1-3  出会いは『妖精館《アルフヘイム》』にて

【フォローありがとうございます。もしかして、『異世界遁逃譚』の『恒河沙』先生ですか?】

 フォローから数分。

 突然届いた、エッセイスト『田原直子』からの返信。

 本当に本人だろうかと思いつつ、僕はすぐにもう一度パソコン前の座椅子へ腰を下ろした。

 軽くなったビールの缶が、リビングテーブルの天板でコツリと音を立てる。

 見ると、僕のSNSも『田原直子』からリフォローされていた。

 僕は再び、そのSNSの画面と小説投稿サイトのそれを見返して、それから大きく息を吸った。

 そして、極めて沈着にしたためた、再度の返信。

【はい。レビューありがとうございました。ちょうど、投稿サイトのほうでお礼のメッセージを送らせていただいたところでした】

【嬉しい! とっても文章がお上手ですね。私も物書きの端くれなのですが、あなたのような重厚な文章はとても書けません。まるで映画を観ているかのような情景表現、その想像力の豊かさに限りなく圧倒されております。どうぞ、今後とも宜しくお願いいたします】

 どうやら、鬼泪山が言ったことは本当のようだ。

【こちらこそ、無言フォロー失礼しました。エッセイをお書きなのですね。まだ目にしたことがありませんので、近いうちに購入させていただきます】

 そう返して、思わず息が詰まった。

 これは、嘘だ。

 どうしようもない社交辞令。

 僕はたぶん、わざわざ買ってまで読まない。

【いえいえ、イギリス文化など興味の無い方もたくさん居られますので、ご無理をなさらないでください。それに、あなたのような素晴らしい文章を書かれる方からすれば、私のなんて子どもが書いたようなものですから……、真剣に読まれると恥ずかしいです】

 どうしたことだろう。

 プロの物書きなら、もっとぐいぐいと押してくると思って構えていたのに。

 いや、しかしこれは嘘かもしれない。

 なにか、策をろうしているのかも。

【なにを仰いますかw 余計に興味が湧きました。近日中に、必ず読ませていただきますね】

【いえ、無理なさらないでください。でも……、本当に読んでくださるというのなら、余部が自宅にありますので差し上げます】

 プロの物書きが、僕にタダで本をやるなどと言っている。

 一体、なにが目的だろう。

【いやいや、それはあまりにも申し訳ない。ちゃんと買いますから】

【いえ、ぜひもらってください。お近くなら、どこか都合のよいところへ持って行きます。プロフィールからすると、普段は都内に居られるようですね】

【職場が新宿なので。住まいは都寄りの千葉です。東西線で通っています】

【あら、東西線は私もよく利用します。それでは、お仕事帰りのときにでも、どこか職場の近くでお渡ししましょう。いい場所があれば教えてください。できれば小説のこともいろいろお伺いしたいので、ゆっくりお話ができるところがいいです】

 どうやら、本気で僕に自書籍を渡そうとしているらしい。

 僕の小説のファンだから会いたいということなのだろうか。

 別にファンサービス的に会うのは構わないが、女性相手にふたりっきりというのはちょっと困る。

【失礼ですが、たばなおさんは女性ですよね。大丈夫ですか? 見ず知らずの男性とこんな約束をして。それに僕はかなり口下手なので、ふたりで話してもたぶん面白くないですよ?】

