小さなコインを大きく取り逃す話

山本楽志

第1話



 螺子は身をかがめて、縫うように人混みを通り過ぎてゆく。呼び名の由来の大きな頭を、目深にハンチングをかぶり、深鼠色の髪ごと内に詰め込んで。

 ただでさえ小柄なうえに、前傾姿勢で闇雲に駆けていては、通りの人々と、特に追い越し際に出合い頭で衝突しそうなものだが、そこは慣れたもので帽子のつば越しに小粒の瞳がきらめき、見抜いた隙間へ大胆なステップで確実に踏み込んでゆく。

 美術館と公園の間の通りは自動車侵入禁止で、鉄道へと向かう裏道にもなっているため、山手へと向かう勾配があるにもかかわらず平日でも露店が立ち並んで混み合っている。

 夕暮れが迫りだすと、家路へと急ぐ勤め人も増えて、狭い路幅が一層ごったがえす。公園の柵を越えて迫り出す古木の枝や、高台に建つ美術館の外壁が影を落として、街灯がまだ点らないこの頃は、いち早く黄昏の様相を呈している。

 特に通りを下りきった先に広がるルナパークから、一足早いネオンのイルミネーションが立ち上がってくると、なおさら周囲の蔭りは濃さを増してゆく。通行人の顔もほとんど確認できないほどだ。

 螺子にとってみればおあつらえ向きの状況ではあったが、あいにくと彼は一度にこなす仕事は一件だけと決めている。

 そうして、無防備そうな無数のシルエットたちがひしめくなかをすり抜けて、坂道を上がりきったところで、ここだけは煌々と明かりのもれる楽器店の角を曲がって路地に入った。

 螺子はさらに一ブロック進んでビルディングの合間に身を滑り込ませた。ここからだと楽器店の、満月のような円形のボディのバンジョーがライトアップされているショーウインドーの橙色の明かりも届かない。

 左右の外壁を越えて望む狭い空は藍色に満たされつつある。

 楽器店からはファドの歌声が路地を伝うようにして洩れ聞こえてくる。哀調のこもった生歌は遠い波濤か草原を渡る風を思わせる寂寥感を聴いた者の胸に熱く起こさせる巧みなものだったが、螺子の耳に入る頃にはかすかなものになっているし、彼にとってみれば自分の気配を消してくれる便利な音以外のものではなかった。

 それよりも螺子のお楽しみは別にある。

 路地の薄暗がりの中、それまでの仏頂面が不意にゆるむ。その笑みは案外とあどけない。

 胸元のポケットからシガレットケースを取り出して一本つまみ出すと、マッチを擦り上げて火をつけて、肺をニコチンと淡いミントの香りで満たす。

 くわえ煙草で深めに拵えられたズボンポケットをしばらくごそごそとまさぐり、引き抜いた左手をマッチの灯りで照らした。

「……っ!」

 けれども、たちまち笑みは消えて、下唇が突き出てへの字に結ばれ、眉間には皺が刻まれる。


 巾着切りという呼称を螺子は好まない。

 自分は財布は狙わない。別の獲物があればそちらをいただくし、なにより繋ぎ留める紐を切ったり衣服に穴を開けたりするような不細工な真似は嫌悪している。あくまで自分の手先だけを武器に刹那の判断で標的の懐をあさることが華だと思っている。

 ところがその研ぎ澄まされた頼りの指が、その日掏り取ったのはとんだ見当違いだった。

「なんだ、これ?」

 指の腹が伝えた感触は懐中時計のはずだった。けれども実際にチェーンからぶらさがってマッチの灯りで確認できたのは単なるロケットだった。

 大きさこそそれなりにあるものの、明かりにかざしてしっかり手にしてみれば、重さからして歯車や発条ゼンマイのぎっしり詰まった機械式時計と違いは歴然だ。

 円形の蓋には三日月を模した細工が施されている。三日月は老人の横顔になっていて、それが皺を深く刻んで狡猾そうに笑っている。彫りは細かく、素材も真鍮製だったが、頭が懐中時計でいっぱいの螺子では冷静な値踏みができない。

