過去と夜明け 5

 車窓から見える景色が明るくなり、私は目を覚ました。どうやらつり革に掴まったまま少し眠ってしまったらしい。そんな器用なことができたのか、私よ。

 なんだか、懐かしい夢を見ていた気がする。暖かくて、切なくて。同時に、急かされるような気持ちになる。何かしなくちゃいけなかったような。でもそれがなんなのか、もう分からなくなっていた。

 逡巡していた私は、目の前の座席に座る高校生くらいの女の子と視線が合ってしまう。何故だか不思議と目を逸らせず、彼女もまた私の方をじっと見つめていた。

 このあどけなさ、どこかで。そして、何かに似ている。すると急に女の子が立ち上がった。身を引いた私に向けて、彼女はポッケからハンカチを取り出してこう告げる。

「大丈夫ですか? 具合、悪いんですか?」

 何が? と聞こうとした私の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

「あれ、あれ? ごめんなさい、私、どうして………」

 私は言いながら、流れてくるとめどない涙に困惑する。紺色のブレザーがぼやけた視界の端で滲んだ。

 そうだ、私、こんな制服をさっきまで着ていた。そしてもう一人、私の傍に居たのは…………。

 その瞬間、耳鳴りが消えたようにはっきりと私は全てを思い出した。

 そうだ。凛、ごめん。ごめんね。言いたかったことがあったのに、夢の中でさえ言えなかった。あの日から始まった悪夢に、私は決着をつけることができなかった。

 顔を手で覆う。悔しくて虚しくて、溢れる涙を抑えられなかった。どうして、どうして間に合わなかったの。合理性を欠いた私の後悔は、いつだって消えない傷をただなぞっているだけだった。

 気遣って私と一緒に電車を降りてくれた彼女は、私の手をぎゅっと握りしめて告げる。

「大丈夫ですよ。大丈夫、大丈夫………」

 泣きじゃくる大人の私を彼女は懸命になだめてくれた。凛のように、優しい笑顔で。変えられなかった過去の夢を、私はどうして見てしまったのか。

 ――――そうだ。過去を過去のまま終わらせてはいけない。あんな後悔は二度としたくないんだ。

 私は涙を拭ってスマホの画面を明るくする。見慣れた通話アプリの中、あの日消せなかった彼女の名前にもう一度触れた。向井凛。私の中で懐かしさが再び広がっていく。

 非表示の欄から再び現れた彼女のメッセージ、数十件。『連絡して』『どうしたの?』『私、なにかした?』『ねぇ、おねがい』

 胸がカッと熱くなる。急いで通話に切り替え耳にあてがう。彼女が電話に応えるかどうかよりも、しゃくりあげる声が上手く出るか、そんなことが気になってしまった。咳払いして喉を整え、鼻水をすすって白い息を吐き出す。

 ……………しかし、スマホは単調なリズムを取り続け、しばらく経ったが通話は繋がらなかった。固まってしまった同じ画面に映っているのは、二人が好きだった黄色い熊。涙の伝う頬が赤く上気する。

 ………あぁ、そうだよね。もう何年も前だもん。

 雲の切れ間から青空を仰ぎ見た。線路の脇をひたすらに車が通り過ぎ、寒風にのって私の濡れた目元がひりひりと傷んだ。会社、遅れちゃうかも。メイクし直さなきゃ。私が夢から覚めたような気持ちになった時。



「――――ちゃん、聞こえる?」



 風の音に混じって声が聞こえた。握りしめていたスマホを驚きで落としそうになる。



「もしもーし………あれ……?」



 耳にあてがったまま、私は声が出せなかった。目一杯堪えたけど、涙がどんどん溢れ出てくる。聞きたかった声。私の、私の大事な親友。

「凛ちゃあん………!!」

 必死に出した声は、恥ずかしくて死にそうなほど大きかった。じゃないと、言葉にならないと思った。

「聞こえた、どうしたんよ急に。………あ、ていうかちょっと、ねぇ! その前に私に言うことがあるじゃろ?!」

 凛は、変わらない。変わらずにいてくれた。よかった。ほんとによかった。

「ごめんねぇ………」

「……………まったくもう。いいよ、水に流しとく。私、ずっと待ちよったんよ」

 彼女の笑顔が手に取るように分かった。どうしようもないくらい優しくて、ちょっとつらい。私はさらに謝った。

「ずっと、友達でいたかったのに、私………ごめんね」

「知っとるけえそんなこと。………だって言ってくれたじゃん、あの日。『凛、私と友達になって! 絶対後悔なんてさせないから!』って。いきなり名前呼びじゃし、ふふ………今でも覚えとるんよ」

 鈍色の校舎、玄関口で、私は言ったんだ。凛に、言えてたんだ。これからもずっと友達でいたいこと、後ろ向きじゃなくて、お互いが惹かれ合うように結びつくこと。

「凛、ごめんね」

「もうええけえ。………ね、今度会おうよ。久しぶりに顔みたいけ」

「………うん、私も会いたい………」

 何度も何度も頷いて、私はやっと笑顔になれた。ひさしの付いた路面電車の小さな駅の中、今まで燻っていた胸の中の暗い影が、照らし出された朝日によってさらさらと払われていくようだった。


 あれが夢だったのかは今でも分からない。でも、過去の自分に戻れるとしたら、私はやっぱり、今日みたいな日がいいなって、そう思った。

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