【それではお友だちも一緒でいいですか? そちらもお友だちを連れていらしたらどうでしょう】

【友だちですか。友だちもあまり居ないんですが――】

 居るな。

 ひとり風変わりなヤツが。

 エッセイストの『田原直子』と会うと言ったら飛んできそうなヤツが若干一名。

【わかりました。僕も友人を連れて来ます。僕は塾で講師をしていまして、いつも仕事が終わるのは少し遅い時間なのですが、大丈夫ですか?】

【はい。時間は恒河沙先生に合わせます。楽しみにしていますね】

 ネコがお辞儀をしているスタンプで締められた、エッセイストのメッセージ。

 それを眺めたまま、僕はしばらく放心していた。

 ふと我に返り、缶ビールのことを思い出して再びそれを口へ運ぶ。

 ややぬるくなったビール。

 その苦味が喉の奥に染み渡ったとき、思わず独り言が出た。

「さて……、なにを企んでいるのかな」

 ゆっくりと上がった口角。

 僕はほんの少しだけ愉快になって、残りのビールをぐびぐびと煽りつつ、軽いタッチでノートパソコンのディスプレイを閉じた。




「もーう、桃香の嘘つきぃ。めっちゃカッコイイじゃん!」

 学習室の一番前の席。

 僕が講義終了を告げてテキストを閉じた途端、その大きな声の耳うちが聞こえた。

 湊さんが連れて来た体験入塾の女の子が、なにやら嬉々として湊さんへ話しかけている。

「そう? あんた、あんなのが好みなんだ。確かに見た目はちょっといい感じだけど、なんていうかなぁ、ほんと冴えないんだよねー」

 彼女も湊さんと同じ、都内屈指の名門校の生徒だ。

 僕が学生時代から講師を勤めてきたこの塾は、進学塾としてかなり名が売れている老舗。

 指導しているレベルはずいぶん高くて、やって来ているのは彼女たちのような高偏差値の高校の生徒ばかり。

 そして目指しているのはほとんどが、いわゆる東京六大。

 学習室の窓から見える、すぐそこの僕の出身大学を目指している子もずいぶん居る。

「あー、そういえば、桃香の小説、読んだよ。面白かった」

「もう? 昨日あげたばっかじゃん。ちゃんと読んだのぉ?」

「うん。あたし、いつもけっこういろんなの読んでて慣れてるから速いんだ。最近は投稿サイトのも読みまくってるし」

「投稿サイト? 素人の話とか読んでも面白くないでしょ」

「えー? そんなことないよぅ。けっこう文学してるお話しもあるんだよ? いまハマってるのはね、『異世界遁逃譚』っていうやつ。『恒河沙』って人が書いてんだけど」

「とんとう……? なにそれ」

 突然に飛び出た、僕の小説のタイトル。

 思わず、ホワイトボードを消す手が止まる。

「異世界なのに文学っぽいの? ちょっとおかしくない? 異世界はめっちゃライトじゃないと」

「そうかなぁ。けっこうイケてると思うんだけど。なんか難しい文学作品読んでるみたいでアタマ良くなったような感じする」

「は? それ、もうライトノベルじゃないじゃん」

 まぁ、この反応が普通だ。

 僕の文体は、もともと中高生には向かない。

 つい半年くらい前までは、もっとライトな感じの作品を書いていた。

 読書経験が浅い中学高校の子にも楽しんでもらえるように、できるだけ平易な言葉を使い、文学的なヒューマニズムや行間を読ませる心理描写などを敢えて控えた作品。

 僕らしくない、直線的な文章。

 書いていてかなりのストレスを感じたが、まぁ、それなりにPVが伸びたので良しとした。

 全六章、十二万字強を書き終えて、それなりの達成感も味わった。

 しかし、書き終えてすぐ感じたのは、言い表しようのない虚無感。

 読者の多くがくれた感想は、「面白かった」のひと言のみ。

 それ以外には大した文言はもらえず、文章や表現についての評は皆無。

 そして、完結してしまってからはPVもまったく伸びず、それが一過性の読み物としてただその場で消費されただけに過ぎないことを、身をもって体験した。

 所詮、そんなもんだ。

 読者なんて、その『面白おかしさ』を貪欲に消費するだけの魔物みたいなもの。

 そして、その魔物らに対して緩慢なアンチテーゼを唱えようと考えたのが、いま書いている『異世界遁逃譚』だ。

 求めたのは、かつて得意としていたヒューマンドラマのような、微細かつ丁寧な情景描写と、ずっしりと重たい文学的な世界観。

 しかし、投稿サイトへやって来る読者の大多数が求めているのは、ライトなノリの『スカッとする楽しい読み物』だ。

 その読者たちを前に僕は、『読んでもらいたい』という承認欲求と、『一過性の消費物として扱われたくない』というプライドの矛盾撞着を抱えながら、いまも安い物語を書いているんだ。