 呆然と収穫を眺めるうちに、炎はマッチの軸にまで伝わってきて、あやうく指を舐めかけた。

「あつっ!」

 螺子は咄嗟にマッチを投げ捨てると、はずみで左の手も振れて、握ったロケットの中からカランという何か物の打ち当たる金属製の音が響いた。

 どうせ中身は写真だろうと決めつけていたものだから、少なからず意外で、螺子はそっと開いてみた。

 口金がピーンと音をたて、蓋の隙間から青白い光がふわっと漏れ出たが、ほんの一瞬のことで後にはなにも続かない。

 そして中にはたった一枚コインが入っているだけだった。

 薄闇の内でつまみ上げてみれば、拍子抜けするほどに軽い。せめて金ならと、抱いていた淡い期待はたちまち霧散する。

 ロケットにぴったり収まる造りといい仰々しいが、かえって出来過ぎている。オモチャのたぐいと考えるしかないだろう。

 煙草の火が暗がりで小さく上下する。

 螺子はしばらく考えて、どのみち考えなくても同じだったが、行く先を決めた。


 映画館キネマ向こうの大きめの通りから上町台地を改めて下る。

 物陰から出てみれば、まだ日は落ちきっておらず、ふらふらと飛ぶこうもりもはっきり見える。片側二車線の国道に面した、事務所の入るビルディングの多いこちらの通りは、むしろ公園前より人影が少ない。

 行き過ぎる無数の自動車のヘッドライトを向かいに受けながら新しく火をつけたタバコをくわえていると、先ほどのロケットを掏った相手が思い出され自然に舌打ちが洩れた。

 のっぽな割に肩幅の狭い、ひょろりとした男だった。螺子は標的を定める際に顔を見たりしない。顔を見れば自分の顔も見られるおそれがあるからだ。だからその時も、人ごみの中からひとつだけ飛び出した頭が、山高帽をかぶってふらふらと揺れているのがなんとなく無性に癇に障って、考えるよりも先に手が動いていたのだった。

 そのうえでいただいたものが、わけのわからないオモチャのコインとあっては、男の心象は最低にまで落ち込むばかりだ。

 台地をなかばまで来たあたり、建ち並ぶビルディングの左右と比べてもさして際立った特徴があるわけでもない一つ、その玄関脇に直で地下へと通じる階段に螺子は迷わず足を踏み入れた。

 自らの影でほとんど先が見えない、途中ですれ違うこともできないような狭い段をそのまま十ばかり下ると、左手になんの装飾も看板も施されていない扉が設えられている。

 螺子は迷いもなくその無骨な鋼鉄の扉をノックすると、ガチャリと錠の開かれた音が響く。

 そこには新たな壁が立ちはだかっていた。そう思えるほどの巨漢が、スーツ姿で扉枠いっぱいに身をそびえさせていたのだ。その巨漢は、ごつごつとこぶがちの瞼の奥から螺子を見下ろすと、なにもいわずに脇にそれた。

 するとたちまち淡い明かりが螺子を出迎えた。扉と巨漢の奥はさらに一階分は掘り下げられていて、そこからほとんどフロアの様子をうかがうことができた。

 煉瓦で囲われた地下広間は賭博場カジノになっている。もちろん合法なものではない。ルーレットが一卓中央に大きく据えられていて、その他はすべてカードだ。シェードを深めに被せられた照明のもとで、平日の黄昏時からタバコの煙とボサノヴァの音色にまぎれて色々な職種の人間が集まってきている。

 バカラやポーカーを冷かしながら、客の合間をすり抜けてゆく。螺子はカードには興味がない。わずらわしくてルールを覚えきれないのだ。だからといって、もちろんこんなところで仕事はしない。目当ては壁際だった。

