『え? そりゃどうも。しかし、褒めてもなんにも出ませんよ?』
『いや、正直な感想なのよ。あのさぁ、あたし、あんなワタルくんみたいなのは書けなくてー。特に、小説は難しいんだよねー』
『どうしたんです? 今日はずいぶんしおらしいですね』
『しおらしい? なによそれ。んんっ、あの、さっき電車の中でね? あたし、ワタルくんが書いてる「異世界遁逃譚」を読んでてね? その……』
『え? まさか、それで乗り過ごしそうになってパスケース落としたって、僕のせいにするつもりじゃないでしょうね』
『そんなことするかっ。んんっ……、で、あの……、あのね?』
なにやら、さらに丸まる小さななで肩。
思わず、その顔を覗き見上げる。
『どうしたんですか?』
一瞬の間。
すると次の瞬間、愛加里さんが口を一文字にして急に背筋を伸ばした。
思わずのけ反る。
そして彼女はぎゅっと肩をすぼませて居住まいを正すと、そのまっすぐな眼差しをすっと僕へと向けた。
『あ……、あのっ、ワタルくん。あたしに……、あなたのあの重厚な文章の書き方を教えてくれないっ?』
『は?』
あまりの突拍子もない言葉に思わず口が開いた。
小さな肩。
トレードマークのひとつ結びが、その小さな肩にはらりと落ちる。
『教えるって……、僕が愛加里さんにですか?』
『うんっ。あたし、ちょっといろいろあって、どうしても今年度中になにか賞を獲らないといけないのっ。だから……』
『賞を? でも、僕の書き方を教わったからって獲れるものでもないでしょ。それに、なんです? 今年度中って――』
『あああ、ほら、あそこっ、あの本を渡したときに行った喫茶店ならどうかなっ! 今回のは応募締切までもうあんまりないから、できれば明日からでも……』
『えー? あそこは知り合いがけっこう来るし、付き合ってるようにでも見られたら面倒くさいじゃないですか』
『へ? あ……、ああっ』
突然、真っ赤になって前を向いた愛加里さん。
その瞬間、肘が触った串入れの竹筒が隣のお客さんのほうへバサリとひっくり返った。
『わっ、わっ』
『もう、なにしてるんですか。あ、すみません。すぐ片付けます』
びっくりしている隣の人へ愛加里さん越しに頭を下げる。
まったく意識していなかったのか、僕が口にした色恋沙汰の懸念にずいぶん動揺した彼女。
『もう、本当に勘弁してくださいよ』
そう言いつつ、彼女の前に身を乗り出して拾い集め始めた竹串。
少々、本気で憤慨しているように聞こえてしまったのだろうか。
なぜか彼女はいつもの「ふーんだ」は漏らさずに、ただただ下を向いて肩をすぼめていた。
しかし、重厚な文章の書き方なんてどうやって教えるんだ。
どんなに文章だけ重厚で見栄え良くしても、物語そのものがチープならそれは滑稽にしかならない。
それに、文章の作成力や構成力の根本は、生まれ持った理論的思考力と幼いときから培った経験や語彙力に左右されることが多く、数日間の付焼き刃なんかではとうていカバーできない。
震える小さな肩。
僕が竹串を拾い集め終わって腰を下ろしても、愛加里さんは一向に顔を上げない。
その間、僕は体よく断る嘘をぐるぐると探していたが、そのうちにもう面倒くさくなって、大きな溜息と共に思案を放棄した。
『はぁ……、分かりましたから、そんな顔しないでください』
なぜそう思ったのか分からない。
文章の書き方を他人に講釈するなんて、もう二度とやらないって決めていたのに。
僕の小説は、価値が無いと烙印を押された俗物だ。
僕の文章は、読むに値しないと世間に安く値踏みされた路傍の石だ。
それでも、僕の文章を気に入ってくれて、同じものが書けるようになりたいと、彼女は思ってくれている。
まぁ、ひとりくらい、そんな人が居てくれてもいいか。
『明日、仕事が終わったら「妖精館」で会いましょうか。たぶんその前に鬼泪山と会うんで、もしかしたらヤツも一緒になるかもしれませんけど』
「いや、俺さまはさっさと帰るぜ? そんな無粋なことはしねぇよ」
「だから、何度も言ってるだろ? そんなんじゃないって」
「まぁいい。とにかくプロットを早く出せ。彼女が来る前に俺は退散する」
「はぁ……、ん? あれ? ここに入れておいたはずなのに」
ついさっき愛加里さんから仕事が終わったとメッセージが来たので、そう間を置かずに彼女もここへやって来る。
どうも、鬼泪山は自分が居ると僕らの邪魔になると思っているらしく、さっきから早く帰ろうと腰が落ち着かないで居る。
しかし、約束の『異世界遁逃譚』のプロットがカバンの中に見当たらない。
「早くしろ。彼女が来ちまうだろ」
「おかしいな……、あっ、もしかして……」
そういえば、帰り際に湊さんに掴まりそうになったとき、教卓のところで誤ってカバンをひっくり返した。
思わず逆さに持ち上げてしまって、閉じたと思っていたジップが開いていて……。
散らばったカバンの中身を慌てて拾い集めたけど、もしかしたらそのとき教卓の下にプロットを取り残したのかも。
「はぁ? カバンの中身をばら撒いたってぇのか? お前、彼女のこと言えねぇじゃねぇか」
「うるさい。程度が違う。仕方ないな。申し訳ないが、クラウドデータへのリンクをあとで送るんで、そっちで印刷してもらえないか?」
「なんでぇ、なにしに来たか分かんねぇな。ま、いいけどよ。彼女と仲良くな?」
「違うって言ってるだろ?」
ガハハと豪快な笑い声を上げながら席を立った鬼泪山。
なぜか僕のぶんまで一緒に支払って、マスターに「また来るぜ」と手を挙げつつドアを過ぎて行った。
さて、愛加里さんはどんな小説を書いているんだろう。
締切を見据えて、一応、作品自体は完成していると言っていた。
どんな手直しが必要か、まずはその作品を読んでみないことにはアドバイスもできない。
いや、その前にまず、ちゃんと原稿を持って来てくれるだろうか。
自宅に忘れて、今日は結局なんにもできなかったなんてことになりはしないだろうか。
いやいや、それ以前に、地下鉄からちゃんと迷わずにここへやって来ることができるだろうか。
ハッと、我に返る。
いつもの、窓際のボックス席。
窓越しに見える通りのずっと向こう。
柔らかな街路灯に描き出された小さな丸い肩が、ひとつ結びをゆらしてこちらへ歩いてくるのが見えた。
小さく手を挙げる。
彼女も僕を見つけて、笑顔で大きく手を挙げた。
そして僕は、その姿を背景に窓に映った自分の顔を見て、無意識に彼女の心配をしていた自分に思わず苦笑いしたんだ。
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