 何たる浅慮だろうか。

「……んせい? 萩生先生? 聞こえてます?」

「うわっ。み、湊さん、まだ帰らないの?」

「ママ、ちょっと遅れるらしくて。それよりぃ、読みました? わたしの小説」

 教卓の前で、あざとい笑顔を白々しく突き出して僕を覗き見上げる湊さん。

 その後ろで体験入塾の彼女もにこにこしている。

「え? えっと、そうだね。ちょっとだけ」

「ちょっとですかぁ? でも、最初っからすごく面白いでしょっ?」

「うん……、まぁ」

「うわぁ、なんですか、その反応。あーあ、やっぱりダメかぁ。やっぱ先生の鈍いセンスじゃ楽しめないよねぇ。あはは」

 ただ無言で返した苦笑い。

「ねぇ、先生? ママが来るまで、ちょっとお話しない? 小説のお話」

「え? ああ、ごめんね? 今日はこのあと約束があるんだ」

「えー? もしかして……、女性っ? ……って、萩生先生がそんなわけないかぁ」

 まぁ、本当に女性との会合に赴くのだが、そんなことをわざわざこの子に言う必要も無い。

 僕は『そうだね』と苦笑いのまま嘘の返事をして、それから彼女たちの横をさらりと抜けて学習室を出た。

 物書きは嘘つきだ。

 小説は、すべて『嘘』によって創られる。

 現実にはない『嘘』を語って、読む者の感情を操作する、なんとも腹黒い虚業だ。

 だのに、僕は腹黒く割り切りもできず、この女子高生のように己の小説をなんの躊躇いもなく自画自賛できる厚顔も持ち合わせず、いまだにいつか再び評価される日を夢見ている。