 カジノの最も奥まったそこには一人の男が立っている。他の卓同様、揃いのシャツにベスト、ズボンを身にまとったディーラーだ。ただしこの一角だけは客がいついていない。

「おや、こんばんは、本日もお越しですか」

 男――ここではカケスで通っている――は喉の奥から震えるしわがれた声で、螺子が目の前に来ると深々と頭を下げた。

 白々しい。

 螺子が入店したことなど、扉が開いた時点でお見通しなのだ。カケスは螺子もそういう事情を察していることを重々承知のうえで、芝居がかった調子で応対してくる。

 短く口ひげを刈り揃えたカケスは肩幅ほどの小振りのテーブルを前にして、その上にカップを置いている。

 螺子は黙ってそのカップの隣に、乱暴に先ほどのコインを叩きつけた。

「これは?」

 肩を竦めて質問に答えてみせる。せいぜい箔をつけたつもりだったが、そうとしか反応しようもなかった。

 チップを全て擦ってしまったものが最後に泣きついてくるのがカケスだった。

 カップに入るものなら時計、指輪、ネックレス、自動車のキーに運転免許証など、なんでも引き受けてチップに替えてくれる。

 夜も更ければ修羅場が定番となるテーブルではあったが、宵の口にも満たないこの時間帯では逆に誰も寄りつこうとしない。

 例外はこの螺子で、掏り取った品を持ち込んでは元手にしていた。この時も、先ほどのオモチャのコインでそれを試みようとしていたのだった。

 短い間だったが、ためつすがめつしてカケスは、大きく1と浮き彫りにされた白色のチップを一枚だけ示した。この店での最低単位だった。

「カップの数はいくつになさいますか?」

 この時点でチップはまだカケスの目の前にある。ここで一つを選択すればチップはカップで一旦隠されて、そのまま前に、螺子へと差し出される。

「四つ」

 けれども数を増やすと、そのうちの一つにチップを入れてシャッフル後、どこに入っているか当てられたらカップの数に応じた倍率のチップが渡され、外れればそのまま没収となる。

「それでは。まず、わたくしはこの両手以外の体の部位は使用いたしません……」

「いいよ、そんなのは」

 これまで何度も聞かされたカケスの開始前の口上だった。要するにイカサマをしていないことを宣言するものだ。そんなものは聞くだけ無駄だった。

 カケスのことを信頼しているわけではない。螺子は当然イカサマは行われるものだと確信している。どうしてと問われても、そういうものだからとしか答えられないし、そうと考えない方がどうかしている。

 そんなことよりも問題なのは、螺子がカケスのそのイカサマを一向に見破れないことだった。

 カケスが両手を開いて、白い手袋を着けている以外何も持っていないことを示して、そして小さなテーブルにさらに三つのカップを置いて、計四個が縁を下にして準備される。カケスはそのうちの一つを開いて見せ、中のチップを確認させて再びカップを閉ざす。

 それから四つのカップを、縁はテーブル面に伏せさせたまま、位置を入れ替えてゆく。はじめのうちは一つずつ、それもかなりゆっくりと。だが次第にその動きは速くなってゆき、カップも二つが、時には三つどころか四つ全てが同時に動いているようにさえ見えるようになってくる。

 カケスの手さばきはかなり水際立ったものだった。けれども、それだけならば同じ手を使う仕事をしている螺子が後れをとるはずがなかった。にもかかわらず戦果は思わしくない。いつも負けているわけではない。むしろトータルでいえば勝ち越しているだろう。ところが、ここ一番というところでは、螺子の予想はことごとく裏をかかれた。つまり、勝負は全てカケスの思惑通り運んでいるということだった。

 おもしろくない。

 なんとしても一杯食わしてやりたかった。

 その一念で、定住を好まない螺子が、もう三ヶ月も同じ町で仕事を続けている。

 それがよくないことくらい螺子も承知している。だから今日も、今日こそはと思い立って、一心不乱に目まぐるしく位置を替えるカップを見つめている。

 やがてカケスの手が止まると、カップも動きをやめ、シャッフルをはじめる前と寸毫の狂いもなく整列する。

 カケスはこれ見よがしに懐中時計のカバーを開けて、テーブルの上に置く。ここから一分間で螺子はチップの入るカップを当てなくてはならない。選択は一度きり。考えている間は、カップはもちろん、テーブルに触れることも許されない。

 螺子はその大きな頭を極限までカップに近づかせて、眉を寄せどんぐり眼を見開き、四つのカップをにらみつける。

 答えは二つにまで絞りこまれていた。最後の一手を真剣に考え、やがて結論を出した。

 螺子は黙って向かって左から二番目のカップを持ち上げた。直前のすり替えを行わせないために。

 ところがそこにあるはずの白いチップはない。愕然とする間もなくカケスがその隣の、右から二つ目のカップを開いて見せた。それは螺子の候補になかったカップだった。

「ありがとうございました」

 手早くチップを回収するとカケスが鷹揚に一礼する。

 さっと螺子の頭に血が上りそうになるが、辛うじてそれは抑えられた。このために、わざとコインとロケットを分けていたのだ。ジャケットの内ポケットから真鍮製のケースをつまみ出すと、それをテーブル上に置こうとしたところで、不意に右手首が掴まれた。