 しかし、それは夢のまた夢だ。

 なぜなら、僕の小説は『読むに値しない安物』だと、かつて世間がそう答えを出したのだから。




「よぉ、意外に早かったなぁ」

「うわ、お前、そんな格好で来たのか」

 約束の店に着くと、すでにカウンター席でくつろいでいた鬼泪山が、ややのけ反りながら僕へ手を挙げた。

 この老舗喫茶店へは、大学生の間よく通った。

 その昔、フォークソングに歌われたような、『学生街の喫茶店』だ。 

 ビルの一階にあることを忘れさせるような、実に落ち着いた雰囲気。

 やや赤みがかったブラウンで統一された店内に佇むと、まるでチョコレートの中に浮いているかのようだ。

 鬼泪山の直近のボックス席では、淡黄色の照明が描き出すテーブルに『予約席』のプレートが立てられていた。

「なんでそんな汚い格好で来たんだよ。相手はお前ご執心の『田原直子』だぞ?」

「汚ねぇだと? よく見ろ。このシャツはブランドものだぞ?」

 鬼泪山はこの『学生街の喫茶店』ではいまも昭和が続いているとでも思っているのか、やはりいつもの四畳半フォークスタイルのまま。

 僕はその格好に呆れながら、『予約席』へ移れと顎をしゃくる。

 実は、この店は、僕ら在籍した大学の文芸サークル、『夏目坂文芸会』の溜まり場だ。

 カウンターの向こうでは、白ひげをたくわえたきゃしゃなマスターが、トレードマークのベストに身を包み、実に爽やかな笑顔で迎えてくれている。

 おそらく僕の母さんより年上。

 ベストは店内の雰囲気によく合うダークブラウンだ。

 店の名前もとてもいい。

 しゃれた文字で『妖精館』と書いて、『アルフヘイム』と読ませる。

 なにやら、マスターが学生時代に大好きだった漫画の中の、思い出の喫茶店の名前をそのままもらったらしい。

 僕らにとっても、たくさん思い出が詰まった、この場所。

 でも今は、僕はこの喫茶店でゆっくりと過ごすことはまず無い。

 月に数回、マスターご自慢のスペシャルブレンドの豆を買いに来るだけ。

「マスター、俺はいつものやつをもう一杯。お前はどうするよ、ショウ」

「恒河沙だ。僕はエスプレッソを」

「そういや、お前、あのバカキャラのモデルが俺だって田原先生に言ってねぇだろうな」

「言ったに決まってるだろ。すごくウケてたぞ」

「はぁ? なんてぇことしやがる」

 そう言って鬼泪山がドサリと席に腰を下ろした瞬間、そのずっと向こうで出入口のベルが柔らかな音を立てた。

 カラン……コロン……。

 何気なく、そこへ目が行く。

 開いたドアを抜けて店へと入ってきたのは、ふたりの女性。

 もしかして、田原さんだろうか。

 ひとりはずいぶん大柄で、柔らかなウエーブがかかった長い黒髪を胸元まで下ろし、一見して高級品と分かるトレンチコートふうのアウターを揺らしている。

 かなりの美人。

 おそらく、僕より年上だ。

 スタイルも良くて、長身がまったく嫌味になっていない。

 もうひとりの女性は下を向いているので顔は見えないが、ちょっと小柄で大人しい感じ。

 なで肩が大柄の女性とは対象的で、柔らかなクリーム色のハイネックシャツに、なんとも垢抜けていないブルージーンズ。

 大柄の女性は立ち止まり、ゆらりと店内を見渡したあと、すぐにその瞳をボックス席の僕へと向けた。

 思わず小さく会釈をする。

 すると彼女は笑顔になって背後のもうひとりの女性に軽く合図をしつつ、僕と相対して座る鬼泪山のすぐ背後まで歩み寄った。

「恒河沙さん?」

 ハッと振り返る鬼泪山。

 僕はすぐに立ち上がった。

「初めまして。恒河沙です」

「やっぱり。まぁ、こんなお若い方だったなんて」

「どうぞこちらへお掛けに――」

 そう言って僕が今まで座っていた席へ彼女を促すと、同時にその聞き覚えのある透き通った声が高らかに響き渡った。

「あぁーっ、あんたっ!」

 ハッとその声へ目をやる。

 え?