 突然のことに螺子は一瞬判断が遅れた。その間に右腕は捻り上げられて、椅子に掛けていられなくなった。まるで抵抗できず肩に激痛が走り、思わず手が開いて長いチェーンから流れるようにロケットごと床に落ちた。

 するといとも無造作に螺子は腕ごと打ち捨てられもんどりうった。

 痛みに声も出せず倒れていると、その目の前を悠々と屈んでロケットをつまみ上げる手が伸びてきた。その顔には見覚えはなかったが、スーツの腕や胸元、そしてかぶった山高帽は記憶にあった。

 ロケットを掏り取った男に違いなかった。

 カケスのカップさばきを目で追うのに夢中で、賭博場に入ってくるのにまったく気がつかなかったのだ。

「これは、そこの小僧に盗まれたものでね」

 男はカケスに説明する。

「それはお気の毒なことでございます」

 目の前での乱暴なやりとりなどまるで気にもならないという口振りだ。

「中に一枚コインが入っていて、こちらに預けたようなんだが、引き取らせてもらえないかな」

「こちらでございますでしょうか」

 つい今しがた螺子が負けた質草なのだから、こちらもなにもないだろうが、確認するかのようにテーブルの上を前に差し出した。

「ああ」

 男が手を伸ばす機先を制して、カケスはコインをカップで蓋をした。

「いくらかな?」

 説明を求めることもなく、男はそうたずねた。

「紫のチップで一枚となります」

 即座に男が指をならすと、フロア係がすぐ駆けつける。クレジットカードが差し出され、係が一度奥に引き込みまた戻ってきた際には、大きなトレイに紫のチップとカードを載せて恭しく運んできた。

 痛む腕を押さえつつ、螺子はその一連の光景をあっけに取られて見ていた。

 紫のチップはこのカジノの最高額にあたる。最小の白チップと交換した――それさえ回収したカケスの吹っ掛けっぷりに驚かされたのもあったが、それ以上に男が黙ってクレジットカードを預けたことには目を白黒させずにはいられなかった。

 男は受け取ったばかりのチップをぞんざいにテーブルに置くと、その手のひらをカケスに見せ、次はそちらの番だとばかりに示した。

 しかし、カケスは例のコインの入ったカップを開けることもなく、

「恐れ入りますが当店はすべてのお客様にゲームを楽しんでいただいております」

 慇懃にそう伝える。

「わかった」

 男は静かに席につく。

「だが、付け加えることがあるなら、今、ここで全ていっておいてもらえるかな。次は聞かんよ」

 けれども念を押すことは忘れない。

「失礼いたしました。お客様ご指定のお品をこちらに、お客様のベットされるチップをこちらに」

 カケスはもう一つカップをテーブル上に取り出して、紫のチップも隠してしまう。

「これらをシャッフルいたしまして、お客様のお望みの品を当てていただくという他愛ないものでございます」

 三度カップの場所を入れ替えて、カケスは男から向かって右のカップを開ける。そこには螺子の掏り取ったあのコインが入っていた。

「ただし、ここに何も入っていないカップを最低ひとつは含ませていただきます」

「なるほど」

 うなずきの後にしばしの沈黙が流れる。カケスとしてはここで空のカップについての抗議が当然あると待ち構えていた。けれども前の男は長い脚を組んだまま、顔色にさえ不服も周章も表してはいなかった。

「よろしいでしょうか?」

「そちらこそ説明は終わりかな?」

 無反応に堪えかねてたずねたカケスが逆に質問される有様だった。

「もう一つだけ。カップの数はいくつになさいますか?」

「上限は?」

「六つ。チップとお求めのコインの入った二つと合わせて八個となります」

「ではそれでいこう」

 やはり逡巡の間などなく即決だった。

「ゲームは最大限楽しむ主義でね」

 だが、その言葉とは裏腹に、山高帽の陰の奥の顔は億劫そうに口も目も線を描いているだけだった。


 この男は馬鹿なのか?

 小さなテーブルに所狭しと並べられた二列のカップの群れを見て、螺子はそう思わずにはいられなかった。

 数が少なければ少ないほど当たりやすくなるのは子供でもわかる理屈だ。それをわざわざ自分から不利にしてどうなるんだ。

 それとも多くのカップを扱うのにもたつくとでも思っているのだろうか。なら見当違いも甚だしい。

 これまでさんざんやりこめられてきたカケスの技量が安く見積もられたと思うと、螺子の矜持も大いに傷つけられたように感じた。

 だが、そんな螺子の内心をよそに、カケスの手で八個のカップはテーブルの上でまさに縦横無尽の動きを見せていた。

 単純なシャッフルはもちろん、列全体を横滑りさせたり、手首を使い四つのカップが九十度回転する。さらに時折カップ同士を重ねて、小さな塔を作って見せたりもする。目まぐるしくカップは一ヵ所に留まることがない。

 そのなかには螺子が目にしたことのない動きもたくさん含まれていた。

 男の肩越し――からは身長が足りないので、わきからのぞき見るようにしていたが、ちらりと横目で傍らの当人を確認してみても、どっしりと腰を下ろしたまま身を乗り出すでもなく、それどころかカップの動きを追っていないのも明らかで、ただ鷹揚にカケスのシャッフルを終えるのを待っているだけだった。

 本当に馬鹿か。

 再び、今度は確信を強めて脳内で罵った。自分でさえついていくのがやっとの動きを、そんな悠長に構えて捉えられるわけがないだろう。

 とうとうカケスが手を止めるまで、男は態度を崩さなかった。

「どちらになさいますか」

 テーブルのカップはあたかもシャッフル前と何も変わっていないかのように、列をなしている。

 螺子はその八つのカップを正面から見据えて、眉間に皺を寄せていた。

 二つにまで、また二つだ、絞れてはいた。向かって右奥か手前の左端。その二つしかあり得ない。そこにカジノの最高額の紫のチップと、男が持っていたオモチャのコインが入っている。しかし、どちらがどちらかはわからなかった。

 考えれば考えるほどに身をせり出して、どんどんとカップにハンチングのつばがつきそうなほどに接近してゆく。

「お客様の考えの妨げになりますから」

 苦笑してカケスがそう制しようとしかけたところで、

「かまわんよ」

 男は長い腕で背広の裾が螺子の顔を擦るようにして、ぞんざいに一つのカップを指さした。

 それは手前の列の向かって右から二番目だった。

――よりにもよって!

 螺子はあやうく吹き出しかけた。それはカップの中でも最もあり得ない、絶対に指してはいけないものだったからだ。

「こちらでよろしいですか?」

 カケスの表情は変化がないようだったが、毎日のように向き合っている螺子は、その唇の片端がほんのわずかに吊り上がっているのを鋭敏に見て取っていた。

「ああ」

「後学のため、理由をおうかがいしてもよろしいでしょうか?」

 わざわざそんなことを聞いてくる。はずれていることが明らかになった際に恥の上塗りをさせようという魂胆だ。

「なに、一番持ち帰りやすい位置だと思ったからさ」

 螺子はすっかり嬉しくなってしまった。

 男はカケスの思惑にまったく気づくこともなく取り澄まそうとしている。

 いざカップの中身がからっぽだと知ったら、いったいどんな顔をするだろう。それまでの印象が悪かった分、愉悦が腹の底から湧き上がってくる。化けの皮が剥がれる瞬間を見逃すまいと、螺子は露骨に視線を男に注いでいた。

「それでは御自身の手でカップをお開きください」

 これもまたカケスの悪趣味な趣向とも知らずに男の腕が再度伸ばされる。螺子はカップの方は見ていなかった。見る必要もなかった。だってそれははずれているのだから。

 けれども期待した絶望と羞恥に歪んだ顔が現れることはなかった。

 かわりに、

――ひゅぅ

 息を飲む音が、思いもしなかった傍ら聞こえてきた。

 咄嗟に螺子がそちらに引きつけられる。

 そこには驚嘆に目を見開き、小鼻を大きく膨らませたカケスの顔があった。

 つられるようにして、カケスの視線の先、開かれたカップにようやく螺子もたどりつく。

 男の手もと、カップの内には、紫のチップを敷いて螺子の掏り取ったオモチャのコインが重なって鎮座していた。

 カケスの当惑は混乱にまで至っていた。ありえないことが起こっていた。カップは既に彼の手の一部、指先の延長だった。その内側にあるものを見失うことなど、ましてや二つもなんてことがあるわけがなかった。