 どうして、ここに……。 

 見ると、そこにはずいぶんと馴染みのある顔。

 少しだけ可愛らしい童顔。

 大口は今日も健在の様子。

「なんでここに居るんですか」

「なんでって……、ももも、もしかして、あんたが恒河沙なのっ?」

 朝によく見るその顔は瞳を大きくして、ご自慢の大口に両手を当てている。

 ひとつ結びの、よだれ地味子さん。

 するとすぐにエッセイストが半身をよじって地味子さんを見下ろした。

「あら、、知ってるの?」

「へ? いや、知らないんだけど……、その……、初めましてではない……、というか」

「ふぅん。なにかありそうね。後でゆっくり聞くわ。じゃ、愛加里、座りましょ?」

「うーん」

 ニヤリとした田原さん。

 その愛加里さんという女性をぐいぐいとボックス席に押し込みながら、田原さんは「マスター、『ぬくもり』をお願い」と手を挙げた。

 どうやら、彼女もこの店の常連らしい。

 この『ぬくもり』というコーヒーは、この店で一番有名なマスターご自慢のスペシャルブレンド。

 苦味の中に独特の甘みが残るのが特徴で、この一杯を味わうためにわざわざ隣接県からやってくる人も居るほど。

 田原さんはイギリス文化の人なので紅茶を注文するものとばかり思っていたが、まぁ、『ぬくもり』が相手では本格紅茶も出番なしと言ったところか。

「愛加里はなんにする? 同じでいい? あ、コーヒーはダメだったわね」

「うん。えっと……、ミルクティーで」

 うわ。

 ぜんぜんミルクティーって顔じゃないくせに。

「なによ。いま『お前がミルクティーか』って顔したわね」

「してませんよ」

 電車のときと同じく、その少々可愛らしい瞳が僕を睨む。

 ずいぶんなご挨拶だ。

「ねぇねぇ、愛加里、なんで恒河沙さんを知ってるの?」

「どうしてそんな嬉しそうなの? はぁ……、一度、電車で一緒になったのよ」

 通路側で僕の前に座る田原さんが、パーテーション側で鬼泪山の前に座る愛加里さんを意地悪な瞳で覗き見上げた。

 思わず溜息が出る。

「はぁ……、一度じゃないです。毎朝、同じ電車に乗ってますよ?」

 え? という顔の愛加里さん。

「あああ、あたしは見たことないもん」

「そうでしょうね。あれだけスマホの画面に集中し切っていれば。なんかいつも一生懸命に読んでますよね」

「そ、そんなところまで見てるのっ? ちょっと気持ち悪いんだけど」

「人間観察ですよ。でも、観察しなくても毎日同じ電車に乗ってれば、そのくらいのことは嫌でも目に入ると思いますけど」

 僕の言葉になにも言い返せずに、愛加里さんはぐぬぬという顔。

 ちょうど運ばれて来た『ぬくもり』とミルクティーが、ふたりの前でふわりと湯気を立てる。

 そのカップを手に取り、田原さんが僕を覗き見上げた。

「でも、恒河沙さん? 今日は電車で愛加里を見なかったんじゃない?」

「え? そうですね。確かに今日は見かけませんでした。あ、昨日もか。別の電車だったんですか?」

 クスクスと口に手を当てる田原さん。

 愛加里さんがあわわとのけ反る。

「もうっ、どうしてそんな話するのっ? そのっ……、昨日は休みだったのよ。今日はっ……、えっと……、なんだっていいじゃないっ」

「愛加里? 正直に言いなさい? 寝過ごしたって」

「うううっ、うるさいのっ」

 ぽかんと口を開いている鬼泪山。

 普段なら前傾姿勢で話題を持っていこうとするコイツが、なぜか石像のようにぴくりとも動かない。

 その顔を見て、さらに笑みを増した田原さんは実に楽しそう。

「でもね? 恒河沙さん。私にあなたの小説を教えてくれたのは愛加里なんですよ?」

「わっ、わっ、待って」

 田原さんの言葉を聞いて、突然腰を上げた愛加里さん。

 広げた両手がガタンと音を立てて、勢いよくナプキン立てをひっくり返す。

 ナプキンが散らばりながらテーブルの上で舞った。

「わっ、わっ」

「ちょっと愛加里、なにしてるのよ」

「だって、その」

 どうやら、この人はずいぶんそそっかしいらしい。

 人によってはこれを可愛いと思うんだろうが、僕にはちょっと無理だ。

 それに、ずいぶん気が強そうだし、一見大人しそうに見えるのが余計に悪い。

 愛加里さんの手がナプキンを拾い集めようと伸ばされると、今度はその肘がミルクティーのカップを揺らす。

 思わず僕はハッとして、その肘を押さえた。

「わっ」

「ちょっと、カップをひっくり返しますよ? 大人しくしててください」

「ううう……、ごめん」

 さらに出た溜息。

 その長い溜息を吐き終わらないうちに僕が片付けの手を伸ばすと、愛加里さんの「ふーんだ」という蚊の泣くような呟きが耳に届いた。