 だが現実は目の前の通りだ。

「楽しませてもらった」

 そう男がいってチップとオモチャのコインに手を掛けたところで、カケスは我に返った。

 イカサマだと声をかけるチャンスはここしかなかった。しかしカケスにもプライドがある。その手段もわからずに、店側としてのアドバンテージだけを使い、ゲームを無効にすることには抵抗があった。

 結局、

「お見事でございました」

 それまでの狼狽などどこ吹く風とばかりに、カケスはまなじりを下げ口角を思い切り引き上げた笑みを再び顔面に張りつけて、深々と男に頭を下げた。

 考えてみれば、オッズのある賭けではないから、店に損害を与えたわけではない。深追いはむしろ藪蛇になるおそれの方が強かった。

 そうしてカケスが再び顔を上げると、山高帽の男は既に姿を消していた。

 ひとつため息が洩れる。と、同時に、あのいつもちょろちょろと絡んでくる小僧もいなくなっていることに気づいた。


 カケスが頭を下げるなり、山高帽の男は腰を上げると扉に向けて歩きだした。

 その足取りは大股で、先ほどまでの鷹揚な態度とは打って変わり、急ぎ足になっている。

 それをじっとうかがい、螺子は後を追って小走りに駆けた。男はわき目もふらず一目散で、それはつまり、ポケットにまだ賭博場で最高額の紫のチップが換金もされずにしまわれたままということだった。

 店を出て傾斜が急で幅の狭い階段をせわしなく上っていく。すぐ後ろで螺子がつけているのもまったく気づかないようだ。

 螺子は高揚していた。男のチップを掏れば、それはカケスの鼻も同時に明かしてやったことにもなる。それを見せつけて、今度こそカップも当てて、持ちきれない金を手に入れて、この町を後にしてやるんだ。

 自分の全財産のボストンバッグ。すっかり手垢にまみれて、あちこちすり切れた年季の入ったそれが札束でぱんぱんになっている姿が、目の前に浮かんでやまなかった。

 男の懐から目的のものをいただくことには、まったく不安はなかった。

 なにしろ一度成功しているし、国道をあわてて上る背中は、先ほど以上に隙だらけに見えた。

 だから追い越しざまに手を伸ばせばわけなく、

――ボカン!

 ところがそれよりわずかに早く、男は振り返って立ちふさがると、大きな拳を螺子に見舞ったのだった。

 まったくの不意打ちで、顎を殴られると反動で頭も勢いよく振れて、脳震盪を起こしながら螺子はごろごろと数メートルを転げてしまった。

「またお前か」

 上背があり、おまけに坂の上部にいるから、見下ろす男と目を合わせるには自然螺子は振り仰がねばならなかった。

「しょうこりもなく、またこれを狙いにきたのか」

 懐をまさぐると一枚の硬貨をつまみ出した。それは例のオモチャのコインだった。

『違う!』

 否定をしようとしたが、朦朧とした頭で舌ももつれて、短い言葉でさえうまく出てこなかった。

「ふむ、しかたないな」

 男は頭上を振り仰いでつぶやいた。ようやく日も落ちて空はインク壺をひっくり返したような闇をまとっていた。

「本来なら、もっと上でなければならんのだがな」

 男はいうなり、コインを右手で握りしめると、ベースボールの投手よろしく振りかぶって放り投げた。

 ぺたんと地面に腰をついてままの螺子は、あっけにとられてその姿を見ているしかなかった。

 わざわざカジノにまで乗り込んで、大枚をはたいて取り返したものの扱いとしては、あまりにもぞんざいだったからだ。

 そうなると忌々しささえ覚えたコインの行方が気にかかり、目で追わないわけにはいかなくなった。

 男が投げたコインはそれほど力強いようには思えなかったのに、放物線を一切描くことなくまっすぐに飛んでゆき、見る見るうちにその姿を小さくしていって、やがてマッチ棒の先端ほどにも満たなくなったところでびたりと空に張りついたように動かなくなってしまった。

 あんぐりと口を開けたままの螺子は、なんとなくそのままコインが落ちてくるだろうと待ち受けていたが、どんぐりのようなその目をひとつふたつと瞬かせてもコインは元の大きさに戻ることもなく張りついたままで、するうちその周りをあわてたように似たようなきらめきが取り巻きはじめて、暗幕のようだった夜空を無数に飾り立てていった。

 ようやく螺子はあのコインが一番星だったのだと知ったのだった。

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小さなコインを大きく取り逃す話 山本楽志 @ga1k0t2

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