 さらに田原さんの笑みが増す。

「あはは……。あ、そうそう、愛加里、本を出しなさい?」

「え? あ、そうだった」

 田原さんに促されて、愛加里さんがトートバッグから取り出したのは一冊の本。

 田原さんの自著、『古くて豊かなイギリスの家たち』。

 やや目を泳がせながら、愛加里さんが僕にその本を差し出した。

 どうやら、愛加里さんは田原さんの付き人かマネージャーのようなものらしい。

「恒河沙さん、どうぞ受け取ってください」

「ありがとうございます。本当に頂いていいんですか? お金、払いますよ?」

「いいの。エッセイスト『田原直子』は、ぜひこれをあなたに読んで欲しいの」

 満面の笑みの田原さん。

 一瞬の間のあと、僕はその本を愛加里さんの手から恭しく受け取った。

 突然、鬼泪山が身を乗り出す。

「おおっ、その本、俺も持ってます。家に対するイギリス人の考え方にすげぇ感動しました」

「まぁ、ジャンパオロさんはイギリス文化に興味がおありなの?」

「はい。大学ではイギリス文学を専攻してたんで」

 前傾姿勢でトークへと参入した鬼泪山。

 やっと、いつもの調子を取り戻した様子。

 それからは、鬼泪山がトークの流れを先導し始めたので、僕は合いの手の専門になった。

 しばらくの談笑。

 他愛ない、物書き談義。

 どうやら、愛加里さんも小説を書くらしい。 

 詳しくは教えてくれなかったが、僕と同じで仕事の傍ら細々と書いているんだとか。

 出版社の公募に出す専門らしく、投稿サイトにアップしている作品はひとつも無いと言っていた。

 この顔でどんな物語を書くのか、ちょっと興味があったんだが。

 その後、田原さんからは『異世界遁逃譚』のことをいろいろと尋ねられた。

 大した話ではないが、世界観やキャラクターの裏設定など、普段インターネット上には公開していない情報をご披露した。

 その間も、愛加里さんのドジは数回。

 バッグから取り出したスマートフォンを手を滑らせて落としたり、足を組み替えようとして膝を思いっきりテーブルの裏にぶつけたり。

 ただただ呆れるばかり。

 その呆れ顔が気に入らなかったのか、愛加里さんはその度に下を向いて、小さく「ふーんだ」と漏らしていた。

「今日はどうもありがとうございました。僕らはそろそろ……。本、楽しく読ませていただきます」

 薄い笑みとともに出た、『楽しく読む』という、優しい嘘。

 正直、僕は鬼泪山ほどイギリスの文化にも文学にも興味は無い。

 見ると、もう時刻は午後十時を回っていた。

 思いがけない邂逅に当惑もしたが、職場との往復しかしない僕にはそれなりに楽しい時間で、まぁ、いい息抜きになった。

 しかし、あの愛加里さんにとってはそうではなかっただろう。

 まさか、それなりに感心して読んでいたという小説の作者『恒河沙』が、よりによってあんな大口を見られたこの僕だったとは……。

「電車、おんなじなんでしょ? 一緒に帰ったら?」

 帰り際、田原さんが愛加里さんへ投げた言葉。

 愛加里さんは、一瞬固まったあと、なぜか顔を真っ赤にして、のけ反りつつ首を振っていた。

「今日は、俺が払うぜ。ショウ」

 どうしたことか、払いはぜんぶ鬼泪山がしてくれた。

 最近はなぜかけっこう金回りがいいらしい。

 まぁ、田原さんの前で格好つけたいんだろうと思って、今日は敢えて甘えることにした。

 彼女らを見送り、マスターともう少し話すと言ってカウンター席へ腰を下ろした鬼泪山を残して、僕は独りで馴染みの通りへ出た。

 見上げると、空はもう秋星座の独唱会。

 ちょっと普通なら考えられないかもしれないが、僕は敢えて彼女たちに本名を言わなかったし、プライベートな連絡先の交換もしなかった。

 今日のことは、これでおしまい。

 田原さんとは、明日からまた顔の見えないSNSユーザー同士。

 愛加里さんとも、同じ電車に乗り合わせるだけのアカの他人。

 変に彼女たちにぶら下がって、業界が目当てで接近したなんて思われたくない。

「少し肌寒くなったな」

 そうひとりごちて、僕はしんとした夜の空気を吸い込みながら、ビル群に切り取られて窮屈そうにしている秋の星空を見上げて、とぼとぼと駅を目指して歩き出した。

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2024年11月6日 17:15
2024年11月9日 13:15
2024年11月13日 17:15

ぬくもりは珈琲色 ‐物書きは嘘つきのはじまり‐ 聖いつき @studiotateiwa

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